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認知戦の専門家たちはなぜ、存在しない幻の敵と戦い続けているのか

今日、SNSでニュースを読んだとき、あなたは「これは意図的に誰かが流した情報かもしれない」と、どれほど意識しましたか?

正直に言えば、私もほとんど意識していません。それが日常になっているから、です。でも今回、欧米13機関の認知戦レポート507件を分析した研究に触れて、少し背筋が寒くなりました。驚かされたのは偽情報の中身ではなく、「この分野の専門家たちでさえ、実態と大きくずれた相手を追い続けているかもしれない」という、静かに重い事実でした。


「専門家が見ている」という安心感の危うさ


「専門家が言うなら大丈夫だ」という感覚は、人間として自然な心理反応です。

医療の現場で働いていると、この傾向を日々目にします。患者さんが「先生が言うなら」と信じてくれることは、信頼関係の証でもあります。でも同時に、私はいつもどこかで自分に問いかけています。「私は本当に、現象の全体を見ているか?」と。

認知戦の世界でも、まったく同じ問いが突きつけられていました。

一田和樹氏(明治大学サイバーセキュリティ研究所客員研究員)がニューズウィーク日本版(2026年6月5日)に寄稿した分析記事によると、欧米13機関による2022年以降の認知戦レポート507件を検証したところ、多くの専門家が「見えているもの」しか追っていないという実態が浮かび上がりました。

幻の敵と戦う、という構図


認知戦の研究者たちが主に見ているのは、「ナラティブ」です。SNSで広まった言説の内容、偽情報の中身、それを発信した主体の名前——これらが分析の中心を占めています。

それ自体は間違いではありません。でも問題は、そこで分析が止まってしまっていることです。

情報操作が実際に動く土台、つまり資金の流れ、自動化されたボット、情報を増幅するネットワーク、そして工作が「暴露されること自体を逆手に取る手法」——こうした実行基盤を、上記の研究では「作戦基盤」と呼んでいます。そしてこの作戦基盤こそが、どの国に関する報告書でも最も分析が手薄な部分だったというのです。

以前、北欧のある国の心理防衛庁が「ドッペルゲンガー」という認知戦作戦を検証した報告書の中で、実はロシア内部ではその作戦が組織的な「作戦」として成立していなかった可能性を示したそうです。表面の現象から幻のような敵像を組み立て、それをひたすら分析してきたかもしれない——そういう指摘でした。

ここで思い出すのが、臨床での「対症療法 (症状に対する治療)」と「原因に対する治療」の違いです。見えている症状だけを追っていても、病態の根本が変わらなければ問題は解決しない。認知戦の研究も、まったく同じ構図に陥っているように見えます。

特殊詐欺の捜査に例えると、リアルに見えてくる


この分析の中で、私が最も腑に落ちたたとえがあります。

かかってきた電話の声と手口(ナラティブと発信者)は熱心に記録する一方で、お金がどこへ流れ、犯罪組織がどう機能しているか(作戦基盤)は追わない——これでは受け子を一人捕まえても、組織の本体はびくともしない。いまの認知戦研究は、そういう捜査に近い、というわけです。

このたとえを読んだとき、怖さよりもむしろ「そういうことか」という腑に落ちる感覚がありました。人間は、目に見えるものを追い、目に見えないものを後回しにしやすい。それは私たちの認知の自然な傾向でもあり、組織や集団のレベルでも起きうることです。

最も危ない国が、最も研究されていないという逆転


この分析でもう一つ、強く印象に残った事実があります。

攻撃能力を示す指標(ドクトリン評価)の得点では、中国が97点でトップ、イランが95点、ロシアが85点という順位でした。ところが、報告書の件数を見ると、ロシアが全体の41%を占めるのに対して、中国はわずか6.9%、イランに至っては0.8%しかありません。

能力が高い国ほど、研究が少ない。この逆転現象は、ウクライナ戦争以降ロシアへの関心が集中した欧米の安全保障コミュニティの事情を反映していると言えます。しかし日本にとって、地政学的に重要な相手は中国でもあります。

そして最も衝撃だったのは、「作戦基盤」を高い水準で分析した報告書が、ロシアに関しては47件存在するのに、中国に関しては一件もないという事実です。この数字を補正計算すると、本来13〜14件は存在してよいはずの分析が、実際はゼロ——という結論になります。

「最も警戒すべき相手が、最も捉えられていない」。研究者のこの言葉は、静かですが重いです。

生成AIが、この問題をさらに複雑にしている


加えて、いま急速に問題が深まっているのが、生成AI(LLM)をめぐる死角です。

AIが操るアカウントはすでに実際に運用されているにもかかわらず、その検知と対策は著しく遅れています。生成AIを使ったナラティブ操作(LLMグルーミング)とボット検出の不足は、互いを増幅し合う関係にあります。AIが人間らしいアカウントを大量に生成できるようになると、従来のボット検出の仕組みそのものが意味をなさなくなるからです。

そしてこの領域で最も高いドクトリン評価を持つのが、研究が最も手薄な中国だというのが現状です。

私たちに何ができるのか


これだけ読むと、「では個人にできることなど何もない」と感じるかもしれません。

でも私は、少し違う見方をしています。

公認心理師として、人の認知の傾向に向き合ってきた経験からすると、「自分が見ているのは全体ではないかもしれない」という意識を持ち続けることは、思っている以上に大切なことです。専門家であっても、組織であっても、人間は自分の枠組みの中で現実を解釈しやすい。その傾向に気づいていること自体が、一種の防衛になります。

情報に対して「これは操作されているかもしれない」と問い続けること。目に見えるナラティブの裏に、見えない構造があるかもしれないと想像すること。それは情報リテラシーの話でありながら、同時に認知の偏りと向き合うことでもあります。

全体像を問い続けることを、あきらめないでいてほしいと思います。

まとめ


今回の研究から見えてきたことを、3点に絞って整理します。

第一に、認知戦の研究は「誰が何を言ったか」というナラティブの分析に偏りがちで、実際に工作を動かしている「作戦基盤(資金・ボット・増幅ネットワーク)」はどの国に関しても手薄なままです。表面を追うだけでは、本体には届かない。

第二に、最も攻撃能力が高いとされる中国に関する分析が、量でも質でも最も不足しています。日本がロシア中心の欧米研究を先例として参照し続けることには、大きな限界があります。

第三に、生成AIの登場によってこの死角はさらに拡大しており、従来の検出手法が通用しなくなるリスクが高まっています。

「幻の敵と戦う」という言葉は、決して他人事ではありません。情報の海の中で何が本当に起きているかを問い続けること——それが今の時代を生きる私たちに必要な姿勢なのだと、この記事を通じて改めて感じています。

最後までお付き合いいただき、本当にありがとうございます。今日の記事が、皆さんの明日以降の一歩を考えるきっかけになればうれしく思います。


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