小説 『認知の砦』── 見えない爆弾と、愛の脆さ ④
第二章:システムの中の自由、あるいは「悪」の体験
4. 貧困は差別へと
冬の時代のゲーミフィケーション
『Ministry of Truth(真理省)』のリリースから三日が経過した。
この三日間で、ゲーム内の仮想国家だけでなく、現実の若者たちの認識(リアリティ)にも、不可逆的な亀裂が入り始めていた。
だが、本当の地獄はここからだった。
カイとサラが設計したゲームデザインには、プレイヤーを絶望の淵に立たせ、人間の尊厳を問う「後半ステージ」が用意されていたのだ。
ステージ4:『大不況(The Great Depression)』。
都内のアパートで一人暮らしをする大学生、ケンタ(21歳)は、深夜のバイトから帰宅し、冷めたコンビニ弁当をかきこみながらスマホを起動した。
就職活動は全滅。奨学金の返済への不安。そして、連日ニュースで報じられる物価高騰と増税の話題。
ケンタにとって、このゲームの「不況シナリオ」は、決して他人事(フィクション)ではなかった。画面の中の荒廃した街並みは、彼の心の風景そのものだった。
画面には、悲痛なステータスが表示されている。
【経済指標:崩壊寸前】
【失業率:25%】
【国民の不満度:限界突破】
ケンタは、これまでのステージと同じように「政府批判」のデマカードを切った。
『政府の無駄遣いを許すな』
『政治家は貴族のような生活をしている』
しかし、スコア(社会混乱度)は微動だにしなかった。
『Effect: MISS... 国民は疲れ切っています。抽象的な政治批判では、もう彼らの心は動きません』
「マジかよ……」
ケンタは焦った。このままではゲームオーバーだ。
暴動を起こさせなければならない。社会を壊さなければならない。そのためには、もっと強い、もっと直接的な「刺激」が必要だ。
その時、画面が暗転し、不気味な赤黒い光とともに、新しい選択肢(コマンド)が解禁された。
【緊急プロトコル解除:スケープゴート(生贄)戦術を使用しますか?】
そのカードには、具体的なターゲットが描かれていなかった。ただ、黒いシルエットと、そこに向けられた無数の指差しマークが描かれているだけだ。
説明文にはこうある。
『国民の不満の矛先を、政策ではなく「特定の人々」に向けさせます。効果:絶大。倫理コスト:最大。』
ケンタの指が止まった。
嫌な予感がする。しかし、彼はそのカードをタップした。
「ゲームだろ? クリアしなきゃ意味がない」
そう自分に言い聞かせて。
禁断のコマンド「スケープゴート」
カードを選択すると、さらに具体的な「標的」を選ぶサブメニューが現れた。
A:生活保護受給者
(彼らは私たちの税金でパチンコに行っている、という物語)
B:外国人労働者
(彼らは私たちの仕事を奪い、犯罪を犯している、という物語)
C:性的マイノリティ
(彼らは伝統的な家族の価値を破壊しようとしている、という物語)
どれも、ネットでよく見る言説だ。見慣れた、ありふれた「意見」だと思っていた。
しかし、こうして「効率よく社会を燃やすための選択肢」として並べられると、そのグロテスクさが際立つ。
ケンタは迷った末、Bを選んだ。
最近、近所のコンビニ店員が外国人ばかりになり、なんとなく疎外感を感じていた自分の感情とリンクしたからだ。
「実行」ボタンを押す。
ケンタは、ゲームが自動生成したフェイクニュースのタイトルを見て、息を呑んだ。
『【緊急拡散】移民グループが日本人居住区を襲撃計画? 警察は黙殺!』
『あなたの給料が上がらないのは、彼らが安く働くせいです』
『彼らは私たちの国を乗っ取るつもりだ』
拡散(ウイルス)は、爆発的だった。
これまでとは比較にならない速度で、画面上の群衆アイコンが真っ赤に染まっていく。
今まで「無関心(グレー)」だった層までが、一斉に反応し始めた。
『許せない!』
『出ていけ!』
『日本を守ろう!』
スコア(支持率)のカウンターが、壊れたように回り始めた。
+10,000... +50,000... +100,000...
ドーパミンが脳を直撃する。
すごい。なんて簡単なんだ。
複雑な経済政策を論じる必要なんてない。
ただ、「あいつらが悪い」「あいつらのせいで君は苦しいんだ」と囁くだけでいい。
それだけで、人々は狂ったように熱狂し、団結し、そしてプレイヤーである自分を「真実を語るリーダー」として崇め奉ってくれる。
しかし、その快感の裏で、画面上のグラフィックには変化が起きていた。
街のアイコンから火の手が上がり始めたのだ。
暴動。略奪。放火。
そして、画面の隅に小さく表示されるニュースティッカー(電光掲示板)。
『外国人学校に脅迫状』
『路上で外国籍の男性が集団暴行を受ける』
『「お前も仲間か」と日本人同士の監視が始まる』
ケンタは、スマホを持つ手が冷たくなるのを感じた。
これは、俺がやったことなのか?
いや、俺はただボタンを押しただけだ。
俺はただ、ゲームをクリアしたかっただけだ。
「……なんでだよ」
ケンタは独りごちた。
「なんでみんな、こんなに簡単に人を憎めるんだよ」
剥奪感という名の火薬
地下の研究室(ラボ)では、サラがモニターに映し出される膨大なプレイデータを凝視していた。
彼女の表情は、怒りとも悲しみともつかない、冷徹な諦念に彩られていた。
「ステージ4の到達率、80%。そのうち95%のプレイヤーが、『スケープゴート』戦術を選択しました」
「予想通りだな」
カイが応じた。彼もまた、苦い顔をしていた。
「経済的な困窮(エコノミック・ディストレス)は、認知戦における最強の増幅装置(アンプ)だ。人は腹が減り、未来が見えない時、最も簡単に理性を手放す」
サラは、一つのグラフを拡大表示した。
それは、「プレイヤー自身の年収・社会的地位」と「差別的コマンドの選択率」の相関図だった(このゲームはプレイ開始時に、匿名のアンケートを行っていた)。
「見て、カイ。面白い結果が出てるわ」
サラが指差した。
「最も差別的な選択をしたのは、『最貧困層』じゃない。『中流の下(ロウアー・ミドル)』、つまり、かつては豊かだったのに、今はそこから転落しそうだと感じている層よ」
相対的剥奪感。
社会学者のR・K・マートンらが提唱した概念だ。
人は、「絶対的に貧しい」から暴れるのではない。「本来得られるはずのものが得られていない」「自分より下だと思っていた連中が得をしている」と感じた時に、激しい怒りと攻撃衝動を抱く。
「彼らは奪われていると感じているのよ」
サラの声が少し震えた。
「金銭だけじゃない。プライド、安心、そして『特権』を。自分たちはこの国の主役だったはずなのに、いつの間にか脇役に追いやられている。その焦燥感が、火薬庫になっている」
歌詞の一節が、サラの脳内でリフレインする。
「貧困は差別へと」。
それは道徳の教科書に書いてあるような、「心貧しければ……」という精神論ではない。もっと物理的で、機械的な因果関係だ。
パイ(資源)が縮小する時、人間は本能的に「身内(イングループ)」を守り、「よそ者(アウトグループ)」を排除しようとする。
脳の扁桃体が「生存の危機」というアラートを鳴らし、前頭葉の「倫理」というブレーキを焼き切ってしまうのだ。
「父さんも、そうだった」
サラはぽつりと漏らした。
カイの手が止まる。
「父は、定年後に再雇用先が見つからなくて、ずっとイライラしていた。年金は減るし、物価は上がるし。……そんな時に、あの動画を見たのよ。『外国人が日本の社会保障を食い物にしている』っていうデマを」
サラは拳を握りしめた。爪が掌に食い込む。
「父さんは、悪人じゃなかった。ただ、苦しかったのよ。自分の苦境を、誰かのせいにしたかった。そうすれば、自分が『負け組』じゃなくて、『被害者』になれるから」
差別は、貧困が生み出す鎮痛剤だ。
自分より弱いものを叩いている間だけ、自分が強くなったような気がする。
社会構造が生み出した痛みを、他者への攻撃に転嫁することで、一時的に麻痺させる。
扇動者(デマゴーグ)たちは、そのメカニズムを熟知している。だからこそ、彼らは解決策(処方箋)ではなく、敵(麻薬)を提供するのだ。
バグではなく、仕様
「人間は、剥奪感を感じると差別をする」
サラはモニターを見上げ、カイに向かって言った。その瞳には、研究者としての冷徹さと、娘としての痛切さが同居していた。
「それはバグ(不具合)じゃなくて、人間の脳の仕様(スペック)なのよ」
カイは深く頷いた。
「進化心理学的な『仕様』だな。部族社会において、資源不足の時に外部を敵視することは、集団の生存確率を高める適応戦略だった。……だが、現代の複雑な社会では、その『仕様』が致命的な『システム・エラー』を引き起こす」
「そう。だからこそ」
サラは言葉を継いだ。
「『差別はいけません』なんていう綺麗事の説教じゃ、誰も止まらない。本能(OS)レベルの命令なんだから。それを止めるには、その回路自体を自覚(ハック)させるしかない」
サラはキーボードを叩き、ゲーム内のシステムメッセージを更新した。
差別コマンドを実行し、スコアを稼ぎまくったプレイヤーの画面に、強制的に表示される「警告」だ。
『おめでとうございます。あなたは「弱者」を叩くことで、一時的な安心を得ました。』
『でも、あなたの生活は1ミリも良くなっていませんよね?』
『あなたが叩いている間、本当に得をしているのは誰ですか?』
「残酷だな」
カイが苦笑した。
「真実ほど残酷なものはないわ」
サラは答えた。
「差別が『個人の性格の悪さ』の問題だと思われているうちは、なくならない。『私は差別なんてしない良い人だ』と思っている人ほど、自分が剥奪感を感じた時に、無自覚に差別をするから」
「構造(システム)の問題だと気づかせるわけか」
「ええ。差別は、経済的な不安と、それを煽るアルゴリズムによって『作られる』ものだと。自分がその製造ラインの一部になっていることに気づけば……人間は、そこで初めて踏みとどまれる」
加害者の安らぎ、そして戦慄
アパートの一室で、ケンタは呆然と画面を見つめていた。
ゲーム内では、彼が煽動した暴動によって、街が燃えていた。
そして、画面の隅には、先ほどサラが実装したメッセージが表示されていた。
『あなたが叩いている間、本当に得をしているのは誰ですか?』
ケンタの脳裏に、ある光景がフラッシュバックした。
大学のカフェテリアで、友人が言っていた言葉。
「移民反対とか言ってる奴ら、マジで頭悪いよな。経営者からすれば、安く使える労働力が入ってこなくなったら困るだけなのに」
その友人は、親が会社経営をしている裕福な学生だった。
ケンタは、その時何も言い返せなかった。ただ、腹の底で黒い感情が渦巻くのを感じただけだった。
今、ケンタは理解した。
俺は、踊らされていたんだ。
生活が苦しい怒りを、本当の原因――政治の失敗や、格差を固定化する社会構造――に向ける代わりに、もっと叩きやすい、もっと弱い相手に向けてガス抜きをさせられていたんだ。
それは、権力者にとって、なんて都合のいいシステムなんだろう。
貧乏人と貧乏人が殺し合っている間、彼らは高みの見物ができるのだから。
「……ふざけんな」
ケンタの怒りの方向が変わった。
弱い者へ向かっていたベクトルが、ぐるりと反転し、この「システム」そのものへと向いた。
彼はゲーム画面の「シェア」ボタンを押した。
ただし、スコアを自慢するためではない。
この「吐き気のする体験」を、一人でも多くの人間に味あわせるためだ。
SNSに投稿されたケンタのコメントは、短かった。
『このゲームやってみろ。自分がどんだけ簡単に「悪人」になれるか、思い知らされるから』
ケンタのようなプレイヤーが、日本中で同時多発的に生まれ始めていた。
彼らは、「正しさ」を教えられたのではない。
自らの中にある「差別への誘惑」と「加害の快感」を直視させられ、その醜悪さに嘔吐したのだ。
その嘔吐感こそが、最強のワクチンだった。
システムのエラーログ
ゲームの拡散と共に、SNS上では奇妙なハッシュタグが生まれ始めていた。
#PovertyLeadsToDiscrimination (貧困は差別へと)。
誰かが、ゲームのソースコードの中に隠されていたこのフレーズ(歌詞)を見つけ出し、拡散し始めたのだ。
「ねえ、これ見て。今のトレンド」
「うわ、移民叩きのツイートに、このタグつけて引用してる人いっぱいいる」
「『お前、今ゲームのステージ4の状態だぞ』って意味か。皮肉効きすぎでしょ」
現実のヘイトスピーチに対して、若者たちが「それは個人の意見ではなく、貧困が生み出したシステムのエラーログだ」と冷静に指摘(タグ付け)し始めたのだ。
熱狂的な差別主義者に対して、怒りで返すのではなく、冷徹な分析で返す。
「生活苦しいんですね。わかります。でもその怒りの向け先、バグってますよ」
カイは、その様子をモニターで見ながら、深く息を吐いた。
「差別をなくすことはできないかもしれない。人間の脳にその回路がある限り」
彼は独り言のように言った。
「だが、回路が発動した瞬間に『あ、今エラーが出てる』と気づくことはできる。メタ認知(モニタリング)機能さえ働けば」
サラは、何も言わずに頷いた。
彼女の目には、薄っすらと涙が浮かんでいた。
もし、もっと早くこのゲームを作れていたら。
父が「エラー」を起こす前に、このワクチンを打てていたら。
「……行きましょう、カイ」
サラは涙を拭い、顔を上げた。
「まだ終わりじゃない。選挙まであと三日。ギドウたちは、必ず『最後の手段』を使ってくる」
差別という名の麻薬を断ち切ったプレイヤーたちは、次にどんな行動に出るのか。
そして、麻薬の売人である「システム」は、どう反撃してくるのか。
地下室のモニターの明滅は、来るべき最終決戦のカウントダウンのように、不規則に、激しく点滅を繰り返していた。
5. デジタル・ゲリラの胎動
焦燥のプロパガンダ
投票日まであと三日。
選挙戦は最終局面を迎え、情報の飽和攻撃は極限に達していた。
地下のモニターには、ギドウ陣営が投入した新たなボットネットの活動状況が、どす黒い波形として表示されていた。
「来たわね」
サラがコーヒーカップを置く音と同時に、アラートが鳴った。
『カサンドラ』システムが検知した大規模拡散の予兆。
今回のネタは、対立候補の過去の女性関係を捏造したスキャンダルだ。AIで生成された「愛人」の証言音声データと、薄暗いホテルの密会写真(もちろん合成だ)が、数千の「捨てアカウント」から一斉に放流された。
ハッシュタグは #候補者の裏の顔 と #道徳的失墜。
これまでのパターンなら、この攻撃は「道徳的な怒り」を燃料にして、数時間でトレンド一位を独占し、ワイドショーが後追いで報道し、候補者の支持率を数ポイント削り取るはずだった。
それは、認知戦の教科書通りの、完璧な「負のキャンペーン(ネガキャン)」だった。
「拡散予測、三時間で二百万リーチ」
カイが冷徹に告げる。
「だが……」
彼はキーボードを叩き、拡散の質的な分析画面を開いた。
「何かがおかしい」
いつもなら、拡散の中心にある感情は「激怒(Rage)」や「嫌悪(Disgust)」だ。真っ赤なヒートマップが画面を覆い尽くす。
しかし、今回のヒートマップは、奇妙な色をしていた。
「冷笑(Cynicism)」を示す青と、「娯楽(Amusement)」を示す黄色が混じり合い、斑模様を描いている。
「どういうこと?」
サラが画面を覗き込む。
「拡散はしている。リポストの数は予測通りだ。でも、コメントの中身が違う」
カイは、トレンド入りしたハッシュタグのタイムラインをメインモニターに投影した。
そこに流れていたのは、ギドウ陣営の計算を根底から覆す、異様な光景だった。
ネタバレされた手品
『うわ、出たよ。典型的なメソッドNo.4「人格攻撃(Ad Hominem)」じゃん』
『画像の右下の影、光源とおかしくない? 生成AI特有の破綻発見。評価:Dランク』
『このタイミングでこのネタとか、焦りすぎでしょw ゲームのステージ3の方がもっと難しかったわ』
『#これゲームで見たやつ』
『#感情煽り乙』
反論ではない。
激怒でもない。
それは、「冷徹な採点」であり、「盛大なネタバレ」だった。
数万人の若者たちが、ギドウ陣営が放った「爆弾」を、まるで新作ゲームの攻略対象であるかのように扱っていた。
彼らは怒る代わりに、その爆弾の構造を分解し、部品の品番を読み上げ、設計者の意図を笑い飛ばしていた。
あるユーザーが、合成写真の矛盾点を赤丸で囲った画像をリプライに貼り付ける。
『ここ、指の本数が6本になってる。もうちょっといいGPU使えよ』
別のユーザーが、拡散しているアカウントの作成日を一覧にする。
『拡散元のトップ50、全部先月作られたアカウントで草。ボット部隊の運用下手すぎ』
かつて、陰謀論やフェイクニュースは、人々の「正義感」をハッキングすることで拡散した。
「許せない!」「みんなに知らせなきゃ!」という熱量が、ウイルスの運び屋(ベクター)となっていた。
しかし、『Ministry of Truth』をクリアした彼らにとって、その熱量はもはや「恥ずかしいもの(Cringe)」に変質していた。
「釣られるのはダサい」
「踊らされるのは情弱(情報弱者)」
「マジになっちゃってカッコ悪い」
ゲームが作り出した新しい価値観(コード)が、SNSの空気を一変させていた。
今、この空間で最もクールな振る舞いは、義憤に駆られて拡散することではなく、一歩引いた位置から「あー、はいはい、その手口ね」と看破することだった。
扇動者たちは、観客を熱狂させるためにステージに上がったのに、客席の全員が腕組みをして「タネも仕掛けも知ってるよ」とニヤニヤしている状況に放り込まれたのだ。
「手品師にとって、一番怖いのはブーイングじゃない」
サラがモニターを見ながら、震える声で言った。
「『タネ明かし』をされることよ。魔法がただのトリックだとバレた瞬間、観客の畏怖は侮蔑に変わる」
デジタル・ゲリラの誕生
現象は、自然発生的な「デジタル自警団」の形成へと繋がっていった。
誰に頼まれたわけでもない。報酬が出るわけでもない。
ただ、ゲームで培ったスキルを試したいという欲求と、「システムに舐められたくない」という反骨心が、彼らを突き動かしていた。
Discordのゲーマーコミュニティでは、リアルタイムで「ファクトチェック・レイド(集団検証)」が行われていた。
『おい、新しいフェイク動画が投下されたぞ。解析班、出動』
『音声波形チェックするわ。あ、これ不自然なカット入ってる。切り貼り確定』
『元動画特定した。3年前の海外ニュースだ。URL貼っとく』
『よし、全員でX(Twitter)のコミュニティノート作成に行くぞ』
彼らは、高度に組織化された軍隊ではなく、緩やかに連携するゲリラだった。
ある者は画像の解析を、ある者は情報の検索を、ある者は拡散状況のモニタリングを。それぞれの得意分野を生かし、瞬く間に「嘘」を包囲していく。
その速度は、従来のメディアやファクトチェック機関を遥かに凌駕していた。
なぜなら、彼らには上司の決裁も、記事の校閲も必要ないからだ。
そして何より、彼らは「楽しんで」いた。
「見て、このハッシュタグ」
サラが指差した。
#MinistryOfTruthRealLife (リアル・真理省)。
そのタグを検索すると、現実のニュース記事や政治家の発言に対して、ゲームのUIを模した「ステータス画面」を合成した画像が大量に投稿されていた。
政治家の発言画像に、ゲーム風のウィンドウが重ねられている。
【攻撃タイプ:ストローマン論法】
【論理的整合性:E】
【感情煽動値:S】
【対策:スルー推奨】
現実をゲームの視座(フレーム)で捉え直すこと。
それは、権威を相対化し、恐怖を無力化する最強の魔術だった。
どんなに恐ろしい独裁者も、どんなに巧妙な詐欺師も、ゲームの「敵キャラ」としてパラメータ化されてしまえば、攻略可能な対象に過ぎなくなる。
「彼らはもう、受動的な『大衆』じゃない」
カイは感嘆の息を漏らした。
「彼らは全員が『編集者』であり、『分析官』になったんだ。情報の受け手から、情報の審判者(レフェリー)へと進化した」
困惑する操り人形師たち
一方、都内某所の高級オフィスビル。
ギドウ陣営の選挙戦略本部(という名のトロール・ファーム)は、通夜のような静けさと、パニックの熱気が同居していた。
壁一面のモニターには、彼らが自信を持って投入したスキャンダル情報が、ネット上で「おもちゃ」にされている様が映し出されていた。
「どうなっているんだ!」
選対本部長の男が怒鳴り散らす。
「インプレッション(表示回数)は稼げているのに、ネガティブ・センチメント(否定的な反応)が止まらない! なぜだ? いつもなら、もっと単純に燃えるはずだろう!」
データアナリストが、蒼白な顔で報告する。
「ア、アルゴリズムが機能していません……。我々が投下した『燃料』に対し、ユーザーが『引火』しないんです。むしろ、『鎮火剤(ファクトチェック)』を投げ合って遊んでいます」
「遊んでいるだと? 政治をなんだと思っているんだ!」
「それが……彼らにとっては、これも『ゲーム』の延長のようで……」
本部長は舌打ちをした。
「クソッ、どこのどいつだ。こんな小賢しい真似を吹き込んだのは」
彼らは知っていた。
数日前から若者の間で流行している、奇妙なブラウザゲームの存在を。
当初は「たかがゲーム」と高を括っていた。だが、その「たかがゲーム」が、彼らが数億円を投じて構築した洗脳システムを、内部から食い破り始めている。
「プランBだ」
本部長は、低い声で命じた。
「ネット工作が効かないなら、物理的な衝撃を与えるしかない。……奴らの目を覚まさせてやれ。これは遊びじゃないんだとな」
彼の目には、焦燥とともに、危険な光が宿っていた。
論理(ロジック)で勝てない相手には、暴力(バイオレンス)か、あるいはもっと根源的な「恐怖」を使う。それが、敗北に瀕した権力者の常套手段だ。
抗体の生成、そして変異
地下のアジトでは、カイとサラが、戦況の変化を静かに噛み締めていた。
「抗体が、でき始めた」
カイの言葉に、サラが頷く。
「ええ。集団免疫の閾値を超えたかもしれないわ」
疫学において、集団の一定割合が免疫を持てば、感染症の流行は収束に向かう。
情報空間でも同じことが起きている。
全員が賢くなる必要はない。クラスやコミュニティの中に、数人の「免疫保持者(ゲームクリア者)」がいればいい。
彼らが「これデマだよ」「ソースここにあるよ」と声を上げることで、周囲の人間も「あ、そうなの?」と立ち止まる。
その「一瞬の立ち止まり」こそが、感染爆発(パンデミック)を防ぐ防波堤となる。
「でも、カイ」
サラは、画面から目を離さずに言った。
「ウイルスは変異するわ。ワクチンが効かなくなったら、次はもっと強力な毒を使ってくる」
「ああ。ギドウ陣営はまだ死んでいない。むしろ、追い詰められた獣ほど危険だ」
画面上のゲリラたちの活躍は頼もしい。
しかし、彼らの武器は「知性」と「冷笑」だ。
もし、敵が知性ではどうにもならない「圧倒的な情動」、たとえば「物理的なテロリズム」や「国家存亡の危機」を演出してきたら?
冷笑は、本物の悲劇の前では無力だ。
「ネタバレ」を楽しむ余裕そのものを奪うような、巨大な衝撃が来たとき、この急造の免疫システムは耐えられるだろうか。
サラのスマホが振動した。
通知画面には、実家の父からのメッセージが表示されていた。
以前のような攻撃的な文言ではない。
『サラ、元気か? 最近、ネットのニュースがよくわからなくなった。何が本当で、何が嘘なのか……お前の言っていたこと、少し考えている』
サラの胸が詰まった。
小さな、本当に小さな変化。
父の強固な殻にも、ヒビが入り始めている。
「……届いてる」
彼女はスマホを握りしめた。
「私たちの『ウイルス』は、確実に届いてるわ」
カイは立ち上がり、コートを羽織った。
「ここからは時間との勝負だ。投票日まであと三日。敵が『オクトーバー・サプライズ』を投下してくるなら、明日の金曜――人々の警戒が最も緩む、夜だ」
「迎え撃ちましょう」
サラも立ち上がった。
「私たちには、最強の『デバッガー』たちがついている」
地下のモニターの光が、二人の決意に満ちた顔を照らし出す。
地上のSNSでは、無数のデジタル・ゲリラたちが、情報の荒野で篝火(かがりび)を焚いている。
それはまだ小さな火かもしれない。
しかし、その火は、暗闇の中で「考えること」をやめない人々の、連帯の狼煙(のろし)だった。
「行くぞ、サラ。最終決戦だ」
「ええ。ゲーム・セットまで、気を抜かないで」
二人はアジトを後にした。
システムの檻を破り、真の自由を手にするための、最後の戦いへと向かうために。
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