J.S.ミル『経済学原理』第2巻第13章【28/75】
J.S.ミル『経済学原理』の第2巻第13章「低賃金対策をさらに検討する」をAI翻訳しました。誤訳や読みづらいところが残っているかもしれませんが、温かい目で読んでいただけたらうれしいです。
この翻訳について
目的:個人の学習・読書用の試訳です。学術的な厳密さまでは保証できません。
方法:AIで下訳 → 自分で全体を見直し、一部の表現を修正しています。
出典:原文はこちら。
お願い:引用の際は出典の明記をお願いします(本文リンク・本記事URLなど)。
AIによる要約
貧困・低賃金は「解決不能」ではなく、人為(世論・制度)で改善しうる
【主張】貧困と低賃金は宿命ではなく、社会が本気で対策すれば是正できる。
【根拠・内容1】問題は「自然本能」そのものというより、社会が人口問題をタブー化し、責任や選択として扱ってこなかったことにある。
【根拠・内容2】文明は本能を抑制し得ることを示してきており、人口増の抑制も同様に人間社会の能力の範囲内である。
【根拠・内容3】宗教・道徳・政治が結婚と繁殖を無条件に奨励し、当事者の意思・計画の要素を弱めてきた点が、貧困の温存に寄与している。
人口(家族規模)への「責任」を道徳として確立することが核心
【主張】低賃金対策の要は、家族規模を生活維持可能な範囲に抑えることを道徳的責務として社会に根づかせることにある。
【根拠・内容1】シスモンディの議論として、確かな生計の見通しが立つまで結婚を遅らせ、結婚後も養育可能な人数を超えて子どもを持たないのが分別であるとされる。
【根拠・内容2】人口が増える余地の乏しい社会では、多産は「子の不幸(貧困・結婚不能)か高い死亡率」を伴うという帰結を避けられない。
【根拠・内容3】結婚後の出産が「神意で決まる」といった前提が広く共有され、当事者の計画・選択として論じられていないことが問題を固定化している。
世論の転換が行動を変える:労働者自身の利益と社会的評価が鍵
【主張】家族規模の抑制は制度以前に、労働者階級内の世論(評判・恥辱のメカニズム)によって実効性を持ちうる。
【根拠・内容1】人々は合理計算だけでなく「嫌われたくない/見下されたくない」という評判への配慮で行動するため、世論が変われば行動も変わる。
【根拠・内容2】「自分一人の行動は全体を左右しない」という反論に対し、軍隊の脱走の比喩で、個別行動にも社会的制裁(不名誉)が働くと述べる。
【根拠・内容3】人口増が賃金を押し下げる関係は、労働組合の「競争相手(供給)を制限する」実践にも表れており、理解可能な原理である。
女性の立場改善は人口抑制と社会改革に大きく寄与する
【主張】家族の過大化の負担を主に負う女性の支持を得られ、さらに女性の市民権拡大は道徳的・社会的利益が極めて大きい。
【根拠・内容1】出産の苦痛、生活不足、家事労働の過重など、過剰な子ども数の負担は実際には妻に集中する。
【根拠・内容2】地域社会の道徳感情が支えになれば、女性は家族規模の調整を「正当な権利」として主張しやすくなる。
【根拠・内容3】男性が他人の身体に権利を持つという発想を強く批判し、女性が同等の市民権を得れば法的制裁に頼らずとも改善が進む可能性を示す。
教育と貧困緩和の「二重アプローチ」が不可欠
【主張】労働者の生活習慣(将来への思慮)を変えるには、全国的教育と、極度の貧困を一世代規模で減らす施策が同時に必要である。
【根拠・内容1】教育の中心目標は、暗記ではなく「常識(現実的判断力)」の育成に置くべきだとする。
【根拠・内容2】良識が広がれば、飲酒・浪費だけでなく「無計画な人口増」も公共の利益に反する恥ずべき行為として非難される世論が形成される。
【根拠・内容3】ただし極度の貧困下では教育が届きにくく、快適さや安定の価値を実感できないため、生活の底上げが前提となる。
生活の底上げ策:大規模植民(移民)と小自作農の育成
【主張】貧困を悪化させる慈善の弊害を避けつつ、労働者の安定と慎重さを促す手段として「植民(移民)」と「共有地を用いた小所有地の付与」が提案される。
【根拠・内容1】国家的植民:若い夫婦等を優先して移住支援し、余剰労働力を恒常的に外へ移すことで本国賃金を引き上げ得る(資金は余剰資本から捻出可能)。
【根拠・内容2】共有地の活用:今後の囲い込みで残余地を5エーカー程度に分け、労働者に完全所有として付与し、自作農を育てる(立替は地代・償還で回収)。
【根拠・内容3】小所有地への希望は倹約・慎重さを促し、労働者と雇い主の中間層を作り、模範となる上昇ルートを形成する。
対策は「小規模」では無効:賃金と安定を世代単位で引き上げる必要
【主張】どの手段でも、雇用の確実性と賃金の実質的上昇が生じ、快適さが一世代の「当たり前」になる規模で実施しなければ効果はない。
【根拠・内容1】部分的・折衷的な施策は資源を散らすだけで、国民生活の恒常的底上げという目的を達成できない。
【根拠・内容2】十分な生活の安定があって初めて、将来を見据えた行動(人口抑制・教育の効果)が広がる。
【根拠・内容3】政治家が「大きすぎる構想」を理由に回避する姿勢自体が問題であり、適切な時期まで資源を温存する判断もあり得るとする。
情勢変化による猶予と課題:自発的移民と自由貿易がチャンスを作った
【主張】輸送費低下と海外情報の普及で自発的移民が増え、自由貿易の好況も重なり、人口過密国に立て直しの時間が生まれたが、活用は政策の賢明さ次第である。
【根拠・内容1】国家主導でなくとも移民が賃金を押し上げ、その効果を一世代以上保つ可能性がある。
【根拠・内容2】移民は一時的な逃げ道ではなく、余剰人口の「恒常的な出口」になりつつある。
【根拠・内容3】この猶予期間を道徳・知性の向上に振り向け、人口過剰への逆戻りを防げるかは政府・議会の判断に左右される一方、社会全体の進歩気運が希望の根拠として挙げられる。
本文
一
では、貧困にはどう対抗すべきか。低賃金という弊害は、どのように是正すべきか。その目的のために一般に勧められる手段が適切でないなら、ほかの手立ては考えられないのか。それとも、この問題はそもそも解決できないのか。政治経済学は、あらゆる提案にただ異議を唱え、結局は何もできないことを示すだけなのか。
もし事態が本当にそのとおりなら、政治経済学は欠かせない一方で、重くて報われにくい役回りを負うことになる。人類の多くが、関心を持てない労働に縛られたまま仕事にも人生にも興味を失い、朝から夜まで生活必需品のためだけに働かされる結果、知性や道徳が育たず、心にも感情にも余裕をなくし、食べさせるだけで精いっぱいで学ぶ機会も得られず、自分のことで手いっぱいになって利己心を強め、社会の一員としての関心や公共心も育たないうえ、自分の欠乏への恨みと他人の所有への恨みを抱え続けるのだとすれば、理性が少しでも働く人が人類の運命に心を配る理由は見当たらない。そうなれば、だれも傷つけない範囲で、自分と共感できる人びとの満足をできるだけ得て、文明と呼ばれるむなしい喧騒が過ぎるのを気にも留めないという、エピクロス流の無関心こそが賢明だという結論になりかねない。けれども、人間社会をそこまで悲観する根拠はない。貧困は多くの社会悪と同じく、十分に考えず粗い本能に従うことから生まれるが、社会が成り立つのは人が必ずしも獣ではないからであり、文明は動物的な本能と向き合い、ときに強い衝動さえ抑えられることを示してきた。実際、人類の大きな部分は人工的な生活様式に強く形づくられ、自然な傾向の多くは痕跡も記憶も薄れている。人口を増やそうとする本能が必要なだけ抑えられていないとしても、社会が本気で抑制を試みてこなかった事実を直視すべきで、これまでの努力の多くは、むしろ繁殖を後押ししてきた。宗教、道徳、政治は、婚姻の枠内にあるかぎり結婚と繁殖を競うように奨励し、宗教はいまもその姿勢を改めていない。ローマ・カトリックの聖職者は、とりわけ貧しい層に影響力を持つ存在として、婚外関係を防ぐために結婚を勧めるのが務めだと各地で考えている。この考え方を支える宗教的な偏見は根強く、富裕層は結果が自分に及ばないかぎり、不幸が自然な傾向の帰結として起こり得ると考えること自体が摂理への疑いだとし、貧しい人びとは、神は口を与えるなら食べ物も与えると言う。いずれの言い分にも、人間の意思や選択が関わるという発想が乏しい。観念の混乱が深いのは、見せかけの慎みがこの問題をタブー視し、人間の幸福にとって重大な主題であるのに自由な議論を避け、善悪の基準の混同を放置してきたためでもある。言葉を慎むことの代償は十分に意識されておらず、社会の病は身体の病と同じで、率直に語られなければ予防も治療もできない。経験が示すのは、多くの人が道徳の問題を自分で判断せず、繰り返し聞かされるまで正しいとも誤りとも見なさないという現実である。では、結婚の枠内であってもこの問題には責任が伴うのだと、いったいだれが伝えているのか。この種の節度の欠如によって、本人や扶養家族にどれほど害が及んでも、非難は最小限にとどまり、むしろ同情や好意が集まりやすい。酒におぼれて自制を失う男は道徳を重んじる人びとに疎まれ軽蔑されるのに、慈善を求める場では、家族が多くて養えないことが主要な理由として持ち出されるのである。
人として負うべきこの大きな責務について沈黙が続けば、身体の事実を忘れてしまうのと同じように、道徳上の義務に対する自覚が薄れていくのも不自然ではない。結婚を先延ばしにしたり、未婚のあいだは節制して暮らしたりすることは、多くの人が可能だと認めている。ところがいったん結婚すると、この国では、子どもを持つかどうかや家族の人数をいくつにするかが自分たちの意思で左右できる問題だという考えが、誰の頭にもほとんど浮かばないように見える。まるで子どもが天から雨のように既婚者のもとへ降り注ぎ、本人たちが関わっていないかのように、世間で言われるとおり子の数は自分の意思ではなく「神の意志」で決まるという前提が広く共有されているかのようだ。そこで、この点について大陸の哲学者がどう考えているのかを確かめたい。彼は当代でも指折りの博愛家として知られ、結婚生活の幸福が語り継がれてきた人物である。
シスモンディは、社会に有害な偏見が根づかず、とりわけ子どもに対する真の責務に反する道徳が、最も神聖な権威の名のもとに教え込まれていないなら、分別ある人は確かな生計の見通しが立つまで結婚せず、結婚しても適切に養育できる数を超えて子どもをもうけないはずだと述べる。そのうえで、家長は、自分が維持してきた生活水準で子どもも満足して暮らせると考えるのが自然であり、新しい世代が去っていく世代と正確に同じ人数構成になることを望むのだと説明する。つまり、結婚適齢期に達した息子一人と娘一人が父母に代わり、さらに孫の世代が自分と妻に代わり、娘は別の家庭で、自家が他家の娘に与えるのと同程度の境遇を得る、という見通しであり、親の収入で足りたものは子の収入でも足りるという考え方だという。また、富が増える国では人口が一定程度増える余地があるとしても、それは原則の変更ではなく個別の事情にとどまるとも指摘する。さらに、家庭を築いた後も未婚者と同じ自制を自らに課すことが正義と人道の要請であり、どの国でも私生児が少ないという事実は、その自制が概して十分に効いている証拠だと述べる。加えて、人口が増える余地のない国、または増加がほとんど見えない国で、新たに独立して暮らす場が空いていない場合、八人の子をもつ父親は、六人が幼少期に亡くなるか、同世代の男三人女三人に加えて次の世代でも息子三人娘三人が、その父親のために結婚できずに残るかの、いずれかを覚悟しなければならないと警告した。
二
労働者階級がこれまで家族を増やすことに慎重でなかったからといって、これからも十分な改善は見込めないと決めつけるのは、人が世論によって行動を変えるという通常の仕組みを見誤っている。必要なのは、家族の規模を抑える判断が望ましいという考えが社会に広く共有されることであり、それ以上に特別な制度が欠かせないというわけではない。ところが、その考えが道徳上の原理として国全体に根づいた国は、いまだ一つもない。各人の自発的な思慮によって人口増が比較的よく抑えられている国でさえ、慎重さは実行されていても義務だとは受け取られず、発言する人や書く人の多くは反対の側に立っている。フランスでも、マルサスに対する感情的な反発は、この国と同じように根強い。理解が広がらないのは、学説が新しいからというだけではなく、その真理性ゆえに既得の利害に触れて不都合が生じる面があったからでもある。貧しい人々自身は別として、どの階級も高賃金を本気で強く望んできたのかは疑わしく、救貧税を抑えられるなら労働者の困窮には目をつぶる空気が続いてきた。労働者でない者のほとんどは雇い手であり、労働力を安く買える状況を損だとは思わず、賃金の上昇を歓迎しにくい。救貧行政を監督する委員会でさえ、彼らがマルサス主義と呼ぶ議論に辛抱強く耳を傾けることは少なく、農村部では農場主が労働者を「独立しすぎる」存在にすることを嫌って、分与地を与えることにも消極的である。地主層は比較的慈善的だとされるが、支援を要する人がいなくなることに内心で不満を抱く例もあり、「神が貧しい者を常に置くよう定めた」といった卑しい考えが語られがちである。さらに、改革に取り組む人々は穀物法の廃止や減税、参政権憲章、教会問題など自分たちの課題を優先し、この原理が注目を集めれば自分の主張がかすむと見て、自分の目的以外を重要だとする者を敵視しがちだった。その結果、人口論の公表後、議論の一〇分の九は反対に傾き、賛成の声は断続的にしか届かず、労働者のあいだにも十分には浸透していない。
もし「労働者が貧しいのは、働き手が多すぎて競争が過度になるからだ」という考えが労働者階級に広まり定着し、その結果、社会の事情が各人に許す子どもの数を超えてもうける労働者を、シスモンディにならって、ほかの労働者の分け前に加わるべき場所を埋めて不利益を与える者だと、各労働者が互いに見るようになったとしよう。それでもこの世論が行動に大きな影響を及ぼさないと考える人がいるなら、その人は人の性向への理解が著しく足りない。多くの人が自分の利益のためにさえ注意深くふるまう動機の大部分は、世間の評判への配慮、つまりそうしなければ嫌われたり見下されたりするという見通しから生まれているからである。この場合、放縦は単なる動物的な傾向だけでなく、世論からの刺激によっても同じほど強く促されていると言ってよい。というのも、世論は一般に、とりわけ教育を受けていない層において、本能の強さを気概や力と結びつけ、その節度や弱さや欠如を劣等と結びつけてきたからであり、これはそれが他者を支配する手段であり、そのしるしでもあったことによって生じた感情のゆがみである。この作られた刺激が取り除かれるだけでも効果は大きく、いったん世論が反対の方向に向かえば、この面の人間行動にはまもなく変革が起こるだろう。しばしば「賃金が人口に左右されるという理解がどれほど徹底しても、各人が持つ子どもの数だけでは労働市場全体を押し下げられないのだから、労働者の行動は変わらない」と言われる。たしかに、一人の兵士が逃げても戦いの勝敗が直ちに決まるわけではない。しかし、それゆえに兵士が隊列に踏みとどまるのはその計算のためではない。多数が同じことをすれば致命的だと誰もが分かる行為を一人が先にしたときに、その行為に自然に、そして避けがたく伴う恥辱や不名誉が、各人を踏みとどまらせるのである。一般に、人が自分の属する階級の世論に正面から逆らうのは、評判への配慮よりも上位の信念に支えられるときか、階級の外に強い支持世論があるときに限られがちである。
ここで問題にしている意見は、ひとたび社会に広まれば、女性の大多数から力強い助けを得ることも忘れてはならない。家族の人数が必要以上に増えるのは、妻の意思によることはめったにない。にもかかわらず、その結果として生じる出産に伴う身体的な苦痛や生活上の不足に加えて、過剰な家族人数のために生じる耐えがたい家事の重労働のすべてが、結局は妻にのしかかる。こうした重荷から解放されることは、いまはその権利を主張する勇気が持てず、口にすることすらためらう多くの女性にとって福音として迎えられるだろうが、それも地域社会の道徳感情に支えられるなら、彼女たちは当然の権利としてその要求を訴えるようになるだろう。法律と道徳がいまだに正当化し、容認してしまっている野蛮さの中でも、他人の身体に対して自分には権利があると考えることを、いかなる人間にも許すという発想ほど、醜悪で不快なものはない。
労働者階級のあいだで、福祉のためには家族の人数、つまり子どもの数を適切に調整すべきだという考え方がひとたび広く定着すれば、まじめで節度があり生活も安定している人々はその指針に従い、日頃から社会的責任を軽んじる人々だけがそこから外れるだろう。そうなれば、共同体の負担となる子どもを世に送り出さないという道義的責任を法的義務へ移し替えることの正当性が明らかになる。ちょうど、意見の進歩に伴う多くの他の事例と同様に、有用であるためには一般化されねばならず、その有用性の自覚から大多数が自発的に引き受けている義務について、最終的に法律が、従わない少数に対してその履行を求めるようになるだろう。もっとも、女性が、他のあらゆる点でもそうであるように、男性と同等の市民権を認められれば、法による制裁に頼る必要はなくなる。慣習が女性を、生活手段であり影響力の源でもある一つの身体的機能に縛りつける状況が改まれば、女性はその機能に関わる事柄について、男性と対等に意見を述べられるようになる。そして、いま見通せる人類の改善の中でも、これほど道徳的社会的利益のほぼあらゆる面で大きな実りを期待できるものは、ほかにないかもしれない。
検討すべきなのは、賃金が人口に左右されるという法則にもとづく考え方や感情が、労働者階級のあいだでどの程度生まれうるのか、またそれをどのような手段で呼び起こしうるのか、という点である。この問題について希望を見いだせる理由を述べる前に、その希望が、多くの人にとって深く考えないまま空想だ、あるいは非現実的だとして片づけられかねないことを踏まえ、あらかじめ指摘しておきたい。これら二つの問いに、十分で納得のいく答えが示されないかぎり、この国で主流となり、多くの論者や書き手が文明の到達点、あるいは究極とみなしてきた産業体制、すなわち社会の労働者階級全体が雇用労働の賃金に生活を依存する仕組みは、取り返しのつかないかたちで否定されることになる。いま問われているのは、この状況のもとで、人口過剰と労働者階級の地位や境遇の悪化が、必然で避けがたい帰結となるのかどうかである。もし人口の慎重な調整が雇用労働の制度と両立しないのであれば、この制度は有害であり、経済政策を担う政治の最大の目的は、財産の取り決めや財産制度の工夫、産業の適用方法の変更など、いかなる手段を用いてでも、雇い主と労働者の関係だけでは与えられない、より強く、より明白なこの種の慎重さへの動機や誘因が、労働者に働くようにすることにある。
両者が両立しないということはない。雇われ労働者が多数を占める社会では、貧困の原因は、資産家が中心の社会や社会主義的な共同体ほど一見して明らかにはならないにせよ、決して不可解なものではなく、十分に説明できる。賃金が、仕事を求めて競い合う人数の多さに左右されるという関係は、多くの労働者にとって理解しにくいどころか、すでに認められ、日々の判断や行動の中で習慣的に織り込まれている。労働組合には周知のことで、賃金を引き上げ、あるいは維持してきた成功した結束の多くは、競争相手の数を制限する工夫に支えられている。とくに熟練職では自分たちの人数が増えることを警戒し、雇用主に対して見習いを一定数以上採用しないよう条件を求める例もある。もちろん、外部の人を排除して人数を絞る方法と、自分たちに抑制を課して同じ結果を得ようとする方法とでは性質が異なるが、いずれも人数と報酬の関係を見抜いている点では共通している。ただし、この原理は個々の職業に当てはめれば理解されても、雇用全体の総量となると理解されにくい。その理由としては、第一に範囲が狭いほど因果関係が見えやすいこと、第二に熟練職工のほうが普通の肉体労働者より比較的知的であり、協調の習慣と、自分たちの一般的な状況を職業として点検する習慣とが、共同の利害の理解を支えていること、第三に暮らし向きが比較的よく、守るべきものが多いため、最も先を見て備えようとすることが挙げられる。それでも、個別には明白で受け入れられている事柄が、一般的な真理として理解され承認される望みはないとあきらめる必要はない。労働者階級の心が、自分たち全体の状況を理性的に見渡せるようになれば、この関係が少なくとも理論として認められることは必然であり、しかもすぐに実現するはずだが、これまでは知性が磨かれていないことや貧困のために、その大多数はそこまで至れなかった。貧困は、悪化への恐れも改善へのわずかな望みも奪い、行動の結果への無関心と将来への思慮の欠如を生み出してきた。
三
したがって、労働者階級の人々の生活習慣を改めるには、知性と貧困の双方に同時に働きかける二重の取り組みが欠かせない。まず必要なのは、労働者階級の子どもに対して実効性のある全国一律の教育を実施することである。これと並行して、(フランスでは革命が行ったように)おおむね一世代にわたって極度の貧困を一掃するための施策体系を整える必要がある。
ここは、国民教育の原理や制度、運用の仕組みを、たとえ最も一般的な形であれ論じる場ではない。しかし、教育についての世論や考え方が前進し、ただ語句を暗記させるだけの、言葉だけの教育がもはや十分とはみなされなくなってきていることが望まれる。社会が最良の教育を与えていると称する階層に対してさえ、よりよい教育内容を整える歩みは遅いが、それでもなお、争点になりやすい点には立ち入らずに、ためらいなく断言できるのは、国民の大多数に向けた知的訓練の目標は、第一に常識を育てることに置くべきだということである。これは、身の回りの状況や周囲の事情を踏まえて、健全で現実的かつ実際的な判断を下せるようにするためであり、知的領域においてこれに付け加えられるものの多くは、主として装飾にとどまる。常識の育成を教育に欠かせない土台と位置づけ、この目標を常に第一に掲げて見失わなければ、何を教え、どのように教えるかを決めるのは、それほど難しくならない。
国民に良識を広め、自らの行動がどのような結果を生むかを判断できる知識を身につけさせる教育が行き届けば、特別に道徳を言い聞かせなくても、節度を欠いた飲酒や浪費的で将来を考えないふるまいは不名誉で恥ずべきものだとする世論が育つはずである。さらに、人口を無計画に増やして労働市場を供給過剰にすることも、公共の利益や共同の福祉に反する行為として強く非難されるようになるはずである。こうした意見や社会的評価が定着すれば、人口増加を適切な限度に抑えるうえで十分な力になることは疑いないが、世論の形成を教育だけに任せるのは適切ではない。教育は極度の貧困と両立しにくく、困窮する人びとに実効性のある教育を施すのは難しいからである。快適な暮らしを知らない人にその価値を実感させるのは容易ではなく、日々の糧に追われ、その日暮らしに慣れて先を考えなくなった人に、生計が不安定であることのつらさを理解させるのも難しい。個人が努力で暮らし向きを上げ、生活を安定させることはあっても、国民全体として期待できるのは、その水準を維持する程度にとどまる。したがって、未熟練の日雇い労働者が多数を占める層の生活習慣や要求水準を改めるには、社会全体をまず耐えられる程度の生活のゆとりと安定へ引き上げ、次の世代が育ち成長するまでその状態を保てる仕組みや手段を整えない限り、改善は遅く、時間がかかる。
この目的を実現するために、だれにも損害を与えずに利用できる手段が二つある。どちらも、任意の施しや法定の慈善に伴いがちな弊害を伴わず、勤労や産業への意欲や将来を見据えて備えようとする動機を弱めるどころか、むしろ強める。
四
第一に、大規模な植民を国家的施策として進めることが必要である。公費を投じて、若い農業人口のかなりの部分を一度に植民地へ移し、現地で生活を定着させるのに足りる資金を支給する。ウェイクフィールド氏が提案するように若い夫婦を優先し、それが難しいなら子どもがほぼ成長した家族を選べば、同じ支出でも効果は高まり、植民地では不足し本国では余っている、現在および将来の労働力を、より多く送り出せる。十分な規模で実施できれば、国の負担は実質的に〇、あるいは確実に回収できる範囲に抑えられうることが、ほかの論者によって示されており、その根拠は後でも述べる。必要な資金は、労働者の生活を支える資本からではなく、有利な投下先が見つからず海外投資に回ったり、国内の無謀な投機に費やされたりしている余剰から捻出できるので、ふだん労働者階級の利益に結びつかない国民所得の一部を充てれば、ここで想定する規模の移民費用も賄えるという見通しである。
第二の方策は、今後耕地化される共有地を例外なく小規模な自作農の育成に充てることである。共有地は長年にわたり公共の利用から切り離され、富裕層の領地拡大のために取り上げられてきたが、その慣行はもう十分に続いたため、いま残る共有地は貧しい人びとの利益のために守るべき財産として確保すべき段階にあるとされる。一般囲い込み法によって運営の仕組みはすでに整っているとして、将来囲い込みを認める場合には、まず領主権や共有権を持つ者への補償に必要な分を売却または配分によって確保し、残りを五エーカー前後の区画に分けて労働者階級の個人に完全所有として与え、自力で開墾して耕作へ移してもらう制度が提案される。対象は、初収穫まで暮らせる蓄えのある労働者、または人格と信用が確かで第三者が資金を立て替えられる労働者を優先し、該当者は多いと見込まれている。農具や肥料、場合によっては当面の生活費は教区や国家が用立て、その立替分には公債並みの利子を付して永久地代として課す一方、本人が望めば相当年数分の支払いで買い戻せる仕組みにする。小所有地は必要に応じて法律で分割できないようにできるが、制度が想定どおりに機能すれば、望ましくない細分化は起こりにくいとされる。遺言がなく相続人の合意も得られない場合には、政府が時価で買い上げ、代金の支払いを担保できる別の労働者に再び付与すればよい。こうした小所有地を持ちたいという動機は、労働人口に慎重さと倹約を促し、労働者と雇い主の間に立つ中間層を育て、希望の対象となり模範ともなる存在を生む、という結びである。
二つの救済策のどちらかを採用するにしても、両方を採用するにしても、土地に残る雇い労働者の全体が確実に職を得られ、しかも現行賃金に大きな上乗せが生じる規模で実施しなければ、効果はほとんど期待できない。その上乗せは、これまで得られなかった安心と快適さをもたらし、自立した生活のもとで子どもを育てられる水準に届くものである必要がある。国民の暮らしを恒常的に引き上げることが目的である以上、小規模な手段では効果が小さいどころか、全く効果がない。快適な暮らしが、いまの貧困や困窮と同じくらい、一世代全体にとっての当たり前として定着しない限り、何も達成されず、弱い折衷案は資源を浪費して散らすだけである。したがって資源は、世論と教育が改善し、「大きな構想だから」というだけで政治家の務めはそれに関わらないことだなどとは考えない政治家が育つまで、温存しておくのが妥当である。
ここまでの数段落は、執筆当時のまま残してある。原理はいまも正しいが、そこで示した個別の提言を、いまのこの国の状況に直ちに当てはめなければならない緊迫度は、以前ほど高くない。輸送手段が例外的に安くなったという現代の科学的成果に加え、海外の遠隔地の労働市場の状況について、ほぼ全階層の人々がすでに得た、またはいま得つつある知識が後押しとなって、英諸島から海を越えた新天地や新興国への自発的な海外移民が増え、その勢いは衰えるどころか、むしろ増し続けている。国家が体系的な植民政策を取らなくても、こうした移民だけで、アイルランドで起きたのと同様に、英国の賃金を実質的に押し上げ、その上昇を一世代ないし二世代、あるいはそれ以上にわたって損なわずに保つのに足りるかもしれない。移民は一時の逃げ道や臨時のはけ口ではなく、余剰人口を恒常的に受け止める出口へと変わりつつある。さらに自由貿易がもたらした好況も重なり、人口過密のこの国には、当面の猶予と立て直す時間が生まれた。この時間を、最貧層を含むあらゆる階層の道徳的、知的な向上に充てて、人口過剰へ逆戻りする可能性を下げられるかどうかは、政府や議会を含む政策決定の賢明さに左右されるが、その行方には不確実さがつきまとう。希望の根拠として挙げられているのは、精神的な進歩が政府に頼ることがこれまでになく少なく、国民の一般的な気運に強く支えられていること、改善の動きが生活の基礎から道徳や知性というより高い課題まで多方面に同時に広がっていること、そして公益に資するあらゆる提案が偏見なしに、あるいは偏見を受けにくいかたちで聞き入れられ、広く知られ、公正に検討されやすい時代になっていることだという。
