世界中の人が「道徳の低下」を確信しているのに、実は低下していなかった
「最近の人はマナーが悪い」「昔はもっと思いやりがあった」──こんな言葉、聞いたことがない人はいないと思います。私自身、公認心理師として医療の現場にいると、患者さんや同僚から「世の中おかしくなってきてるよね」と言われることが少なくありません。でも、本当にそうなのか。2023年にNature誌に掲載されたコロンビア大学とハーバード大学の研究チームの論文が、この「当たり前の感覚」に真っ向から挑んでいます。総計1,200万人以上のデータを分析した結果は、私たちの常識をひっくり返すものでした。
「道徳が衰退している」──2000年前から人類は同じことを言っていた
この論文を読んで最初に驚いたのは、冒頭に出てくる古代ローマの歴史家リウィウスのエピソードでした。彼は2000年以上前に、ローマ市民の道徳の衰退を嘆く文章を書いています。「道徳の崩壊の過程」が始まり、「建物全体の最終的な崩壊」に至ったと。今の時代を描写しているようにしか見えないこの言葉が、紀元前に書かれたものだという事実に、正直ちょっと笑ってしまいました。
古代から現代まで、どの時代の人々も「最近の人間はダメになった」と確信している。これはいったいどういうことなのか。コロンビア大学のMastroianniとハーバード大学のGilbertの研究チームは、この問いに正面から取り組みました。
60カ国以上、70年分のデータが語ること
研究チームはまず、主要な調査機関のデータベースを徹底的に洗い出しました。1949年から2019年までの70年間に、アメリカの代表的サンプルに対して行われた177の調査項目を分析しています。質問は例えばこんなものです。「この数十年で、社会はより正直で倫理的になったと思いますか、それとも以前より悪くなったと思いますか?」
結果は明快でした。調査項目の84.18%で、回答者の過半数が「道徳は衰退した」と答えていたのです。しかも、この割合は70年間でほとんど変化していませんでした。つまり、1950年代の人も、2010年代の人も、ほぼ同じ割合で「道徳が低下している」と感じていたということです。
この傾向はアメリカに限った話ではありません。アメリカ以外の59カ国の35万人以上を対象にした調査でも、86.21%の項目で道徳の衰退が報告されています。Pew Research Centerが2002年と2006年に40カ国で行った調査では、すべての国で過半数が「道徳の低下は少なくとも中程度の問題だ」と答えていました。
人々は「2つの理由」で道徳低下を感じている
研究チームは、人々が道徳低下を何に帰属させているのかも調べました。すると、大きく2つの要因が浮かび上がりました。
1つ目は「個人的変化」。つまり「同じ人が年齢を重ねるにつれて、道徳的でなくなっていく」という認識です。2つ目は「世代間の置き換え」。「上の世代よりも下の世代の方が道徳的に劣っている」という認識です。いわゆる「最近の若者は…」というやつですね。
研究チームが319名を対象に行った調査(Study 3)では、2020年の人々は2005年よりも「親切さ、正直さ、良さ」が低いと評価されました。そして、この低下の認識は「個人的変化」と「世代間の置き換え」の両方によって有意に予測されたのです。
この「2つの帰属先がある」というのがポイントです。短期間の変化は「個人が変わった」と解釈でき、長期間の変化は「世代が変わった」と解釈できる。どちらのフレームワークでも「衰退」を説明できてしまうので、この認識が非常に頑強なものになっているわけです。
でも、実際には道徳は低下していなかった
ここからが論文のクライマックスです。
研究チームは「人々の道徳が変化したかどうか」を尋ねる調査ではなく、「今の人々の道徳がどの程度か」を直接尋ねる調査を分析しました。1965年から2020年までの55年間に、約448万人に対して行われた107の調査項目です。質問は例えば「昨日一日、あなたは敬意を持って扱われましたか?」「見知らぬ人の荷物を持ってあげたことがありますか?」といった、具体的な道徳的行動に関するものです。
結果は驚くべきものでした。調査年が回答の分散を説明する割合は、平均でわずか0.3%未満。つまり、「今の人々の道徳レベル」に関する報告は、何十年にもわたってほとんど変化していなかったのです。アメリカ以外の33のサンプル(約743万人)でも同様の結果が得られています。
さらに興味深いことに、実際の行動レベルでも道徳は低下していません。Yuanらの2022年の研究によると、囚人のジレンマゲームにおける協力率は1956年から2017年にかけてむしろ有意に上昇しています。歴史的に見ても、殺人や奴隷制度などの重大な不道徳行為は過去数世紀で大幅に減少しています。
つまり、こういうことです。「道徳は低下している」と聞かれたら「はい」と答えるのに、「今の人々は道徳的ですか?」と聞かれたときの回答は何十年も変わっていない。道徳の低下は、事実ではなく「錯覚」だったのです。
なぜ私たちは「道徳低下」の錯覚に騙されるのか──BEAMメカニズム
ではなぜ、こんな壮大な錯覚が生まれるのか。研究チームは「BEAM(Biased Exposure And Memory)メカニズム」という仮説を提案しています。
まず「偏った情報への曝露」。私たちは他者のネガティブな情報に対して、より強く注意を引かれる傾向があります。心理学では「ネガティビティ・バイアス」として広く知られている現象です。そしてメディアは、人々の悪い行いに不釣り合いなほど焦点を当てる傾向があります。結果として、「今の世の中の道徳」について、ネガティブな情報に偏って接触することになります。
次に「偏った記憶」。過去のネガティブな出来事は、ポジティブな出来事に比べて忘れられやすく、ポジティブに記憶が書き換えられやすく、感情的なインパクトも失われやすいことが分かっています。結果として、「過去の道徳」についてはポジティブな記憶が残りやすくなります。
この2つが合わさると何が起こるか。偏った情報曝露によって「現在」は道徳的な荒野のように見え、偏った記憶によって「過去」は道徳的な楽園のように見える。荒野にいて楽園を思い出せば、当然「世の中は悪くなった」と結論づけてしまいます。
BEAMメカニズムを裏付ける2つの実験
研究チームはBEAMメカニズムから導かれる2つの予測を検証しました。
1つ目の予測は、「身近な人について尋ねると、道徳低下の錯覚は弱まるか消える」というものです。身近な人についてはポジティブな情報に多く接触しているので、偏った曝露効果が軽減されるはずです。
Study 5aの結果は、まさにこの予測を支持するものでした。283名の参加者は「一般の人々」については道徳が低下したと感じていましたが、「自分の身近な人々」については、むしろ道徳的に改善したと感じていたのです。職場の同僚は信頼できるけど、「世の中の人」は信用できない──こういう感覚、心当たりがある方も多いのではないでしょうか。
2つ目の予測は、「自分が生まれる前の時代について尋ねると、道徳低下の認識は消える」というものです。記憶にない時代については偏った記憶が働かないので、過去を美化する効果がないはずです。
Study 5bでは387名の参加者に、現在から自分の誕生の40年前までの各時点での人々の道徳を評価してもらいました。結果は非常にきれいでした。参加者は自分が生まれてからの期間については明確に道徳低下を認識していましたが、自分が生まれる前の期間については道徳の変化を認識していなかったのです。まるで道徳低下が「自分が地球に現れたあたりから始まった」かのように。これは偶然の一致ではなく、BEAMメカニズムの予測と見事に合致しています。
政治的立場に関係なく、みんな感じている
補足しておくと、道徳低下の認識は保守的な人の方が強い傾向がありましたが、リベラルな人も同様に道徳低下を認識していました。つまりこれは、特定の政治的立場に基づく認識ではなく、人間の認知の仕組みに根差した、きわめて普遍的な錯覚なのです。
また、年齢が上がるほど道徳低下の認識は大きくなりますが、「年あたりの低下率」に年齢差はありませんでした。つまり、年配の人がより大きな低下を報告するのは、単により長い期間について報告しているからに過ぎないのです。
この錯覚が社会にもたらす「本当の害」
研究チームは、この錯覚が深刻な社会的影響を持つ可能性を指摘しています。
まず、限りある社会資源の誤った配分です。2015年の調査では、アメリカ人の76%が「国の道徳的崩壊への対処」を政府の最優先事項にすべきだと答えています。気候変動や経済格差など実在する問題がある中で、存在しない問題の解決にリソースを割くよう求めているわけです。
次に、他者への過小評価です。道徳低下の錯覚を持っていると、見知らぬ人の善意を過小評価し、助けを求めることをためらうようになります。実際の研究では、人々は他者がどれほど喜んで助けてくれるかを過小評価していることが示されています。
さらに懸念されるのは、悪意ある指導者への脆弱性です。「道徳が低下している」という認識は、「低下を食い止める」と約束するリーダーに不当に大きな訴求力を与えます。論文中では直接的な言及は控えめですが、「国を再び偉大にする」と約束する指導者への支持と無関係ではないでしょう。
私が考えること
公認心理師として、この論文を読んで改めて感じたのは、私たち人間の認知がいかに「歪んだレンズ」を通して世界を見ているか、ということです。
日々の臨床的な場面でも、「世の中が悪くなっている」という漠然とした不安を抱える人は少なくありません。でもその不安の多くは、メディアが流す情報と、私たちの記憶の特性が合わさって生み出された錯覚かもしれない。
もちろん、世の中に問題がないわけではありません。でも、「道徳が低下している」という思い込みが、他者への不信感を強め、本来得られるはずの社会的サポートを遠ざけ、さらには不安や孤立を深めるとしたら、それこそが本当の問題なのではないでしょうか。
この論文が教えてくれるのは、身近な人を見れば世の中はそれほど悪くないということ。あなたの友人、家族、同僚──彼らの善意は、あなたが思っているよりもずっと健在です。そのことを、少しだけ思い出してもらえたら嬉しいです。
参考文献: Mastroianni, A. M., & Gilbert, D. T. (2023). The illusion of moral decline. Nature, 618, 782–789. https://doi.org/10.1038/s41586-023-06137-x
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