J.S.ミル『経済学原理』第2巻第14章【29/75】
J.S.ミル『経済学原理』の第2巻第14章「職種による賃金差」をAI翻訳しました。誤訳や読みづらいところが残っているかもしれませんが、温かい目で読んでいただけたらうれしいです。
この翻訳について
目的:個人の学習・読書用の試訳です。学術的な厳密さまでは保証できません。
方法:AIで下訳 → 自分で全体を見直し、一部の表現を修正しています。
出典:原文はこちら。
お願い:引用の際は出典の明記をお願いします(本文リンク・本記事URLなど)。
AIによる要約
職種間賃金差を考える枠組み(アダム・スミスの整理と位置づけ)
【主張】職種ごとの賃金差は、平均賃金を決める一般法則に加え、仕事固有の条件や制度によって生じる追加の法則で説明すべきである。
【根拠・内容1】スミスは差の原因を「政策・制度」と「職業そのものの事情」に分け、後者として①快不快、②習得の難易と費用、③雇用の安定性、④託される信頼、⑤成功確率を挙げた。
【根拠・内容2】ただし提示例には時代や実態に合わない部分があり、要因の解釈(清潔さより筋力要件等)も再検討が必要だとされる。
「不快さ・危険」への補償としての賃金差は、常に成立しない
【主張】自由競争下では不快・危険・不安定な仕事に補償賃金が付くことはあり得るが、一般には逆(過酷な仕事ほど低賃金)が起きやすい。
【根拠・内容1】雇用不安定な職(石工・れんが職等)は失業期間と不安を埋めるため就業中賃金が高くなり得る、という補償の論理がある。
【根拠・内容2】しかし労働供給が需要を上回る局面では、選べない立場の人が嫌われる仕事に押し込まれ、不快な仕事ほど最低賃金に張り付きやすい(「公平な補償」原理と逆方向)。
【根拠・内容3】この逆転は「弱い立場の人に回される構造」に加え、後述の自然独占・人為独占が重なって強化される。
成功確率の低い職業は「宝くじ化」し、平均収益が歪む
【主張】成功が不確実な職では、合理的には成功者が失敗者分も回収するほどの報酬が必要だが、実際は一攫千金への過大参入で平均報酬が低下し得る。
【根拠・内容1】少数の大当たり(名声・巨利)が可視化されると人が殺到し、結果として平均すると損失に近づくという宝くじと同型の現象が起こる。
【根拠・内容2】法曹等は長期教育・高費用・成功確率の低さを踏まえると高報酬が必要なはずだが、現実の総勘定では費用を賄い切れない可能性が示唆される。
【根拠・内容3】危険にも種類があり、冒険的で「腕で切り抜けられる危険」は賃金を押し上げにくい一方、不健康のように回避不能な害は賃金上昇に結びつきやすい。
信頼・教育・技能は「自然独占」を生み、補償以上の上乗せを生む
【主張】高い信頼を要する仕事や教育を要する仕事の高報酬は、競争で均される補償というより、参入できる者が限られる「自然独占」による上乗せとして現れやすい。
【根拠・内容1】貴金属を扱う職、医師・弁護士のように健康や財産・評判を託される職は、「信用できる人が希少」と見なされるほど賃金が上がる。
【根拠・内容2】熟練賃金には教育・訓練の費用と遅延回収を埋める最低限の上積みが必要だが、実際には初歩教育の不足や生活費制約で参入できない層が多く、差が必要幅を大きく超え得る。
【根拠・内容3】事務職など「労力が軽く雇用が安定」でも賃金が相対的に高いのは、教育の未普及による競争不足や、身なり等を求める慣習が残るためと説明される。
階層分離・教育供給・アマチュア参入が、職業別の供給過剰/不足を作る
【主張】職業間の供給は国全体の人口増より「階層・教育・慣習」によって偏って決まり、報酬はその偏りに強く左右される。
【根拠・内容1】歴史的に階層が固定的で、自由業は上層の子、熟練手仕事は職人層の子、非熟練は非熟練の子へと再生産され、各階層内の人口動態が賃金を動かした。
【根拠・内容2】教育機会の拡大や慣習の緩和は競争を強め熟練賃金を押し下げうるが、望ましい是正は「熟練を下げる」より「非熟練を上げる」方向だと論じられる。
【根拠・内容3】慈善・公費での教育は聖職者・教師・文筆などの供給を過剰化し、報酬を押し下げ得る(スミスの例)。
【根拠・内容4】近代は別要因として、別収入を持つ「アマチュア」の大量参入が文筆市場の競争を強め、上位の巨額報酬があっても職業としての期待収益を下げる。
「副収入・家族就労」は賃金を下方に押し、女性賃金は制度・慣習で下限が低い
【主張】他の収入源がある(副業・家内工業・家族全員の就労)ほど当該労働の要求賃金が下がり、特に女性は職域制限と慣習により賃金の下限が男性より低くなりやすい。
【根拠・内容1】家内工業のように「主生計が別にある」供給が需要を満たすと、価格(賃金)は継続するだけの最低水準まで下がり得る。
【根拠・内容2】妻子が稼げる業種ほど「世帯として必要な所得」を満たしやすく、男性賃金(ひいては世帯賃金)が低位に固定されやすい(手織り機織工の例)。
【根拠・内容3】女性は開かれた職種が少なく就業先が過密になりやすい上、「独身女性は自分が食べられれば足りる」と見なされがちで、賃金が生存費近くまで下がり得る。
【根拠・内容4】男性賃金は(妻子扶養という慣習が強い限り)家族維持の必要水準が下限として働き、女性ほど低下しにくい。
法・組合・慣習が競争を歪め、賃金・報酬を固定化する領域がある
【主張】徒弟制・同業組合・結社などの参入制限は賃金を人為的に高止まりさせ得る一方、医師・弁護士等では慣習が単価を固定し「値下げ競争」が働きにくい。
【根拠・内容1】参入障壁は賃金を押し上げるが、製品価格に上限があるため無限には上がらず、近代では多くが緩和・廃止されつつある。
【根拠・内容2】一部の労働者結社は外部参入を阻み、他職への移動も妨げて特定層の困窮を悪化させる場合がある(手織り機織工の証言)。
【根拠・内容3】専門職の手数料は「高いほど信用できる」という認知が働き、値下げは需要増ではなく信用失墜を招き得るため、競争は単価ではなく仕事配分として現れやすい。
【根拠・内容4】家事使用人や事務員等への“市場価値以上の支払い”も、見栄だけでなく長期勤続・摩擦回避等の動機によるが、平均賃金全体を人口・資本比の制約以上に押し上げはしない。
本文
一
賃金を論じるにあたって、これまで私たちは、賃金一般に作用する諸要因、すなわち通常または平均的な労働の報酬を支配する法則に限って述べてきたが、仕事の種類によって慣行的に支払率が異なり、その違いがある程度は別の法則に依存するという事実には触れてこなかった。これからは、こうした差異も考慮に入れ、すでに確立した結論にそれらがどのように影響するか、またそれらによって結論がどのように修正されうるかを検討する。
アダム・スミスのよく知られ、広く読まれてきた一章は、この主題のこの部分について、これまでに示されたなかで最良の解説を与えている。もっとも、その扱いが、ときに考えられているほど完全で網羅的で徹底しているとは私には思えない。それでも、論じている範囲に限れば、彼の分析はまずまず成功している。
彼は、賃金などの格差は一部は、どの地域でも物事を完全に自由放任にしない欧州の政策に由来し、残りは「職業そのものに備わる一定の事情」によって生じると言う。その事情は、ある職業ではわずかな金銭的利益の不足を実際に、あるいは少なくとも人々の想像の中で埋め合わせ、別の職業では大きな利益を相殺する。彼が挙げる事情は、第一に職業そのものの快さや不快さ、第二に習得のしやすさと費用の軽さ、または習得の難しさと費用の重さ、第三にそこでの雇用の継続性や不安定さ、第四にそれに従事する者に託される信頼の小ささや大きさ、第五に成功の見込みの高低である。
賃金を左右する要因について多くの実例を挙げて詳しく説明しているが、例の中には、現在の実態と合わないものもあると指摘されている。労働の賃金は、仕事の容易さや困難さ、清潔さや不潔さ、その職業が名誉あるものか不名誉なものかによって変わり、その結果、多くの地域では一年を通して見ると仕立て職人は織工より稼ぎが少ないという。だが、織工の報酬をめぐる事情はアダム・スミスの時代から大きく変化しており、仕立て職人より難しい仕事をしていた職人がいたとしても、それは普通の織工ではなかっただろう。また、織工が鍛冶職人より稼ぎが少ない理由を、仕事がより清潔だからだとする説明についても、むしろ必要とされる腕力や筋力が比較的少ない点を理由と見るほうが自然だろう。さらに鍛冶職人については、職人であっても一二時間働いて得る稼ぎが八時間働く炭鉱夫に及ばないことが多いとし、その理由として、仕事がそれほど不潔ではなく、危険も小さく、地上の日中に従事できることを挙げている。加えて、名誉ある職業では名誉そのものが報酬の大きな部分を占めるため、金銭面では総合的に平均以下だという。一方で、不名誉は逆に作用し、肉屋は粗暴で忌まわしい仕事と見なされがちだが多くの地域で一般の職業より利益が大きく、公の死刑執行人は仕事量に比べてどの一般的な職業よりも高い報酬を受けるとされる。
手織りの織工が、いまでは報酬がわずかになってもなおその仕事にしがみつく理由の一つは、労働者が自分で行動を決められる自由さから生じる独特の魅力にあると言われている。近年の論者は、「織工は気分や好みにまかせて遊ぶことも怠けることもでき、早起きするか寝坊するか、熱心に取り組むか手を抜くかも自分で選べるうえ、娯楽や休養に費やして先に失った時間も、あとで努力を増やせばいつでも取り戻せる」と説明する。さらに、これほど外部の管理から自由な境遇にある労働者はほかにほとんどおらず、工場労働者は欠勤すれば賃金を差し引かれ、欠勤が重なれば解雇されるのに対し、煉瓦職人や大工、塗装工、建具工、石工、屋外労働者もそれぞれ日々の決まった労働時間があり、これを無視すれば同じ結果になる、と比較される。こうした事情から、織工は織機が生活を成り立たせてくれるかぎり、どれほどみじめでもそのそばにとどまり、事情があっていったん離れても、仕事があれば戻ってくる者が多いという。
アダム・スミスは、雇用の継続性は職種によって大きく異なると述べ、製造業の大半では、働ける限り一年のほとんどの日に職人が仕事に就けるとしている。ただし、市場の供給過剰や需要の途絶、商業恐慌による中断は例外である。これに対して、石工やれんが職人は、厳しい寒さや荒天のときは作業できず、それ以外の時期も仕事が顧客からの臨時の注文に左右されるため、しばしば無職になりやすい。したがって、就業中に得る賃金は、仕事のない間の生活を支えるだけでなく、雇用がこれほど不安定であることを思うときに生じる不安や落胆を補う水準でなければならない。その結果、製造業従事者の大半の見積もり収入が一般労働者の日当とほぼ同程度である一方、石工やれんが職人の賃金は通常、五割増しから二倍に達するとされる。しかし、熟練労働の中でも石工やれんが職人の仕事ほど習得が容易なものはないように見えるため、この高賃金は技能への報酬というより、雇用の不安定さへの補償だと結論づけている。
雇用の不安定さに、仕事の過酷さ、不快さ、汚さが加わると、一般労働の賃金が熟練職人を上回ることもある。出来高払いの炭鉱夫は、ニューカッスルでは一般労働のおよそ二倍、スコットランドの多くの地域ではおよそ三倍を稼ぐのが一般的だとされ、その高賃金の主な理由は仕事の過酷さ、不快さ、汚さにある。また彼の雇用は、多くの場合、本人が望むだけ安定しているという。これに対してロンドンの石炭の荷役人夫は、過酷さや不快さ、汚さの点で炭鉱夫にほぼ匹敵する一方、石炭船の到着がどうしても不規則なため、その雇用は必然的にきわめて不安定になる。炭鉱夫がふだん二倍、三倍を得ているなら、石炭の荷役人夫がときに四倍、五倍を得ることがあっても不合理とは言いにくく、数年前の調査でも、当時の支払い水準ではロンドンの一般労働のおよそ四倍を稼げると確認された。どれほど法外に見える収入であっても、それが仕事のあらゆる不快な事情を補ってなお余るほど高いのであれば、排他的特権によって参入を制限されていない職種である以上、まもなく競争者が大幅に増え、賃金はすぐにより低い水準へと下がるだろう。
仕事に伴う不快さを埋め合わせるために賃金差が生まれるという見方は、一定の条件のもとでは自由競争の自然な帰結になり得て、同じ程度の技能や等級で働き、属性も近い人が就く職種どうしでは、実際に当てはまる例も少なくない。しかし、これを快い仕事と不快な仕事の一般的な関係だと言い切るのは事実の捉え方として誤りで、消耗が激しく強く敬遠される仕事ほど、高賃金になるどころか、ほとんど例外なく最も低い賃金にとどまりがちである。そうした仕事を担うのが、ほかを選べない立場の人たちになりやすいからである。労働市場が好調で労働者の数が仕事量を下回る局面では、嫌われる仕事は並み以上の賃金でなければ人が集まらないが、労働供給が需要を大きく上回り、職に就けるかどうか自体が不確実で、条件を問わず仕事があればありがたいという状況では結論が逆になり、雇い手が望む人材はなお選べる立場を保つ一方で、望まれない労働者は提示された条件を受け入れるほかなくなる。その結果、不快な仕事ほど報酬が最低水準になりやすく、そうした仕事が最も弱い立場に置かれ、社会的にも低位にある人たちに回されることで、深刻な貧困や技能と教育の不足のためにほかの職から排除された人たちが、そこへ追い込まれる。さらに、この原因に加えて、後に述べる自然独占と人為独占も重なり、賃金格差は、労働の報酬は不快さの補償に沿うというアダム・スミスの「公平な補償」の原理とは逆向きに生じるのが一般的で、苦しさと稼ぎは本来比例するはずなのに、現実には多くの場合、反比例の関係にある。
アダム・スミスは、仕事の成否が不確かなほど報酬の水準は左右されると述べ、失敗の可能性が高い仕事では、成功したときの報いが、その不利な確率を社会全体で平均したときに埋め合わせられるだけの額であるべきだと説明した。ところが現実には、報酬が少数の「大当たり」として目立つ形で示されると、人びとは一攫千金を求めて殺到し、その結果、平均すれば報酬が〇を下回り、損失にさえなることが起こりうるという。宝くじが成り立つのは、参加者全体が仕組み上必ず損をし、運営者がそこから利益を得る構造だからであり、スミスは、同じ構図が特定の職業にも当てはまるとして、教育を受けて目指した職に就ける見込みは職種によって大きく異なると指摘する。機械工のように成功がほぼ確実な仕事がある一方で、自由業や専門職はきわめて不確実であり、靴職人の徒弟に入れば技術の習得はほぼ確実でも、法学を学んで生計を立てられる水準に達するのは、少なくとも二〇人に一人程度にすぎないという。完全に公正な宝くじであれば当たりはずれの損得は釣り合うはずで、二〇人が失敗し一人が成功する職業なら、成功者が失敗者の分まで受け取るのが筋だとする。法廷弁護士は四〇歳近くになってようやく稼ぎ始めることが多い以上、本来は長期で高額な教育費に加え、結局は稼げない二〇人以上の教育費まで補える報酬が必要になるのに、外からは法外に見えることがあっても、実際の報酬水準はそこまで届かず、見合っていないと述べている。さらに、地域の靴職人や織工を例に、職人全体の一年の稼ぎと一年の支出を比べれば稼ぎが概して上回るのに対し、法曹養成の学生と法律家をまとめて同じ計算をすると、年間の稼ぎは年間の出費より小さく、稼ぎを多めに、出費を少なめに見積もっても、その関係は変わらないとしている。
これが現代でも当てはまるかどうかは、アダム・スミスの時代に比べて、少数の成功者が得る利益が比べものにならないほど大きい一方で、成功できない志願者もはるかに多いという事情を踏まえ、適切な情報を持つ人が判断すべきだろう。もっとも、アダム・スミスは、自分のいう「賞」や「報い」が、弁護人や助言者として受け取る報酬だけでなく、その職業を通じて得られる高給で名誉ある地位や役職に加えて、世間の注目を集める目立つ立場という、誰もが欲しがる特別な名声をも含むことを、十分に考慮していないように思われる。
大きな報酬が見込みにくい仕事であっても、刺激や興奮を求める気持ちだけで冒険的な職に人が集まりすぎ、供給過多になることがある。こうした傾向は、人びとが進んで兵役に就いたり、船乗りとして海へ出ることをあまりためらわなかったりする点に表れている。危険を伴い、間一髪の脱出や薄氷を踏むような生還が語られるような暮らしは、若者をひるませるどころか、かえって職業として魅力的に映ることが少なくない。下層の人びとの間では、愛情深く心配性の母親が、息子を港町の学校に通わせるのをためらうことも多いが、それは船の姿や船乗りの会話、冒険談に触れた息子が海へ誘い出されるのを恐れるからである。勇気や機転、手際で切り抜けられる見込みのある危険は、遠い将来の見通しとしてはそれほど不快に感じられず、いかなる職業でも賃金を押し上げる要因になりにくい。これに対して、勇気や機転、手際が役に立たない種類の危険を伴う仕事では事情が異なり、きわめて不健康だと知られている職業では、賃金が常に目立って高くなりやすい。不健康さは不快さの一種であり、賃金への影響もその一般的な不快さという分類のもとに位置づけられるべきだと考えられる。
二
前段で扱ったのは、仕事の魅力をおおむね同じにそろえるために賃金差が必要となる場合であり、その差が自由競争によって次第に縮まっていく例である。これに対して次に述べるのは、それとは別の原理から生じる実質的な不平等の例である。「賃金は、その仕事を任せるために必要な信頼の大小によって変わる。金細工師や宝飾職人の賃金が、同程度の技能をもつ職人だけでなく、さらに工夫の才能に優れた職人よりも各地で高いのは、貴重な材料を預かる立場にあるからである。私たちは医師に健康を任せ、弁護士や訴訟代理人に財産を、場合によっては生命や評判までも託す。しかし、身分や生活水準が著しく低い人々には、このような信頼を安心して寄せにくい。したがって医師や弁護士などの報酬は、その重大な信任に見合う社会的地位を与える水準でなければならない」。
ここで報酬が高くなるのは、競争の結果として賃金が押し上げられるからではなく、むしろ競争が働かず成立しないからである。その上昇分は、その仕事に伴う不利を埋めるための補償というより、余分な利得として上乗せされるものであり、独占価格に近い性格を持つ。ただし、それは法律に支えられた独占ではなく、いわゆる自然独占の作用によるものである。もし労働者がみな同じように信用できるなら、信頼を理由に金細工職人に割増賃金や特別の手当を支払う必要はない。ところが、求められる誠実さの水準が高く、しかもその資質が珍しいと見なされる場合には、自分がその条件を満たすと示せる人ほど、希少性を背景に高い賃金を得やすくなる。この点は、アダム・スミスを含む多くの経済学者があまりにも軽視または過小評価してきた論点であり、そのためスミスは、一般の労働と熟練を要する職業との報酬格差について、きわめて不十分な説明しか示していない。
習得に長い時間がかかり、教育や訓練にも費用がかさむ職業には、その負担があるぶん賃金が高くなりやすい内在的な理由がある、とアダム・スミスは説明する。たとえば職人が、収入を得られないまま数年を修業に充て、さらに高度な仕事を担えるようになるまでにも数年を要するなら、将来は、これまでの労働に見合う賃金に加えて、受け取りが遅れることへの補償や教育費を通常の利潤率も含めて回収できる見込みがなければ成り立たない。したがって熟練労働の賃金には、通常の水準に上乗せして、働けると見込まれる年数のあいだに投下分を回収できるだけの、いわば年金のような上積みが必要になる。これは、熟練と未熟練の有利不利を合算して同程度にするための最小限の差であり、これを下回れば学ぶ人がいなくなるため、報酬差があるかぎり少なくともこの程度は残るという。スミスの説明はここまでで、差がさらに広がる場合は、徒弟法や同業組合の規則が参入を制限し、熟練職を独占に近づけているためだとみる。ただし、人為的な独占がなくても、熟練労働には未熟練に対する自然な独占が生じ、格差が釣り合いに必要な幅を何倍も上回ることがある。未熟練労働者が学ぶ手間だけで熟練と競争できるなら差は補償の範囲にとどまりやすいが、実際には、わずかな教育費の負担や、学習期間の生活費を別の収入源で賄う必要があるだけで、多くの人が競争に加われない。近年まで、読み書きのような初歩の教育を要する職でさえ機会を得られない人が多く、人材は限られた層に偏り、その結果、一般の労働より著しく高給になっていた。読み書きが広がると、教育を要する下位の職の独占価格は大きく下がり、競争もほとんど信じがたいほど強まったが、それでも競争原理だけでは説明しにくい格差は残る。写し取りなどの機械的作業が中心の事務員がれんが積みの労働者と同水準の賃金を得るなら、労力に比べて割がよすぎる。仕事の負担は一〇分の一にも満たず、習得も容易で、終身に近い雇用で生活も安定しやすい。それでも賃金が高いのは、必要な教育がなお十分に行き渡らず競争者が自然な数に達していないという独占要因に加え、事務員は上位層にふさわしい身なりを整えるべきだという古い慣習の影響が残っているためだとされる。さらに、長年の訓練でしか得られない指先の精密さを要する手作業では、最も繊細な工程を担える人材を、費用をかけても十分に確保しにくく、賃金は主として、製品に対して買い手が支払ってもよいと考える価格によって制約される。時計職人の一部や天文機器、光学機器の製作者がその例で、仮にこうした熟練者がいまの一〇倍に増えても、賃金低下に伴って自然に下がる価格であれば需要は生産を吸収しうる。同様の事情は、いわゆる自由業のように特定の社会的身分に参入を限ろうとする分野ではいっそう強く、低い階層と見なされる人は参入しにくく、参入できても成功しにくい。
労働者の各階層は長いあいだ厳格に分かれ、その境界は世襲の身分差に近いほど固定されてきたため、各職業の担い手は主として同じ職に就く家庭、または社会的評価が同程度の職に就く家庭の子どもによって補われ、もともと低い身分から努力して身を立てた人の子どももそこに加わっていた。自由業は主に専門職層や遊休階級の息子が担い、高度な技能を要する手仕事は熟練職人や同格の商人層の息子が支え、下位の技能職もおおむね同じ流れで補われた一方、非熟練労働者は例外を除けば父から子へと同じ境遇にとどまりやすかった。この分離の結果、賃金は国全体の人口増よりも各階層の内部で人がどれだけ増えるかに左右されやすく、自由業が人余りになるのは、その供給元の階層が大きく増え、しかも多子の家庭が多く、少なくとも一部の息子を自由業に就かせて育てるためだ。職人の賃金が一般労働者よりずっと高いままであったのは、職人が比較的慎重で、早婚や無計画な結婚を避けがちだったことも一因だとされる。しかし近年は慣習や意識の変化が速く、こうした区別は揺らぎ、世襲的な束縛も薄れて、どの階層も少なくとも直下の階層からいっそう強い競争を受けるようになった。慣習的な障壁の緩和や教育機会の拡大は望ましい面が多い一方で、熟練労働の賃金を押し下げる方向に働くおそれもあり、熟練と非熟練の報酬格差が過大であるとしても、是正は熟練を下げるのではなく非熟練を引き上げる形が望ましい。とはいえ、社会の変化が労働者全体における人口増への抑制の強化を伴わなければ、下位の熟練層は自分たちより低い生活水準を前提とする増加率の影響を受け、一般大衆の状態を引き上げないまま自分たちの条件だけが悪化しかねず、最下層が増え続ければ直上の層から得た余地も難なく埋まってしまう。
三
ここまで述べた原理の働きは、なお別の事情によっても修正されるため、あらためて確認しておきたい。一般に、熟練労働、とくに学校教育を必要とする仕事の収入は、大多数の人々にはその教育を受けることができないため、独占的な水準になりやすい。もっとも、各国の政策や個人の寄付は、かつて、この競争制限の影響を弱める方向にも大きく作用してきた。費用を払える人に限らず、より幅広い人々に慈善による教育が提供されてきたためである。アダム・スミスは、こうした事情が学問的、書物にかかわる職業全般の報酬を抑え、とりわけ聖職者や文筆家、学校教師など、青少年を教える職業に影響すると指摘している。この点については、以下、アダム・スミスの言葉で示すのが適切である。
若者を特定の職業に必要な人数だけ育てることがきわめて重視され、ときには公的資金によって、ときには私的な創設者の信仰心によって、この目的のために年金、奨学金、研究奨励金、給費金などが次々に設けられてきたが、それが本来ならその職に就く見込みが高くない人まで多く引き寄せ、供給が過剰になってきた。キリスト教国では、多くの聖職者の教育費はこのような制度でまかなわれていると思われるため、全額を自費で学ぶ人は少ない。したがって、長期間で費用もかかる教育を自費で受けた者でも、必ずしもそれに見合う報いが得られるとは限らない。教会には志望者があふれ、職を得るために、本来その教育が与えるはずの待遇を大きく下回る報酬でも受け入れる人が増え、貧しい者どうしの競争が富める者の報いを奪い、報酬水準を押し下げるからである。副牧師や従軍司祭を一般の職人の下働きと同列に扱うのは適切ではないものの、副牧師や従軍司祭の報酬は、上位者との契約にもとづいて労務の対価として支払われるという性格において、職人賃金に近い。一四世紀半ばを過ぎるまでのイングランドでは、副牧師や俸給つきの小教区司祭の一般的な報酬は五マルクであり、その銀の量は現在の貨幣で一〇ポンドに相当するといくつかの全国教会会議の決議が示しているが、同時期の親方石工の日当は四ペンスで現在の一シリングに相当し、石工の下働きは日当三ペンスで現在の九ペンスに相当するとされ、通年で働ければ両者の賃金は副牧師の報酬を大きく上回り、親方石工が年間の三分の一を失業しても副牧師の水準に達する計算になる。アン女王治世一二年の法律(第一二章)は、副牧師の扶持が不足して牧会が粗末になっているとして、司教が署名と印章を付した文書によって、年額二〇ポンド以上五〇ポンド以下の、十分で確定した俸給や手当を定める権限を認めたが、現在では年額四〇ポンドが副牧師としてよい報酬とされる一方、法律があっても年額二〇ポンド未満の任地は多く、この額は地域によっては一般労働者の稼ぎと大差がない。そもそも賃金規制は引き上げより引き下げをねらうのが通例だが、副牧師については例外的に引き上げを試み、教会の体面や威信を理由に、教区の主任司祭に対して、副牧師が受け入れざるをえないみじめな扶持よりも多く与えるよう求めてきたにもかかわらず、困窮と競争のために法定額未満でも受け入れる人を止められず、同時に雇う側の競争によって法定額を上回る支払いも広がらなかったため、法律はどちらの方向にも意図どおりの調整を実現できなかった。
俸給や恩給のような固定収入がない法曹や医療の分野では、同じ割合の人々が公費で教育を受けるようになると、競争はすぐに過熱して報酬が大きく下がる。その結果、誰にとっても自費で息子をこれらの職に就かせるために教育しても見返りが小さくなり、教育費に見合う利益を得にくくなって割に合わない事態が生じかねない。やがてこれらの職業は公的な支援で教育を受けた人に完全に委ねられ、彼らは人数が多いうえに困窮しているため、全体としてきわめて低く不十分な報酬でも受け入れざるを得なくなる。
一般に文人と呼ばれる、恵まれない人びとは、先に述べた仮定が成り立つなら、法律家や医師が、おそらく置かれるであろう状況とほぼ同じ立場にある。欧州各地では、彼らの大部分が教会に入ることを前提に教育を受けてきたものの、さまざまな事情で叙任を受けられず、聖職に就けなかった。そのため、彼らの多くは公費で教育されてきたが、その人数はどこでも多すぎて、労働の対価はごくわずかな報酬にまで押し下げられている。
印刷術が発明される以前、学者が自分の才能で生計を立てる道は、公的または私的な教師になること、あるいは自分が身につけた珍しく有益な知識を人に伝えることに、ほぼ限られていた。印刷術の普及によって生まれた「書店主のために執筆する」仕事と比べると、教師は名誉があり社会の役にも立ち、ふつうは収入もそれを上回ると考えられてきた。科学のすぐれた教師になるには、長い学習の時間に加えて、才能と知識と努力が欠かせず、その水準は法律や医学の第一線の実務家に求められる条件と、少なくとも同程度である。ところが、すぐれた教師の通常の報酬は、弁護士や医師の報酬に見合っていない。教職には、公費で教育を受けたものの生活に困る人が多く参入しやすく供給が過剰になりやすい一方、法律や医学では自費で教育を受けた人が中心で参入が抑えられやすいからである。それでも公私の教師の通常の報酬が小さく見えるのは、生活のために筆を執るさらに困窮した学者がその市場で競争から外れているためで、もし彼らが参入していれば報酬は確実にいまより低かったと考えられる。印刷術以前には、学者と乞食がほとんど同じ意味で使われた時期があったともいわれ、当時の大学の統治者が学生に物乞いの許可証を与えることも、しばしばあったという。
四
アダム・スミスの時代以後、文章を書く労働への需要は大きく伸びた一方で、慈善に支えられた教育の供給は各地でほとんど増えず、革命を経験した国ではむしろ大きく減った。そのため、文学労働の報酬を押し下げる要因として、そうした制度の影響はいまでは小さいとみられる。だが、それにほぼ匹敵する影響が、やや似た原因、すなわち、ほかの芸術にならって「アマチュア」と呼べる人々が参入して競争が強まったことによって生じている。文学は、主な時間を別の職業に割く人でも成功を収めうる営みの一つであり、必要な教育も一般の教養ある人が受ける程度で足りる。さらに近年の世界の状況では、金銭とは別に、虚栄心を満たしたい人や、私的または公的な目的を進めたい人にとって筆を取る誘因が強い。これらの動機に引かれて、収入を必要としない人がこの道に大勢、しかも増え続けて流入し、仮にまったく報酬がなくても同じように書くであろう人さえいる。例を挙げれば、哲学者ベンサム、経済学者リカード、最もはかなく名声を得た詩人であり、また真に最も偉大な詩人でもあったバイロンとシェリー、そして最も成功した散文作家スコットは、いずれも職業作家ではなく、書いた作品だけで生計を立てられたのは、スコットとバイロンの二人に限られた。著述の上位の分野も大半は同様に、かなりの程度までこうした人々によって占められている。その結果、成功した著者に与えられる最高額の金銭的報酬はかつてないほど大きいにもかかわらず、現状の競争において見込みを合理的に計算すれば、書籍だけで生計を立てられると期待できる書き手はほとんどおらず、雑誌や評論誌によって自活することも日ごとに難しくなっていた。いま教育を受けた人が生計の手段として頼れるのは、手間がかかり不快なことも多いのに個人の名声につながらない種類の文学労働、例えば新聞や小規模な定期刊行物に関わる仕事が中心である。こうした仕事の報酬は総じて明らかに高いが、それは、公私の慈善によって学問教育を受けた、かつて「貧しい学徒」と呼ばれた人々との競争にはさらされる一方で、別の収入源を持つアマチュアはその種の職にはめったに応募しないため、その競争を免れているからである。これらの事情は、著述を職業として成り立たせるという考え方に根本的な不備があるのではないか、また、人類の教師が糧のために学説を説く人々から成るような社会の仕組みが妥当でありうるのか、そしてそれが長く維持できるのか、という問題を提起しており、思想家が注意を向けるに値する主題である。
聖職者という仕事は文筆業と同様、独立した資力や収入のある人が就くことが多い。信仰心や使命感から志す人もいれば、その職に伴う名誉や有用性を目的とする人もおり、将来の高い地位や報酬といった大きな見返りを期待する人もいる。主としてこの事情のために、現在、助手司祭の給与は低い水準にとどまっている。世論の影響で給与はかなり引き上げられてきたものの、国教会の聖職者として求められる身なりや対外的な体裁を保って暮らすには、一般に給与だけではなお十分な生活費を賄いきれない。
生活の主な部分をほかの収入源に頼っている人々が主に従事する仕事では、同程度にきつい別の仕事の賃金と比べて、報酬が際限なく低くなり得る。典型例は家内工業で、農業を主な生計手段とする家族が各戸で紡績や編み物をしていた時代には、製品の売値、つまり労働の対価が非常に安く、それより安くするには非常に精巧な機械が必要だと言えるほどだった。この場合に水準を左右するのは、この種の労働による生産量が需要全体を満たせるかどうかである。需要を満たしきれず、その結果、専業の労働者が一定数必要になるなら、価格はその労働者に通常の賃金を支払える水準となり、家内生産者にもそれに見合う手厚い報いが生じる。他方、需要が小さく家内工業だけで需要を上回る供給ができるなら、価格は農家が続けるだけの価値があると考える最低水準まで自然に下がる。スイスの職人が織機に生計のすべてを頼っていないことが、チューリヒがヨーロッパ市場で英国の資本や燃料や機械と競争を維持できる理由の一つなのだろう。ここまでは副業の報酬の話だが、別の収入源を持つことは、特別な相殺要因がない限り、主たる職の賃金をその分だけ押し下げる方向に働く。人々は家族を持つには一定の生活水準が必要だと考え、それ以上は強く求めない。必要な収入が一つの源から来ても二つの源から来ても事情は変わらず、第二の収入があれば第一の収入に求める額は減る。そして少なくともこれまでの経験では、主業と副業を合わせた稼ぎが、どちらか一方だけを唯一の職とした場合におそらく得られたであろう水準を上回らないところまで、人口が増えていく。
同じ条件で比べると、妻や子どもが職人の仕事に加わる業種ほど、賃金は総じて低くなりやすい。その階級の生活慣行が必要とし、ほぼその水準まで人口が増えがちな「必要所得」は、そのような業種では家族全体の稼ぎで満たされる一方、ほかの業種では男性一人の労働で同じ水準を得なければならず、その結果、家族全体の合計収入が、ほかの業種で男性一人が得る額より小さくなる場合さえある。さらに、結婚を慎重に先送りする抑制が弱まりやすいのは、結婚によってすぐ生活の改善が実感され、結婚後のほうが夫婦の共同収入が家計のやりくりに役立って、結婚が早まりやすいからである。手織り機織工がその例で、多くの織布では女性が男性と同程度に稼ぎ、子どもも非常に早い年齢から働く一方、家族の合計所得はほとんどあらゆる産業より低い水準にとどまり、結婚も早い。しかも手織りの中でも、賃金が業界の一般的な相場を大きく上回る部門では女性や若年者が雇われない点が目立ち、これらの事実は一八四一年の手織り機織工委員会の調査によって確認され、報告された。ただし、これを根拠に女性を労働市場の競争から排除すべきだとは言えない。たとえ男女二人が働いても世帯の稼ぎが男性一人分と変わらない場合であっても、女性が雇い主に生計を依存せずに済む利益は十分に大きく、ときにはそれを上回りうるからである。とはいえ、労働者階級の恒常的なあり方として、家庭の母親(独身女性の場合は全く別である)が生計のために働かざるを得ず、少なくとも住まいの外で働かざるを得ない状況は、望ましいとは言いにくい。子どもについては、必然的に扶養される立場にある以上、その就労が労働市場の賃金相場を押し下げる影響は、教育をより確保するために労働を制限すべきかを考えるうえで重要な論点となる。
五
女性の賃金が全体として男性より低く、差も大きくなりやすい理由は検討に値するが、常にそうだとは限らない。男女が同じ職種で働き、体力面でも同じ程度に適している場合、賃金が必ずしも不平等になるとはいえず、工場労働や手織りによる織布のように出来高払いで効率が確実に試される仕事では、女性が男性と同額を得る例もある。それでも効率が同じなのに賃金だけが違うのだとすれば、残る説明は慣習だけであり、その慣習は偏見、または現在の社会制度に支えられている。社会的にはほとんどすべての女性が何らかの男性の付属物のように扱われることが、男女双方に関わる取り分の配分において男性に大きな取り分を体系的に与えやすくしている。とくに問題となるのは、女性に固有とされてきた職業では、同程度の技能が求められ、同程度につらい仕事であっても、男性中心の職業より報酬が著しく低いとみなされやすい点である。家内使用人の場合、賃金は一般に競争によって決まらず、労働の市場価値を大きく上回ることが多いが、その超過分では、慣習で左右される事柄の多くと同じく、男性がはるかに大きな取り分を得やすい。反対に、雇用主が競争を最大限に利用できる職種では、女性の低賃金そのものが供給過剰の証拠だといえる。賃金で自立する女性は男性より少ないのに、法律や慣行によって女性に開かれる職種が比較にならないほど少ないため、女性の就業の場はいっそう過密になり、その結果、女性賃金は男性よりはるかに低い下限まで押し下げられ得る。独身女性の賃金は本人の生活費を賄えることが最低条件だが、それを上回る必要まではないと見なされがちであるため、下限は一人が生きるのに欠かせない最小限の生活費にとどまりやすい。これに対して男性の賃金は、競争が過剰になっても恒常的にはそこまで下がりにくく、妻が慣習上、夫の稼ぎを補わない社会では、夫が自分と妻、さらに人口を維持するのに足る人数の子どもを養える水準が求められ、それを下回れば人口は維持できない。たとえ妻がいくらか稼ぐとしても、夫婦の合計賃金は少なくとも一定期間は子どもを扶養できる水準が必要であり、このため賃金が下がり得る最低の限界は、一時的な危機や衰退産業を除けば、女性の職業以外ではほとんど起こり得ない。
六
これまでの議論では、人為的な妨げがないかぎり競争は自由であり、制約は自然の事情や社会全体の状況が意図せず及ぼす影響に限られる、という前提で話を進めてきた。だが実際には、法律や慣行が介入して競争を制限することがある。徒弟制度に関する法律や同業組合などの規則によって、特定の職業への参入に時間がかかり、費用がかさみ、参入そのものが難しくなれば、その職業の賃金は一般労働の賃金に対する自然な比率を大きく上回る水準で維持されうる。ただし、賃金を通常以上に引き上げるには、それに見合う価格の上昇が必要であり、生産者の数が限られていても、生産物をすべて売り切れる価格には上限があるため、賃金が際限なく上がるわけではない。多くの文明国では、かつてのこうした制限は廃止されたか大幅に緩和され、近いうちに完全に姿を消すと見込まれるが、それでも一部の業種では、労働者の結社が一定の範囲で同様の効果を生んでいる。結社は競争者の数も抑えなければ人為的に高い賃金を保てず、多くは失敗するものの、ときにはそれを達成することもある。いくつかの業種では、外部の者が職工や徒弟として入ることをほとんど不可能にし、人数も制限したうえで、結社が定める条件の下でのみ受け入れてきた。手織り機織工委員会では、これが不況に苦しむ同じ階層の境遇をさらに悪化させる不利益の一つだと証言された。彼ら自身の職は供給過剰でほとんど成り立たない一方、習得が難しくない別の職種は多いのに、そうした職種に就くうえでも他の労働者結社が、これまで越えがたい障害として立ちはだかっている、という。
このような特殊な事例で組合の排他性が残酷なかたちで作用することがあるとしても、それだけで組合が全体として有益か有害かを決めるべきではなく、結論はより広い影響と結果を見通したうえで下す必要があり、しかもこの種の事実は判断材料の中で最も重要な項目の一つとは言いにくい。労働者が個人に対して暴行や威嚇、脅迫、威迫を加える行為は最も厳格に抑えるべきだが、ここではいったん論点から外しておく。国民の一般的な生活習慣が今後も改善しないとすれば、特定の職種で人数を抑えて賃金を維持する部分的な組合は、過剰人口の流入に備えてある一地点の周囲に防御線や防壁を築くことに似ており、その結果、賃金は無謀で備えの乏しいほかの階級の増え方に左右されるのではなく、自分たち自身の増え方に左右されることになる。一見すると、より多数の人びとを締め出して比較的少数の利益を分かち合せないのは不正で不当かつ不公平に見えるが、受け入れても暮らし向きの改善は短期間にとどまり、長く残るのはほかの人びとをその水準まで引き下げる効果にすぎないと考えれば、その印象は薄れる。労働者階級全体で過密が和らぐ傾向が生じた場合にこの見方がどの程度弱まるのか、また取引の観点から同業組合的な結合を否定するより望ましいと評価できる別の根拠があるのかは、後の章で結社法の問題とあわせて論じる。
七
本章を終えるにあたり、すでに述べた点を繰り返すと、賃金や報酬のなかには、競争ではなく慣習によって水準が決まるものがある。医師や外科医、法廷弁護士、事務弁護士などの報酬や手数料がその代表例で、これらは原則としてあまり変動しない。競争がまったくないわけではないが、多くの場合、単価を下げる形ではなく、仕事を分け合う形で現れる。その理由の一つは、支払われる額が高いほど、その専門家は仕事ぶりに比して信頼できるという見方が広く行き渡っていることにあるのかもしれない。そのため、弁護士や医師が通常の相場より安く引き受けても、仕事が増えるどころか、むしろ今ある依頼を失う可能性すらある。同様の理由で、雇用主が格別の信頼を置きたい人、あるいは単なる労務以上のものを求める人には、その労働の市場価格を大きく上回る賃金を支払うのが通例である。たとえば、余裕のある家庭の多くは、家事使用人に、同程度に有能な人の労働を市場で買える額よりも高い賃金を支払う。これは見栄のためだけではなく、より合理的な動機からでもある。すなわち、雇った人に快く働いて長く勤めてほしいこと、日々接する相手と厳しい条件交渉をしたくないこと、薄給に伴いがちな身なりや生活習慣を、身近に置き、絶えず目にするのを好まないこと、などである。同様の感情は、事業者が事務員などの従業員を待遇する際にも働く。雇用主の気前のよさや寛大さ、信用を保ちたいという動機は、競争を口実に賃金を切り詰めることを、働く限りにおいて抑える。とはいえ、それによっても、人口と資本の比率が定める範囲を超えて平均賃金を引き上げることはできない。一人当たりの支払いを増やせば、雇用できる人数が減るからである。こうした動機の道徳的効果がいかにすぐれていても、雇用から外れた人々の困窮が、人口の抑制を強めることによって間接的な再調整をもたらさない限り、経済面での効果は乏しい。
