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小説 『認知の砦』── 見えない爆弾と、愛の脆さ ④


第二章:システムの中の自由、あるいは「悪」の体験

4. 貧困は差別へと


冬の時代のゲーミフィケーション

 『Ministry of Truth(真理省)』のリリースから三日が経過した。

 この三日間で、ゲーム内の仮想国家だけでなく、現実の若者たちの認識(リアリティ)にも、不可逆的な亀裂が入り始めていた。

 だが、本当の地獄はここからだった。

 カイとサラが設計したゲームデザインには、プレイヤーを絶望の淵に立たせ、人間の尊厳を問う「後半ステージ」が用意されていたのだ。

 ステージ4:『大不況(The Great Depression)』

 都内のアパートで一人暮らしをする大学生、ケンタ(21歳)は、深夜のバイトから帰宅し、冷めたコンビニ弁当をかきこみながらスマホを起動した。

 就職活動は全滅。奨学金の返済への不安。そして、連日ニュースで報じられる物価高騰と増税の話題。

 ケンタにとって、このゲームの「不況シナリオ」は、決して他人事(フィクション)ではなかった。画面の中の荒廃した街並みは、彼の心の風景そのものだった。

 画面には、悲痛なステータスが表示されている。

 【経済指標:崩壊寸前】

 【失業率:25%】

 【国民の不満度:限界突破】

 ケンタは、これまでのステージと同じように「政府批判」のデマカードを切った。

 『政府の無駄遣いを許すな』

 『政治家は貴族のような生活をしている』

 しかし、スコア(社会混乱度)は微動だにしなかった。

 『Effect: MISS... 国民は疲れ切っています。抽象的な政治批判では、もう彼らの心は動きません』

 「マジかよ……」

 ケンタは焦った。このままではゲームオーバーだ。

 暴動を起こさせなければならない。社会を壊さなければならない。そのためには、もっと強い、もっと直接的な「刺激」が必要だ。

 その時、画面が暗転し、不気味な赤黒い光とともに、新しい選択肢(コマンド)が解禁された。

 【緊急プロトコル解除:スケープゴート(生贄)戦術を使用しますか?】

 そのカードには、具体的なターゲットが描かれていなかった。ただ、黒いシルエットと、そこに向けられた無数の指差しマークが描かれているだけだ。

 説明文にはこうある。

 『国民の不満の矛先を、政策ではなく「特定の人々」に向けさせます。効果:絶大。倫理コスト:最大。』

 ケンタの指が止まった。

 嫌な予感がする。しかし、彼はそのカードをタップした。

 「ゲームだろ? クリアしなきゃ意味がない」

 そう自分に言い聞かせて。

禁断のコマンド「スケープゴート」

 カードを選択すると、さらに具体的な「標的」を選ぶサブメニューが現れた。

 A:生活保護受給者
 (彼らは私たちの税金でパチンコに行っている、という物語)

 B:外国人労働者
 (彼らは私たちの仕事を奪い、犯罪を犯している、という物語)

 C:性的マイノリティ
 (彼らは伝統的な家族の価値を破壊しようとしている、という物語)

 どれも、ネットでよく見る言説だ。見慣れた、ありふれた「意見」だと思っていた。

 しかし、こうして「効率よく社会を燃やすための選択肢」として並べられると、そのグロテスクさが際立つ。

 ケンタは迷った末、Bを選んだ。

 最近、近所のコンビニ店員が外国人ばかりになり、なんとなく疎外感を感じていた自分の感情とリンクしたからだ。

 「実行」ボタンを押す。

 ケンタは、ゲームが自動生成したフェイクニュースのタイトルを見て、息を呑んだ。

 『【緊急拡散】移民グループが日本人居住区を襲撃計画? 警察は黙殺!』

 『あなたの給料が上がらないのは、彼らが安く働くせいです』
 『彼らは私たちの国を乗っ取るつもりだ』

 拡散(ウイルス)は、爆発的だった。

 これまでとは比較にならない速度で、画面上の群衆アイコンが真っ赤に染まっていく。

 今まで「無関心(グレー)」だった層までが、一斉に反応し始めた。

 『許せない!』
 『出ていけ!』
 『日本を守ろう!』

 スコア(支持率)のカウンターが、壊れたように回り始めた。

 +10,000... +50,000... +100,000...

 ドーパミンが脳を直撃する。

 すごい。なんて簡単なんだ。

 複雑な経済政策を論じる必要なんてない。

 ただ、「あいつらが悪い」「あいつらのせいで君は苦しいんだ」と囁くだけでいい。

 それだけで、人々は狂ったように熱狂し、団結し、そしてプレイヤーである自分を「真実を語るリーダー」として崇め奉ってくれる。

 しかし、その快感の裏で、画面上のグラフィックには変化が起きていた。

 街のアイコンから火の手が上がり始めたのだ。

 暴動。略奪。放火。

 そして、画面の隅に小さく表示されるニュースティッカー(電光掲示板)。

 『外国人学校に脅迫状』
 『路上で外国籍の男性が集団暴行を受ける』
 『「お前も仲間か」と日本人同士の監視が始まる』

 ケンタは、スマホを持つ手が冷たくなるのを感じた。

 これは、俺がやったことなのか?

 いや、俺はただボタンを押しただけだ。

 俺はただ、ゲームをクリアしたかっただけだ。

 「……なんでだよ」

 ケンタは独りごちた。

 「なんでみんな、こんなに簡単に人を憎めるんだよ」

剥奪感という名の火薬

 地下の研究室(ラボ)では、サラがモニターに映し出される膨大なプレイデータを凝視していた。

 彼女の表情は、怒りとも悲しみともつかない、冷徹な諦念に彩られていた。

 「ステージ4の到達率、80%。そのうち95%のプレイヤーが、『スケープゴート』戦術を選択しました」

 「予想通りだな」

 カイが応じた。彼もまた、苦い顔をしていた。

 「経済的な困窮(エコノミック・ディストレス)は、認知戦における最強の増幅装置(アンプ)だ。人は腹が減り、未来が見えない時、最も簡単に理性を手放す」

 サラは、一つのグラフを拡大表示した。

 それは、「プレイヤー自身の年収・社会的地位」と「差別的コマンドの選択率」の相関図だった(このゲームはプレイ開始時に、匿名のアンケートを行っていた)。

 「見て、カイ。面白い結果が出てるわ」

 サラが指差した。

 「最も差別的な選択をしたのは、『最貧困層』じゃない。『中流の下(ロウアー・ミドル)』、つまり、かつては豊かだったのに、今はそこから転落しそうだと感じている層よ」

相対的剥奪感

 社会学者のR・K・マートンらが提唱した概念だ。

 人は、「絶対的に貧しい」から暴れるのではない。「本来得られるはずのものが得られていない」「自分より下だと思っていた連中が得をしている」と感じた時に、激しい怒りと攻撃衝動を抱く。

 「彼らは奪われていると感じているのよ」

 サラの声が少し震えた。

 「金銭だけじゃない。プライド、安心、そして『特権』を。自分たちはこの国の主役だったはずなのに、いつの間にか脇役に追いやられている。その焦燥感が、火薬庫になっている」

 歌詞の一節が、サラの脳内でリフレインする。

 「貧困は差別へと」。

 それは道徳の教科書に書いてあるような、「心貧しければ……」という精神論ではない。もっと物理的で、機械的な因果関係だ。

 パイ(資源)が縮小する時、人間は本能的に「身内(イングループ)」を守り、「よそ者(アウトグループ)」を排除しようとする。

 脳の扁桃体が「生存の危機」というアラートを鳴らし、前頭葉の「倫理」というブレーキを焼き切ってしまうのだ。

 「父さんも、そうだった」

 サラはぽつりと漏らした。

 カイの手が止まる。

 「父は、定年後に再雇用先が見つからなくて、ずっとイライラしていた。年金は減るし、物価は上がるし。……そんな時に、あの動画を見たのよ。『外国人が日本の社会保障を食い物にしている』っていうデマを」

 サラは拳を握りしめた。爪が掌に食い込む。

 「父さんは、悪人じゃなかった。ただ、苦しかったのよ。自分の苦境を、誰かのせいにしたかった。そうすれば、自分が『負け組』じゃなくて、『被害者』になれるから」

 差別は、貧困が生み出す鎮痛剤だ。

 自分より弱いものを叩いている間だけ、自分が強くなったような気がする。

 社会構造が生み出した痛みを、他者への攻撃に転嫁することで、一時的に麻痺させる。

 扇動者(デマゴーグ)たちは、そのメカニズムを熟知している。だからこそ、彼らは解決策(処方箋)ではなく、敵(麻薬)を提供するのだ。

バグではなく、仕様

 「人間は、剥奪感を感じると差別をする」

 サラはモニターを見上げ、カイに向かって言った。その瞳には、研究者としての冷徹さと、娘としての痛切さが同居していた。

 「それはバグ(不具合)じゃなくて、人間の脳の仕様(スペック)なのよ」

 カイは深く頷いた。

 「進化心理学的な『仕様』だな。部族社会において、資源不足の時に外部を敵視することは、集団の生存確率を高める適応戦略だった。……だが、現代の複雑な社会では、その『仕様』が致命的な『システム・エラー』を引き起こす」

 「そう。だからこそ」

 サラは言葉を継いだ。

 「『差別はいけません』なんていう綺麗事の説教じゃ、誰も止まらない。本能(OS)レベルの命令なんだから。それを止めるには、その回路自体を自覚(ハック)させるしかない」

 サラはキーボードを叩き、ゲーム内のシステムメッセージを更新した。

 差別コマンドを実行し、スコアを稼ぎまくったプレイヤーの画面に、強制的に表示される「警告」だ。

 『おめでとうございます。あなたは「弱者」を叩くことで、一時的な安心を得ました。』

 『でも、あなたの生活は1ミリも良くなっていませんよね?』
 『あなたが叩いている間、本当に得をしているのは誰ですか?』

 「残酷だな」

 カイが苦笑した。

 「真実ほど残酷なものはないわ」

 サラは答えた。

 「差別が『個人の性格の悪さ』の問題だと思われているうちは、なくならない。『私は差別なんてしない良い人だ』と思っている人ほど、自分が剥奪感を感じた時に、無自覚に差別をするから」

 「構造(システム)の問題だと気づかせるわけか」

 「ええ。差別は、経済的な不安と、それを煽るアルゴリズムによって『作られる』ものだと。自分がその製造ラインの一部になっていることに気づけば……人間は、そこで初めて踏みとどまれる」

加害者の安らぎ、そして戦慄

 アパートの一室で、ケンタは呆然と画面を見つめていた。

 ゲーム内では、彼が煽動した暴動によって、街が燃えていた。

 そして、画面の隅には、先ほどサラが実装したメッセージが表示されていた。

 『あなたが叩いている間、本当に得をしているのは誰ですか?』

 ケンタの脳裏に、ある光景がフラッシュバックした。

 大学のカフェテリアで、友人が言っていた言葉。

 「移民反対とか言ってる奴ら、マジで頭悪いよな。経営者からすれば、安く使える労働力が入ってこなくなったら困るだけなのに」

 その友人は、親が会社経営をしている裕福な学生だった。

 ケンタは、その時何も言い返せなかった。ただ、腹の底で黒い感情が渦巻くのを感じただけだった。

 今、ケンタは理解した。

 俺は、踊らされていたんだ。

 生活が苦しい怒りを、本当の原因――政治の失敗や、格差を固定化する社会構造――に向ける代わりに、もっと叩きやすい、もっと弱い相手に向けてガス抜きをさせられていたんだ。

 それは、権力者にとって、なんて都合のいいシステムなんだろう。

 貧乏人と貧乏人が殺し合っている間、彼らは高みの見物ができるのだから。

 「……ふざけんな」

 ケンタの怒りの方向が変わった。

 弱い者へ向かっていたベクトルが、ぐるりと反転し、この「システム」そのものへと向いた。

 彼はゲーム画面の「シェア」ボタンを押した。

 ただし、スコアを自慢するためではない。

 この「吐き気のする体験」を、一人でも多くの人間に味あわせるためだ。
 SNSに投稿されたケンタのコメントは、短かった。

 『このゲームやってみろ。自分がどんだけ簡単に「悪人」になれるか、思い知らされるから』

 ケンタのようなプレイヤーが、日本中で同時多発的に生まれ始めていた。
 
 彼らは、「正しさ」を教えられたのではない。

 自らの中にある「差別への誘惑」と「加害の快感」を直視させられ、その醜悪さに嘔吐したのだ。

 その嘔吐感こそが、最強のワクチンだった。

システムのエラーログ

 ゲームの拡散と共に、SNS上では奇妙なハッシュタグが生まれ始めていた。

 #PovertyLeadsToDiscrimination (貧困は差別へと)。

 誰かが、ゲームのソースコードの中に隠されていたこのフレーズ(歌詞)を見つけ出し、拡散し始めたのだ。

 「ねえ、これ見て。今のトレンド」

 「うわ、移民叩きのツイートに、このタグつけて引用してる人いっぱいいる」

 「『お前、今ゲームのステージ4の状態だぞ』って意味か。皮肉効きすぎでしょ」

 現実のヘイトスピーチに対して、若者たちが「それは個人の意見ではなく、貧困が生み出したシステムのエラーログだ」と冷静に指摘(タグ付け)し始めたのだ。

 熱狂的な差別主義者に対して、怒りで返すのではなく、冷徹な分析で返す。

 「生活苦しいんですね。わかります。でもその怒りの向け先、バグってますよ」

 カイは、その様子をモニターで見ながら、深く息を吐いた。

 「差別をなくすことはできないかもしれない。人間の脳にその回路がある限り」

 彼は独り言のように言った。

 「だが、回路が発動した瞬間に『あ、今エラーが出てる』と気づくことはできる。メタ認知(モニタリング)機能さえ働けば」

 サラは、何も言わずに頷いた。

 彼女の目には、薄っすらと涙が浮かんでいた。

 もし、もっと早くこのゲームを作れていたら。

 父が「エラー」を起こす前に、このワクチンを打てていたら。

 「……行きましょう、カイ」

 サラは涙を拭い、顔を上げた。

 「まだ終わりじゃない。選挙まであと三日。ギドウたちは、必ず『最後の手段』を使ってくる」

 差別という名の麻薬を断ち切ったプレイヤーたちは、次にどんな行動に出るのか。

 そして、麻薬の売人である「システム」は、どう反撃してくるのか。

 地下室のモニターの明滅は、来るべき最終決戦のカウントダウンのように、不規則に、激しく点滅を繰り返していた。

5. デジタル・ゲリラの胎動


焦燥のプロパガンダ

 投票日まであと三日。

 選挙戦は最終局面を迎え、情報の飽和攻撃は極限に達していた。

 地下のモニターには、ギドウ陣営が投入した新たなボットネットの活動状況が、どす黒い波形として表示されていた。

 「来たわね」

 サラがコーヒーカップを置く音と同時に、アラートが鳴った。

 『カサンドラ』システムが検知した大規模拡散の予兆。

 今回のネタは、対立候補の過去の女性関係を捏造したスキャンダルだ。AIで生成された「愛人」の証言音声データと、薄暗いホテルの密会写真(もちろん合成だ)が、数千の「捨てアカウント」から一斉に放流された。

 ハッシュタグは #候補者の裏の顔 と #道徳的失墜。

 これまでのパターンなら、この攻撃は「道徳的な怒り」を燃料にして、数時間でトレンド一位を独占し、ワイドショーが後追いで報道し、候補者の支持率を数ポイント削り取るはずだった。

 それは、認知戦の教科書通りの、完璧な「負のキャンペーン(ネガキャン)」だった。

 「拡散予測、三時間で二百万リーチ」

 カイが冷徹に告げる。

 「だが……」

 彼はキーボードを叩き、拡散の質的な分析画面を開いた。

 「何かがおかしい」

 いつもなら、拡散の中心にある感情は「激怒(Rage)」や「嫌悪(Disgust)」だ。真っ赤なヒートマップが画面を覆い尽くす。

 しかし、今回のヒートマップは、奇妙な色をしていた。

 「冷笑(Cynicism)」を示す青と、「娯楽(Amusement)」を示す黄色が混じり合い、斑模様を描いている。

 「どういうこと?」

 サラが画面を覗き込む。

 「拡散はしている。リポストの数は予測通りだ。でも、コメントの中身が違う」

 カイは、トレンド入りしたハッシュタグのタイムラインをメインモニターに投影した。

 そこに流れていたのは、ギドウ陣営の計算を根底から覆す、異様な光景だった。

ネタバレされた手品

 『うわ、出たよ。典型的なメソッドNo.4「人格攻撃(Ad Hominem)」じゃん』
 『画像の右下の影、光源とおかしくない? 生成AI特有の破綻発見。評価:Dランク』
 『このタイミングでこのネタとか、焦りすぎでしょw ゲームのステージ3の方がもっと難しかったわ』
 『#これゲームで見たやつ』
 『#感情煽り乙』

 反論ではない。

 激怒でもない。

 それは、「冷徹な採点」であり、「盛大なネタバレ」だった。

 数万人の若者たちが、ギドウ陣営が放った「爆弾」を、まるで新作ゲームの攻略対象であるかのように扱っていた。

 彼らは怒る代わりに、その爆弾の構造を分解し、部品の品番を読み上げ、設計者の意図を笑い飛ばしていた。

 あるユーザーが、合成写真の矛盾点を赤丸で囲った画像をリプライに貼り付ける。

 『ここ、指の本数が6本になってる。もうちょっといいGPU使えよ』

 別のユーザーが、拡散しているアカウントの作成日を一覧にする。

 『拡散元のトップ50、全部先月作られたアカウントで草。ボット部隊の運用下手すぎ』

 かつて、陰謀論やフェイクニュースは、人々の「正義感」をハッキングすることで拡散した。

 「許せない!」「みんなに知らせなきゃ!」という熱量が、ウイルスの運び屋(ベクター)となっていた。

 しかし、『Ministry of Truth』をクリアした彼らにとって、その熱量はもはや「恥ずかしいもの(Cringe)」に変質していた。

 「釣られるのはダサい」
 「踊らされるのは情弱(情報弱者)」
 「マジになっちゃってカッコ悪い」

 ゲームが作り出した新しい価値観(コード)が、SNSの空気を一変させていた。

 今、この空間で最もクールな振る舞いは、義憤に駆られて拡散することではなく、一歩引いた位置から「あー、はいはい、その手口ね」と看破することだった。

 扇動者たちは、観客を熱狂させるためにステージに上がったのに、客席の全員が腕組みをして「タネも仕掛けも知ってるよ」とニヤニヤしている状況に放り込まれたのだ。

 「手品師にとって、一番怖いのはブーイングじゃない」

 サラがモニターを見ながら、震える声で言った。

 「『タネ明かし』をされることよ。魔法がただのトリックだとバレた瞬間、観客の畏怖は侮蔑に変わる」

デジタル・ゲリラの誕生

 現象は、自然発生的な「デジタル自警団」の形成へと繋がっていった。

 誰に頼まれたわけでもない。報酬が出るわけでもない。

 ただ、ゲームで培ったスキルを試したいという欲求と、「システムに舐められたくない」という反骨心が、彼らを突き動かしていた。

 Discordのゲーマーコミュニティでは、リアルタイムで「ファクトチェック・レイド(集団検証)」が行われていた。

 『おい、新しいフェイク動画が投下されたぞ。解析班、出動』
 『音声波形チェックするわ。あ、これ不自然なカット入ってる。切り貼り確定』
 『元動画特定した。3年前の海外ニュースだ。URL貼っとく』
 『よし、全員でX(Twitter)のコミュニティノート作成に行くぞ』

 彼らは、高度に組織化された軍隊ではなく、緩やかに連携するゲリラだった。

 ある者は画像の解析を、ある者は情報の検索を、ある者は拡散状況のモニタリングを。それぞれの得意分野を生かし、瞬く間に「嘘」を包囲していく。

 その速度は、従来のメディアやファクトチェック機関を遥かに凌駕していた。

 なぜなら、彼らには上司の決裁も、記事の校閲も必要ないからだ。

 そして何より、彼らは「楽しんで」いた。

 「見て、このハッシュタグ」

 サラが指差した。

 #MinistryOfTruthRealLife (リアル・真理省)。

 そのタグを検索すると、現実のニュース記事や政治家の発言に対して、ゲームのUIを模した「ステータス画面」を合成した画像が大量に投稿されていた。

 政治家の発言画像に、ゲーム風のウィンドウが重ねられている。

 【攻撃タイプ:ストローマン論法】
 【論理的整合性:E】
 【感情煽動値:S】
 【対策:スルー推奨】

 現実をゲームの視座(フレーム)で捉え直すこと。

 それは、権威を相対化し、恐怖を無力化する最強の魔術だった。

 どんなに恐ろしい独裁者も、どんなに巧妙な詐欺師も、ゲームの「敵キャラ」としてパラメータ化されてしまえば、攻略可能な対象に過ぎなくなる。
 「彼らはもう、受動的な『大衆』じゃない」

 カイは感嘆の息を漏らした。

 「彼らは全員が『編集者』であり、『分析官』になったんだ。情報の受け手から、情報の審判者(レフェリー)へと進化した」

困惑する操り人形師たち
 
 一方、都内某所の高級オフィスビル。

 ギドウ陣営の選挙戦略本部(という名のトロール・ファーム)は、通夜のような静けさと、パニックの熱気が同居していた。

 壁一面のモニターには、彼らが自信を持って投入したスキャンダル情報が、ネット上で「おもちゃ」にされている様が映し出されていた。

 「どうなっているんだ!」

 選対本部長の男が怒鳴り散らす。

 「インプレッション(表示回数)は稼げているのに、ネガティブ・センチメント(否定的な反応)が止まらない! なぜだ? いつもなら、もっと単純に燃えるはずだろう!」

 データアナリストが、蒼白な顔で報告する。

 「ア、アルゴリズムが機能していません……。我々が投下した『燃料』に対し、ユーザーが『引火』しないんです。むしろ、『鎮火剤(ファクトチェック)』を投げ合って遊んでいます」

 「遊んでいるだと? 政治をなんだと思っているんだ!」

 「それが……彼らにとっては、これも『ゲーム』の延長のようで……」
 本部長は舌打ちをした。

 「クソッ、どこのどいつだ。こんな小賢しい真似を吹き込んだのは」

 彼らは知っていた。

 数日前から若者の間で流行している、奇妙なブラウザゲームの存在を。

 当初は「たかがゲーム」と高を括っていた。だが、その「たかがゲーム」が、彼らが数億円を投じて構築した洗脳システムを、内部から食い破り始めている。

 「プランBだ」

 本部長は、低い声で命じた。

 「ネット工作が効かないなら、物理的な衝撃を与えるしかない。……奴らの目を覚まさせてやれ。これは遊びじゃないんだとな」

 彼の目には、焦燥とともに、危険な光が宿っていた。

 論理(ロジック)で勝てない相手には、暴力(バイオレンス)か、あるいはもっと根源的な「恐怖」を使う。それが、敗北に瀕した権力者の常套手段だ。

抗体の生成、そして変異
 
 地下のアジトでは、カイとサラが、戦況の変化を静かに噛み締めていた。

 「抗体が、でき始めた」

 カイの言葉に、サラが頷く。

 「ええ。集団免疫の閾値を超えたかもしれないわ」

 疫学において、集団の一定割合が免疫を持てば、感染症の流行は収束に向かう。

 情報空間でも同じことが起きている。

 全員が賢くなる必要はない。クラスやコミュニティの中に、数人の「免疫保持者(ゲームクリア者)」がいればいい。

 彼らが「これデマだよ」「ソースここにあるよ」と声を上げることで、周囲の人間も「あ、そうなの?」と立ち止まる。

 その「一瞬の立ち止まり」こそが、感染爆発(パンデミック)を防ぐ防波堤となる。

 「でも、カイ」

 サラは、画面から目を離さずに言った。

 「ウイルスは変異するわ。ワクチンが効かなくなったら、次はもっと強力な毒を使ってくる」

 「ああ。ギドウ陣営はまだ死んでいない。むしろ、追い詰められた獣ほど危険だ」

 画面上のゲリラたちの活躍は頼もしい。

 しかし、彼らの武器は「知性」と「冷笑」だ。

 もし、敵が知性ではどうにもならない「圧倒的な情動」、たとえば「物理的なテロリズム」や「国家存亡の危機」を演出してきたら?

 冷笑は、本物の悲劇の前では無力だ。

 「ネタバレ」を楽しむ余裕そのものを奪うような、巨大な衝撃が来たとき、この急造の免疫システムは耐えられるだろうか。

 サラのスマホが振動した。

 通知画面には、実家の父からのメッセージが表示されていた。

 以前のような攻撃的な文言ではない。

 『サラ、元気か? 最近、ネットのニュースがよくわからなくなった。何が本当で、何が嘘なのか……お前の言っていたこと、少し考えている』

 サラの胸が詰まった。

 小さな、本当に小さな変化。

 父の強固な殻にも、ヒビが入り始めている。

 「……届いてる」

 彼女はスマホを握りしめた。

 「私たちの『ウイルス』は、確実に届いてるわ」

 カイは立ち上がり、コートを羽織った。

 「ここからは時間との勝負だ。投票日まであと三日。敵が『オクトーバー・サプライズ』を投下してくるなら、明日の金曜――人々の警戒が最も緩む、夜だ」

 「迎え撃ちましょう」

 サラも立ち上がった。

 「私たちには、最強の『デバッガー』たちがついている」

 地下のモニターの光が、二人の決意に満ちた顔を照らし出す。

 地上のSNSでは、無数のデジタル・ゲリラたちが、情報の荒野で篝火(かがりび)を焚いている。

 それはまだ小さな火かもしれない。

 しかし、その火は、暗闇の中で「考えること」をやめない人々の、連帯の狼煙(のろし)だった。

 「行くぞ、サラ。最終決戦だ」

 「ええ。ゲーム・セットまで、気を抜かないで」

 二人はアジトを後にした。

 システムの檻を破り、真の自由を手にするための、最後の戦いへと向かうために。



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