LancetもNEJMも撤回した。世界トップ医学誌を揺るがしたCOVID-19データ不正
あなたは、医療や健康に関する情報を調べるとき、どんな基準で「信頼できる」と判断していますか?
「論文に書いてあった」「医学誌に掲載されていた」——そう聞くと、なんとなく安心してしまう。私も同じです。医療の現場で働いていて、しかも心理の専門資格まで持っていながら、「権威ある媒体に載っているなら正しいはず」という思い込みをどこかに持っていました。
でも、パンデミックはその前提を揺さぶりました。世界最高峰の医学誌に掲載された論文が、次々と撤回されていったのです。しかも、撤回されても6割近くはネット上に残り続けている。今回はそのリアルな実態を、具体的な事例と一緒に整理してみます。
焦りが生んだ「科学の歪み」
COVID-19のパンデミックが始まったとき、世界中の研究者が一斉に動き出しました。未知のウイルスに対して「何か手がかりを」「一刻も早く」という切迫感は、当然のことだったと思います。私自身も、職場で毎日更新される感染者数を見ながら、少しでも早く有効な治療法が見つかってほしいと願っていた一人でした。
ところが、その焦りが思わぬ副作用を生みました。通常であれば数ヶ月以上かかる査読プロセスが大幅に短縮され、十分に検証されていない研究が世に出るようになったのです。COVID-19関連の臨床試験は、同時期の他の臨床試験と比べておよそ2倍の撤回率を示したというデータがあります。2倍、です。この数字は、科学界全体にとって無視できない警告だったと私は感じています。
世界を震撼させた「架空のデータベース」
最も象徴的な事件は、「Surgisphere(サージスフィア)」という企業が提供したデータベースにまつわるスキャンダルです。
このデータベースを使った研究が、LancetやNEJM(New England Journal of Medicine)——医学界で最も権威があるとされる2誌——に掲載されました。ヒドロキシクロロキンという薬の効果や死亡率に関する観察研究で、世界中で治療指針に影響を与えるほどの注目を集めました。
しかし、独立した研究者たちがデータの中身を精査すると、重大な疑念が浮かび上がります。そのデータが本当に実在するのかどうか、確認できなかったのです。著者らは最終的に論文を撤回しましたが、すでに世界中に拡散した情報を完全に回収することはできませんでした。
まるで、一度割れた卵を元に戻そうとするような話です。
「ランダム化」という見えない要
臨床試験の信頼性を支える柱の一つが「ランダム化(無作為割り付け)」です。どの患者がどの治療を受けるかを、人為的なバイアスなしに振り分けることで、結果の公平性を担保する手続きです。
でも、パンデミック下ではこの根本的なステップが不十分だった試験が複数存在しました。ビタミンDの効果を評価した試験では、治療前の患者グループのデータに明らかな偏りがあり、適切なランダム化が行われていなかったことが判明して撤回に至りました。プロキサルタミドという薬の試験でも、割り付けの不備だけでなく、未承認施設での実施、有害事象の報告なしという複合的な問題が発覚しています。
公認心理師として研究法の勉強もしてきた私には、ランダム化の失敗がいかに致命的かが肌感覚でわかります。基礎が揺らいでいれば、どんなに精緻な統計処理を重ねても、砂の上に建てた家と変わらないのです。
コピーペーストされたデータ、気づかれなかったミス
データの使い回しも、深刻な問題として浮上しました。エジプトの同一研究グループが発表したレムデシビルとヒドロキシクロロキンに関する2つの論文では、データの重複とコピーが指摘されました。著者たちは合理的な説明を提供できず、2本の論文が同時に撤回されています。
また、単純な計算ミスが査読をすり抜けるケースもありました。肥満と死亡率に関するメタアナリシスでは、オッズ比の計算や患者グループの表記に誤りがあったにもかかわらず、異常に速い査読プロセスの中で見逃されてしまったのです。
これは研究者個人の問題というより、「早く出さなければ」というシステム全体のプレッシャーが生んだ歪みだと、私は思っています。
倫理の逸脱と、トンデモ論文の実在
もう一つ、見過ごせない問題があります。患者の同意を得ずに研究を行うという、医療倫理の根本を踏み外したケースです。これは研究者としての問題である以前に、人間としての問題です。
そして——少し信じがたい話ですが——「5Gテクノロジーが皮膚細胞でコロナウイルスを生成する」という主張をした論文が、査読プロセスを通過して実際に出版されました。陰謀論の領域に踏み込んだ内容が、科学誌に載ってしまったのです。もちろん後に撤回されましたが、撤回後も60以上のウェブサイトで全文が閲覧可能だったと報告されています。
「撤回されたから終わり」ではない
ここが、この問題で私が最も気になっている点です。
撤回された論文の約33%は、撤回理由が明記されていません。43%は撤回された日付すら不明です。そして最も深刻なのは、撤回済みの論文の59%が「Retracted(撤回済み)」という表示のないままネット上でダウンロード可能な状態に置かれていること。
情報は一度出てしまえば、簡単には消えない。プレプリントサーバー、ResearchGate、SNS——さまざまなルートで複製され、誰かのブックマークやスクリーンショットの中で生き続けます。
論文の撤回は、科学が自らを修正しようとする誠実な営みです。でも現在のシステムでは、その訂正が「撤回される前の誤情報」と同じ速度で広がれていない。ここに、私たちが次に考えるべき課題があると思っています。
私たちに何ができるか
医療情報に接するとき、3つのことを意識するようになりました。
一つ目は「どこで発表されたか」だけで判断しないこと。権威ある雑誌でも、今回のように撤回される論文は存在します。二つ目は「撤回情報を積極的に追うこと」。Retraction Watchというサイトでは撤回論文のデータベースが公開されていて、誰でも確認できます。三つ目は「一つの論文を過信しないこと」。科学的な知見は積み重ねと検証の上に成り立っていて、単一の研究が「答え」になることはほとんどありません。
完璧な情報システムはないかもしれない。でも「信じたいから信じる」から「確認したうえで信頼する」へと、自分の情報との向き合い方を少しだけシフトすることはできます。それがパンデミックという歴史から、私たちが受け取れる大事な教訓の一つだと思っています。
まとめ
最後に、今回お伝えしたかったことを整理します。
パンデミックの焦りの中で、本来の査読プロセスが機能しきれなかった事例が多数生まれました。Surgisphereのデータスキャンダル、ランダム化の失敗、データの重複、倫理違反——その内実は多岐にわたります。撤回という自浄作用は働いたものの、撤回後も情報の「残留」という新たな問題が残っています。そして何より、「権威ある媒体に載っているから正しい」という思い込みを、私たち読者側も少しずつ手放していく必要がある。
あなたが医療情報に触れるとき、「この論文は今でも有効とされているだろうか?」という小さな問いを持つだけで、見える世界がほんの少し変わります。
最後までお付き合いいただき、本当にありがとうございます。今日の記事が、皆さんの明日以降の一歩を考えるきっかけになればうれしく思います。
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