ワクチンは注射だけじゃない|脳に打つ「心理的予防接種」
SNSで見かけた健康情報、つい信じてしまったことはありませんか?
「〇〇を食べると病気が治る」「△△は実は危険だった」——こうした情報を目にしたとき、私たちの脳は想像以上に無防備です。そして厄介なことに、一度信じてしまった誤情報は、たとえ後から「それは間違いでした」と訂正されても、なかなか頭から消えてくれません。
私は公認心理師として、人の認知の仕組みに日々向き合っています。だからこそ断言できます。「情報を見極める力」は、意志の強さや頭の良さとは関係ありません。これは脳の仕組みの問題であり、誰もが陥りうる落とし穴なのです。
でも、希望はあります。心理学の研究は、誤情報から身を守る具体的な方法を次々と明らかにしています。今日は、その最前線をお伝えします。
<参考>
デジタル空間における情報流通の
健全性の確保の在り⽅
ー ⼼理学領域の動向 ー
https://www.soumu.go.jp/main_content/000917638.pdf
誤情報と偽情報——まず、この違いを知っておきたい
「フェイクニュース」という言葉をよく耳にしますが、実は専門家の間では、情報の問題を「誤情報」と「偽情報」に分けて考えています。
誤情報(misinformation)は、間違った情報が悪意なく広まってしまうケース。たとえば、善意で健康情報をシェアしたけれど、それが実は科学的根拠のないものだった、というような状況です。一方、偽情報(disinformation)は、意図的に人を騙そうとして流される情報を指します。
ここで大事なのは、私たちが日常で出会う問題の多くは「誤情報」だということ。つまり、悪意のある誰かに騙されているというより、善意の連鎖の中で不正確な情報が広まっているケースが大半なのです。だからこそ、「騙されるほうが悪い」という考え方は的外れですし、自分を責める必要もありません。
なぜ人は誤情報を信じてしまうのか
アメリカ心理学会は2023年、誤情報に関する包括的な報告書を発表しました。そこで示された重要な知見のひとつが「真実錯覚効果」です。
これは、同じ情報に繰り返し触れることで、その情報が正しく感じられるようになる現象。私たちの脳は、「見覚えがある」「スムーズに処理できる」ということを、無意識のうちに「正しさ」のサインとして受け取ってしまうのです。
SNSのタイムラインで何度も同じ話題を見かけると、「こんなに話題になっているんだから、本当なのかも」と感じてしまう。これは意志の弱さではなく、脳に備わった情報処理のショートカット機能が働いているだけなんですね。
訂正しても消えない——「誤情報持続効果」という厄介な現象
さらに厄介なのが、「誤情報持続効果」と呼ばれる現象です。
名古屋工業大学の田中優子氏らの研究によると、誤情報は「粘着する」性質を持っています。ファクトチェックによって「それは間違いでした」と示されても、一度信じてしまった情報は、人々の考えに影響を与え続けることがあるのです。
驚くべきデータがあります。ある実験では、誤情報の3倍の頻度で訂正情報を提示しても、誤情報の影響は完全には消えませんでした。つまり、誤情報に一度も触れなかった状態には戻れなかったのです。
この非対称性は、情報発信に携わるすべての人が知っておくべき事実だと私は考えています。「後で訂正すればいい」という姿勢がいかに危険か、このデータは雄弁に物語っています。
「心理的ワクチン」という発想
では、私たちに打つ手はないのでしょうか。
ここで登場するのが「プレバンキング」という考え方です。これは、誤情報に触れる前に、あらかじめ耐性をつけておくアプローチ。医療用ワクチンが感染前に免疫をつけるように、心理的な「予防接種」で誤情報への抵抗力を高めようという発想です。
この理論は1960年代に社会心理学者のウィリアム・マクガイアによって提唱されました。そして現在、ケンブリッジ大学やGoogle、WHO、BBCといった組織が共同で、この理論に基づいた実践的なツールを開発しています。
プレバンキングの基本は二つ。まず、「近いうちに誤情報に出くわす可能性がある」と警告すること。これだけで、脳の防御モードがオンになります。次に、誤情報でよく使われる手口を事前に学んでおくこと。手口を知っていれば、「あ、これはあのパターンだな」と気づけるようになります。
翻訳されたようです。
(プレバンキングを扱った小説です)
誤情報を広める7つの手口
では、具体的にどんな手口があるのでしょうか。研究者たちは、誤情報の拡散によく使われるテクニックを7つに整理しています。
「なりすまし」は、信頼できる組織や人物を装って情報を流す手口。「NASAが認めた」と書いてあるけれど、NASAは一度もそんな声明を出していない、といったケースですね。
「感情操作」は、恐怖や怒りといった強い感情を煽る言葉を使って、冷静な判断を妨げる手法。「〇〇しないと大変なことになる!」といった煽り文句には要注意です。
「二極化」は、「我々」と「彼ら」という対立構造を作り出して、グループ間の敵意を煽るやり方。「偽の二分法」は、実際には多くの選択肢があるのに、二つしかないかのように見せかけるテクニック。「このワクチンを打つか、死ぬか」といった極端な二択を迫るのがこのパターンです。
「個人攻撃」は、議論の中身から注意をそらして、発言者個人を攻撃する手口。「陰謀論的な考え方」は、出来事の背後に秘密のエリート集団が関与していると示唆する説明の仕方です。
そして「偽のバランス」。これは、実際には科学的なコンセンサスがあるにもかかわらず、両論併記で「どちらの意見もある」かのように見せかける手法です。気候変動の報道などでよく指摘される問題ですね。
ゲームで学ぶ、という新しいアプローチ
これらの手口を学ぶ方法として、ゲーム形式の「能動的プレバンキング」が注目されています。
たとえば、ケンブリッジ大学とWHOが共同開発した「GO VIRAL!」というゲームでは、プレイヤーがフェイクニュースを作る側の立場を疑似体験します。15〜20分ほどのプレイで、感情操作や陰謀論的思考といったテクニックを学べる仕組みです。このゲームは2億回以上プレイされているそうです。
ゲーム形式の良いところは、受け身で情報を受け取るよりも、能動的に参加することで学習効果が高まること。研究によると、受動的な接種と比べて効果の持続性が高く、定期的な「ブースター」があれば3ヶ月以上効果が続くことも示されています。
ファクトチェックの限界と可能性
事後的に誤情報を訂正する「デバンキング」も、もちろん重要です。CDCなどの公的機関は、COVID-19に関する誤情報に対してWebサイトやソーシャルメディアで積極的にファクトチェックを行っています。
ただし、ファクトチェックには一つ大きな課題があります。田中氏らのCHI 2023での発表によると、誤情報を信じている人のうち、訂正情報を自らクリックする人は約7%に過ぎなかったのです。
つまり、ネット上に訂正情報を出すことと、その訂正を届けることはイコールではない。訂正情報へのアクセスの仕方には個人差があり、もともと誤情報を信じている人ほど訂正を避ける傾向がある。これは「選択的回避」と呼ばれる現象です。
だからこそ、事後的な訂正だけでなく、事前の予防が重要になってくるわけです。
検索エンジンも中立ではない
もうひとつ知っておきたいのが、「検索エンジン操作効果(SEME)」という現象。
2015年のイギリス総選挙前に行われた実験では、検索結果の順位を操作することで、候補者への信頼度や好感度が変化することが示されました。私たちは検索結果の上位に表示される情報を無意識に信頼しがちですが、その順位がどのように決まっているかは、ほとんどの人が意識していません。
情報を取り巻く環境は、私たちが思っている以上に複雑です。個人の努力だけでなく、アルゴリズムの透明性や、プラットフォームの責任といったシステムレベルの対策も必要になってきます。
今日からできること
ここまで読んで、「結局何をすればいいの?」と思われた方もいるかもしれません。私からの提案は三つです。
一つ目は、「一度見ただけで信じない」という習慣をつけること。同じ情報を複数の信頼できる情報源で確認する。これだけで、真実錯覚効果の影響をかなり軽減できます。
二つ目は、強い感情を揺さぶられたときこそ、立ち止まること。恐怖や怒りを感じさせる情報は、まさにそういう反応を狙っている可能性があります。感情が動いたときは、シェアする前に深呼吸を。
三つ目は、「手口を知る」こと。7つのテクニックを頭の片隅に置いておくだけで、「あ、これは感情操作のパターンかも」と気づける確率が上がります。
終わりに
誤情報対策の研究は、まだ発展途上です。多くの実証研究は北米や西ヨーロッパで行われており、日本の文脈でどこまで応用できるかは、今後の検証が必要です。
それでも、一つだけ確かなことがあります。誤情報に騙されることは、あなたの頭の悪さでも、意志の弱さでもない。これは脳の仕組みの問題であり、適切な知識と対策があれば、誰でも抵抗力を高められるのです。
完璧である必要はありません。「あれ、これ本当かな?」と一瞬立ち止まれるだけで、あなたは十分に変わり始めています。
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