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J.S.ミル『経済学原理』第3巻第17章【48/75】

J.S.ミル『経済学原理』の第3巻第17章「国際貿易」をAI翻訳しました。誤訳や読みづらいところが残っているかもしれませんが、温かい目で読んでいただけたらうれしいです。

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この翻訳について

  • 目的:個人の学習・読書用の試訳です。学術的な厳密さまでは保証できません。

  • 方法:AIで下訳 → 自分で全体を見直し、一部の表現を修正しています。

  • 出典:原文はこちら

  • お願い:引用の際は出典の明記をお願いします(本文リンク・本記事URLなど)。

AIによる要約

国際貿易が生じる根本理由(国内生産が可能でも輸入する理由)

  • 【主張】国際貿易は「どこが絶対的に安く作れるか」ではなく、国境を越える労働・資本移動の不完全さの下での相対的な有利不利によって成立する。
    • 【根拠・内容1】近隣では不利な側の労働者・資本が有利な地域へ移り、同一市場で利潤差が埋まるため「不利な生産」は残りにくい。
    • 【根拠・内容2】国境や距離・制度・心理的障害により資本移動は限定され、賃金・利潤差が残りうるため、国内最安の場所だけが生産地になるとは限らない。
    • 【根拠・内容3】相手国が全品目で優位でも、優位の“程度”が品目ごとに違うので、互いに一部の品目を輸出入する余地が生まれる。

比較費用(比較優位)こそが交換を決める

  • 【主張】貿易の可否と利益を決めるのは生産費の絶対差ではなく、二国間での相対的(比較上)の費用差である。
    • 【根拠・内容1】両財で同じ比率だけ劣る/優る場合は、特化しても節約が生まれず、輸送費を負担してまで交換は起きない。
    • 【根拠・内容2】片方の財で相対的に不利が小さい国がその財に特化し、相手の相対的に有利な財と交換すると、双方で労働・資本の節約が生まれる。
    • 【根拠・内容3】貿易利益の配分は交換条件(交易条件)に左右され、節約分が一国に偏らず双方に分かれうる。

対外貿易の直接利益(世界の生産力の効率化)

  • 【主張】直接の利益は、各国が相対的に得意な生産に資源を振り向けることで、世界全体の産出を増やす(または同じ産出に必要な労働を減らす)点にある。
    • 【根拠・内容1】両国が輸入品まで含めて自給を目指すほど、労働・資本の生産性が下がり、総生産が減る。
    • 【根拠・内容2】たとえ一国が全面的に劣位でも、国ごとの大移住は現実的でない以上、相対的不利が最小の部門に資源を配分するのが最善になりうる。

「輸出が利益」という俗説への批判(重商主義の残滓)

  • 【主張】貿易の利益は輸出ではなく輸入(同じ資源でより多く/より安く入手できること)にあり、「市場拡大」等の言い回しは誤解を招く。
    • 【根拠・内容1】輸出は輸入を得る手段にすぎず、輸出が妨げられれば見返りを失うため輸入も止まる。
    • 【根拠・内容2】貿易停止後も資本は国内で回転しうるが、失われるのは輸入品の消費者利益であり、代替品の高コスト・高価格を受け入れることになる。
    • 【根拠・内容3】商業は「生産をより安くする仕組み」で、特権がなければ商人だけが超過利潤を得る構造ではなく、最終的受益者は消費者である。

間接利益(技術進歩・産業発展・文明化と平和)

  • 【主張】より重要な間接利益は、広い市場が改良と分業を促し、遅れた社会の欲求と活力を喚起し、さらに知性・道徳・国際平和を前進させる点にある。
    • 【根拠・内容1】市場拡大は分業・機械化・工程改良を促進し、世界の生産力を押し上げる。
    • 【根拠・内容2】新しい財や価値への接触が嗜好と欲求を育て、勤労・貯蓄・資本蓄積を促して停滞社会を転換させうる。
    • 【根拠・内容3】異文化接触を増やして偏狭さを矯正し、技術だけでなく人格・制度面の学習を促す。
    • 【根拠・内容4】他国の繁栄を自国の利益と結びつけ、戦争と両立しにくい利害を広げることで、貿易拡大は平和と継続的進歩の保証となる。

本文

消費市場の近くで作ったほうが便利だと思われる商品が、なぜ遠方から運ばれてくるのか。その理由は表面的に捉えられがちである。熱や土壌、水、空気などの条件がそろわなければ、そもそも生産できない品目があるのは確かだが、国内でも無理なく必要な量を生産できるのに、それでも遠方から輸入される品目は少なくない。一般には「輸入のほうが国内生産より安いから」と言われ、それ自体は正しいとしても、なぜ安くなるのかはさらに説明が必要である。同じ場所で生産される二つの商品で、一方が安いのは、より少ない労働と資本で生産でき、つまり生産費が小さいからだ。では、生産地が違っても同じ理屈は成り立つのか。輸入されるのは、運び先の地域よりも、労働が少なく、あるいは費用のもう一つの要素である時間がより少なくて済む地域で生産できる品目に限られるのか。価値が長期的には生産費に比例するという法則は、隣り合う地域の産品だけでなく、遠く離れた地域の産品の間でも成り立つのか。

しかし、そうではないことがわかる。ある財は、労働や資本の投入が最も少なくてすむ場所ではなく、別の地域で生産したほうが、結果として最も安く売れる場合がある。たとえば、イングランドが穀物と毛織物の両方でポーランドより明確に生産上の優位にあったとしても、イングランドがポーランドから穀物を輸入し、その代金を毛織物で支払うことはありうる。同じように、ポルトガルがイングランドより少ない労働と資本で綿製品を生産できるとしても、イングランドが綿製品をポルトガルに送り、ワインと交換する取引が成立することもありうる。

このようなことは、隣接する地域どうしでは起こりにくい。たとえばテムズ川の北岸が靴の生産で南岸より有利であれば、南岸では靴が作られなくなり、靴職人は資本とともに北岸へ移るか、はじめから北岸に店を構えることになる。同じ市場で北岸の職人と競う以上、不利を消費者に押しつけて埋め合わせることはできず、そのしわ寄せはすべて自分たちの利益に及ぶ。川を渡るだけで利益が増えるなら、低い利益に長く甘んじる理由がないからである。ところが遠隔地、特に国が異なる場合には、利益率の差が残りうる。強い動機がないかぎり、人も資本も遠方へは移さないのが一般的だからである。もし資本が、同じ町の別の地区へ移るのと同じ手軽さで世界の遠方へも移動し、わずかな費用削減のために工場を米国や中国へ移すのが当たり前になれば、利益は世界じゅうで同一か同程度となり、同じ労働と資本で最も多く、最も良質に生産できる場所で、あらゆる財が作られるだろう。実際、そうした方向への動きはすでに見え始めている。資本の国際化が進み、文明国同士で生活様式や制度の共通点が増え、心理的な隔たりも小さくなった結果、人口も資本も以前より小さな誘因で国境を越えて動くようになっている。それでも地域間には賃金と利益の大きな差が残る。ウォリックシャーからヨークシャーへ移るには小さな動機で足りるが、インドや植民地、アイルランドへ移るには、はるかに大きな動機が要る。フランス、ドイツ、スイスへは植民地へ向かうのと同程度に資本が動くこともあり、言語や政治の違いは気候や距離ほどの障害にはなりにくい。さらに未開とされる国々や、ロシアやトルコのように文明化の途上にある国々へは、非常に大きな追加利益という誘因がなければ、資本は移りにくい。

そのため、離れた地域同士、特に国境を挟む場合には、同じ中央政府の下にあるかどうかにかかわらず、労働や資本の収益に大きな差があっても、その差を埋めるほど労働力や資本が大量に一方から他方へ移動するとは限らない。ある国の資本は、国内でそれを運用する方法がどれであっても国外より生産的にならない場合でさえ、そのかなりの部分が国内にとどまりやすい。それでも、そのような状況の国であっても他国との貿易は行われ得るし、おそらく実際に行われる。相手国が自国より少ない労働で生産できる品目であっても、何らかの品目を輸出することは起こり得る。なぜなら、相手国がすべての品目で自国より有利だとしても、有利さの程度は品目ごとに異なるため、相手国は有利さが最も小さい品目を輸入に回し、有利さが最も大きい品目に労働と資本をより多く振り向けた方が利益になるからである。

私はすでに別のところでリカードにならい、交換を左右するのは生産の絶対的な費用差ではなく、比較上の費用差である、と述べた。たとえイングランドが鉱業でも製造業でもスウェーデンより生産性が高くても、綿織物と交換してスウェーデンの鉄を得たほうが有利になる場合がある。綿織物での優位が二分の一で、鉄での優位が四分の一にとどまり、しかもスウェーデンが自国で綿織物を生産するときに支払う価格で綿織物をスウェーデンに売れるなら、鉄も綿織物も、ともに二分の一だけ有利に手に入る。われわれは外国と取引することで、相手国の産品を、相手国自身がそれを得るのに要するより少ない労働と資本の費用で手に入れられることが少なくない。それでも取引が相手国にとっても有利なのは、その見返りに受け取る商品は、こちらでは安く作れるものであっても、相手国にとっては自国で作るほうがより高くつくからである。

二国間で商品交換が起きない場合と起きる場合を示すため、ミルは『経済学原理』で、ポーランドが毛織物と穀物の両方の生産において英国より有利だという仮定を置いている。まず、その有利さは両商品で同程度だとして、ポーランドでは毛織物も穀物もそれぞれ一〇〇日分の労働で生産できる一方、英国ではいずれもそれぞれ一五〇日分の労働を要するとする。すると、英国が一五〇日分の労働で作った毛織物をポーランドへ送っても、ポーランドの一〇〇日分の労働による毛織物と同量にしかならず、それを穀物と交換しても一〇〇日分の労働による穀物としか交換できない。さらに、その穀物は仮定上、英国で一五〇日分の労働をかけて生産する穀物と同量であるため、英国は輸送費まで負担して輸入しても国内生産と同量しか得られず、この条件では交換は起きないと結論づけている。この場合、両国における二商品の比較費用は同じで、絶対費用だけが異なるにすぎないので、どちらの国も一方の生産に特化して他方を輸入しても労働は節約されない。

二国間の貿易で重要なのは、二つの品目の生産費の絶対額そのものではなく、どちらの国がどちらの品目を相対的に有利に生産できるかという比較費用の違いである。たとえば、ポーランドは毛織物も穀物もそれぞれ一〇〇日分の労働で生産できるのに対し、イングランドは毛織物に一五〇日分、穀物に二〇〇日分の労働を要するとする。このとき、イングランドが毛織物を生産し、それと引き換えにポーランドから穀物を輸入すれば、本来二〇〇日分の労働を要する穀物を一五〇日分の労働で得られ、取引のたびに五〇日分の労働を節約できる。しかもこの節約はポーランドの犠牲によるものではなく、ポーランドは一〇〇日分の労働で生産した穀物で、国内で生産しても同じく一〇〇日分の労働がかかる毛織物を買っているだけなので、損失は生じない。しかし、この条件のままではポーランドに追加の利益は生まれず、輸入毛織物の負担が国内生産と同じにとどまるため、ポーランドが利益を得るには、交換条件がポーランド側に有利に動き、一〇〇日分の穀物で国内生産より多くの毛織物を買える必要がある。その場合、イングランドは穀物を一五〇日分を超え二〇〇日分に満たない労働負担で入手することになり、貿易によって両国合わせて節約された労働のすべてを一国だけが受け取る形にはならなくなる。

以上の説明から、国際的な交換、つまり対外貿易の利益がどこにあるかが分かる。自国ではまったく生産できない商品を入手できるという点はいったん脇に置くとしても、その利点は、世界全体の生産力をより効率よく活用できることにある。貿易を行う二国が、相手国から輸入している品目を可能な限りすべて自給しようとすれば、両国の労働と資本の生産性は低下し、両国がその産業によって得る財の総量も、各国が自国向けと相手国向けの双方について相対的に最も効率のよい品目の生産に専念する場合ほどには増えない。こうして二国の総生産が押し上げられることが、貿易の利益である。もっとも、一方の国が生産能力の点で全面的に劣り、その国の労働と資本をまるごと他方の国へ移すほうが有利だという場合も考えられる。例えば、オランダを居住可能にするために投じた労働と資本は、アメリカやアイルランドに回していれば、より大きな収益を生んだはずである。すべてが最も生産に適した場所で作られるなら、世界の産出は増えるか、必要な労働は減るだろう。しかし少なくとも現代において、諸国民が国ごと大規模に移住することはない。したがって各国の労働と資本が国内にとどまる以上、たとえ優位な品目が一つもなくても、相対的な不利が最も小さい品目を、国内向けだけでなく海外市場向けにも生産することが、最も有益な使い方となる。

先へ進む前に、本稿が国際通商の利益をどのように捉えるのかを整理しておきたい。そのために、本稿の見解を、同じ論点をめぐって過去に有力であり、現在も一部で支持されて一定の影響力を保っている他の理論や諸説と比較し、その違いを明らかにする。

先に述べた学説によれば、外国貿易の唯一の直接の利益は輸入にある。各国は、国内ではまったく生産できない品、または国内で生産すれば資本と労働の費用が、それらの代金として輸出する品の費用を上回る品を海外から入手する。こうして、同じ資本と労働で必要な商品の供給をより豊かにしたり、同じ供給をより少ない資本と労働で確保して、余った分を他の生産に振り向けたりできる。ところが、世間で広く唱えられてきた俗説はこの利益を顧みず、貿易の利得は輸出にあると考えてきた。国が受け取るものではなく、対外貿易で差し出すものが利益だと言わんばかりに、「自国生産物の市場拡大」「商品の豊富な消費」「余剰のはけ口」といった言い回しが、外国との貿易の効用や推奨点を示す決まり文句として用いられてきたのである。この見方がもっともらしく思われるのは、貿易問題について意見を書き、世論を導いてきた人々が、これまでもっぱら売り手階級だったことを考えれば理解できる。実際それは、貨幣だけが富であり、(自国に鉱山を持たない国にとっては)商品を売って、言い換えれば商品を貨幣と交換して富を増やすことが唯一の道であり、したがって輸入、すなわち貨幣を手放すことはその利益から差し引かれるのだとする重商主義の学説が、形を変えてなお残っている名残なのである。

貨幣だけを富とみなす考え方はすでに否定されているが、その延長にある発想はいまも根強く残っている。そして、それを批判したアダム・スミスでさえその影響から完全には自由ではなく、ほかの根拠では説明しにくい見方を一部に残した。スミスは、外国貿易の利益は国の「余剰生産物」に販路を与え、国内資本の一部が利潤を得ながら回転して回収される点にあると述べたが、こうした言い回しは誤解を招きやすい。「余剰生産物」という語からは、輸出する穀物や織物が国内の必要のために作られ、国内で消費しない分が海外で消費されなければ無駄になるとか、もし生産をやめれば資本が遊んで国内の生産がそれだけ減る、といった含みが生じやすいが、いずれも誤りである。国が自国の需要を超えて輸出向けに生産するのは避けられない成り行きではなく、ほかの財をより安く手に入れるための手段としてそうしているにすぎず、輸出が妨げられればその生産は止まり、見返りとなるものを差し出せない以上、輸入も止まる。もっとも、輸出向けに使っていた労働と資本は、それまで海外から輸入していた望ましい財の国内生産に向かい、国内で作れない財については代替品の生産に回るため、生産費は従来の輸入品より高くなるが、その分だけ価値と価格も上がり、資本は通常の利潤を伴って回収されるので、資本の回転そのものが大きく損なわれるわけではない。結局、転換期の不便や一時的な混乱を除けば、不利益を受けるのは輸入品の消費者であり、以前ほど好まない代替品で我慢するか、以前より高い価格を払うことを受け入れざるを得ない。

商業が国にもたらす効果については誤解が多く、商業が国富の源だと言われると、消費者が安く買えることよりも商人が築く巨額の財産に目が向きやすい。しかし、独占的な特権や権力の後ろ盾がないかぎり、商人の利益は国内で資本を運用して得られる通常の利潤を大きく上回るものではない。外国貿易に回っている資本は国内市場への供給には使えないという見方もあるが、これは前章で述べた一般的過剰生産という誤りと同じ発想であり、理屈を持ち出すまでもなく、その資本は国内でも仕事を見つけ、失われたのと同じ程度の雇用が別の形で生まれると考えられる。輸出が止まれば同じ価値の輸入も止まり、これまで輸入品の購入に充てていた所得は、国内で生産された同種の品、またはそれに代わる品へと向かって支出される。つまり商業は生産をより安くする仕組みであり、最終的に利益を受けるのは消費者である。取引を担う業者は、買い手が同じ金額で多くを得るか少なくしか得られないかにかかわらず、結局は利潤を確保する。とはいえ、商品の値下がりが利潤率を押し上げることがあり得る点を否定するものではない。この点はすでに触れたが、今後さらに詳しく述べる予定であり、とくに値下がりした品が労働者の消費物で、労働費用に組み込まれて利潤率を左右する場合に、その効果が現れ得る。

以上が外国貿易のもたらす直接の経済的利益であるが、これとは別に、より重要な利益として評価すべき間接的な効果もある。第一に、市場が広がるほど生産工程や生産方法は改良されやすい。自国を超える大きな市場に向けて生産する国ほど分業をいっそう進めやすく、機械も有効に活用できるため、工程の発明や改善が生まれやすくなる。同じ場所でより多くを生産させる要因は、世界全体の生産力を高める方向に作用する。第二に、特に工業化や産業発展の初期段階では、嗜好や欲求が未成熟であったり、欲求そのものが乏しかったりすることが、生産力の発揮や生産の伸びを妨げる場合がある。社会が停滞して活力を欠き、勤勉さや教育、文化が十分に育たず、嗜好がすでに満たされているか、そもそも形成されていないときには、目標となる欲求が少ないために生産力が十分に引き出されず、資源が活用されないままになりやすい。ところが外国貿易が開かれ、新しい品や価値に触れ、従来は手に入らないと思っていた物が比較的容易に得られるようになり、または得られる見込みが立つようになると、意欲や向上心の不足によって資源が生かされてこなかった国でも、産業革命に近い変化を伴う大きな転換が起こりうる。最低限の快適さと少ない労働で満足していた人々が、新たな嗜好を満たすためにより働き、将来さらに満たすために貯蓄して資本を蓄積するよう促されるからである。

商業の価値は、経済的な利得にとどまらず、知性や道徳に及ぼす影響のほうが重要である。人間の向上がまだ十分でない現状では、自分と異なる人々や見慣れない考え方、行動に触れる機会はきわめて重要であり、そうした接触を生み出す主要な源は、かつては戦争だったが、いまは商業である。先進国から来た商人や事業家は、しばしば未開の社会にとって最初の文明化の担い手となってきたうえ、文明国同士の連絡や往来の大半も商業を目的としている。こうした交流は昔から、そしてとりわけ現代において、進歩を生む主要な要因の一つとみなされてきた。人間は、これまでの教育のままでは、よい資質でさえ欠点になるほど行き過ぎさせがちなのだから、自国の考えや慣習を、異なる境遇の人々の経験や模範と常に照らし合わせて比較し続けることが欠かせない。各国は他国から、技術や習慣だけでなく、自国の国民性が劣っている人格上の重要な点までも学び取る必要がある。さらに商業は、諸国に互いの富と繁栄を好意的に見ることを初めて教えた。以前は、十分に教養が進んで世界を自国と思えるほどでないかぎり、愛国者は自国以外の国が弱く、貧しく、統治が悪いことを望みがちだったが、いまでは他国の富と発展が自国の富と発展の直接の源にもなると理解するようになった。商業は、戦争と相いれない個人的利害を強め、その数を増やすことで、戦争を急速に時代遅れにしつつある。国際貿易が大規模で、しかも拡大が速いことは、世界の平和を支える有力な保証であるとともに、人類の思想や制度、人格の進歩を途切れさせない恒久的な安全保障だといえる。

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