J.S.ミル『経済学原理』第5巻第1章【65/75】
J.S.ミル『経済学原理』の第5巻第1章「政府の機能一般」をAI翻訳しました。誤訳や読みづらいところが残っているかもしれませんが、温かい目で読んでいただけたらうれしいです。
この翻訳について
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目的:個人の学習・読書用の試訳です。学術的な厳密さまでは保証できません。
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方法:AIで下訳 → 自分で全体を見直し、一部の表現を修正しています。
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出典:原文はこちら。
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お願い:引用の際は出典の明記をお願いします(本文リンク・本記事URLなど)。
AIによる要約
政府機能をめぐる中心問題
- 【主張】本章は、政府の役割の限界を一律の原理で単純に定めることはできず、まず「政府に本質的・必要な機能」を見極める必要があると論じる。
- 【根拠・内容1】近年の主要な論争は、政府の構成原理だけでなく、その権限が人間生活のどの領域まで及ぶべきかという点に移っている。
- 【根拠・内容2】改革派には政府の役割を拡大しすぎる誘惑がある一方、過去の不当介入や拙速な改良提案への反発から、介入一般を嫌う傾向も強い。
- 【根拠・内容3】著者は、論争的な介入の是非を論じる前提として、「必要な機能」と「選択的な機能」を区別して検討すべきだとする。
必要な政府機能は最小国家論より広い
- 【主張】政府の必要な機能は、単に暴力や詐欺の防止に限られず、財産・契約・裁判・証拠保全など社会秩序の基盤全体に広がっている。
- 【根拠・内容1】相続法や財産管理では、政府は単に私人の意思を追認するだけでなく、遺言がない場合の承継や不適格者の財産管理などを一般的便宜に基づいて定めている。
- 【根拠・内容2】財産権そのものも自然に自明ではなく、土地・森林・水など共有的な自然資源について、誰がどの条件で権利を持つかを政府が定めねばならない。
- 【根拠・内容3】契約についても、政府は履行を強制するだけでなく、公共の利益や当事者保護の観点から、強制すべき契約とそうでない契約を選別している。
- 【根拠・内容4】民事裁判所は悪意の有無にかかわらず生じる紛争を終結させる役割を持ち、仲裁が可能な場合でも、正式な司法制度の存在が社会の安定を支えている。
- 【根拠・内容5】出生・死亡・婚姻・遺言・契約などの記録や証拠保全、判断能力の乏しい者の保護も、政府の適正な職務とみなされる。
公共便益による正当化
- 【主張】政府機能の多くは単一の厳密原理では説明できず、最終的には「社会全体の便益」が共通の正当化根拠となる。
- 【根拠・内容1】貨幣鋳造や度量衡の標準化は、取引上の手間・費用・不確実性を減らすために政府が担う典型例である。
- 【根拠・内容2】道路・街路の整備、照明、清掃、港湾、灯台、測量、防潮堤、堤防などの公共事業も、社会的利便のための正当な政府機能に含まれる。
- 【根拠・内容3】このような諸機能はあまりに多様で、政府介入を普遍的な一律規則で制限することは困難である。
- 【根拠・内容4】したがって残る原則は、介入による便益が十分に見込まれる場合にのみ政府介入を認めるべきだ、という実践的だが曖昧な基準である。
今後の検討課題と本書の進め方
- 【主張】著者は政府介入論を三つに分け、まず必要機能の遂行方法、その次に誤った理論に基づく任意的介入、最後に真に正当化される任意的介入の条件を検討すると予告する。
- 【根拠・内容1】第一に、政府が必要な機能をどのような方法で遂行するか、その方式の差がもたらす経済的効果を論じる。
- 【根拠・内容2】第二に、一般に認められた範囲を超える「任意型」の介入のうち、誤った理論から生じたものを検討する。
- 【根拠・内容3】第三に、正しい社会法則の理解に立ってもなお、個人の自由領域に対する政府介入が望ましい場合があるかを問う。
- 【根拠・内容4】この第一部の主要論点は、租税、財産と契約の法則、司法・警察制度であり、議論はまず租税論から始まる。
本文
一
政治学の議論でも国政運営の現場でも、近ごろ特に論争が激しいのは、政府の役割と介入の限界をどこに定めるべきかという点である。かつては政府をどのように組み立て、どの原理と規則にもとづいて権限を行使させるかが主な争点になりやすかったが、いまはそれと同じくらい、その権限が人間の営みのどの領域まで及ぶべきかが問われている。政府や立法を改めて暮らしをよくしようという動きが強まるほど、この議論への関心は薄れず、むしろ高まっていく。一方で、世論の理解や気風を変えるより政権を握るほうが早いと考えがちな改革派は、政府の役割の範囲を必要以上に広げたくなる誘惑に常にさらされやすい。他方で、人々は支配者が公共の利益とは別の目的で介入したり、公共の利益についての誤った理解にもとづいて介入したりすることに慣らされてきたうえ、善意の改良論者が、本来は意見形成と討論でこそ有効に、あるいは有益に達成できる目標を、強制的な規制で実現しようとする軽率な提案を重ねるため、政府の介入そのものに初めから反発し、行政の活動範囲をできるだけ狭く抑えようとする傾向が強まっている。国ごとの歴史的発展の違いはあるが、政府の役割の範囲を過大に見積もる行き過ぎは、理論でも実務でも欧州大陸の諸国に多く、これに対してイングランドでは、これまで逆の気風が優勢だった。
本書では、この論点を原理の問題として扱う限り、その一般原則を後の章で明らかにしようと思うが、その前提として、政府が一般に当然の役割と認められている機能、すなわち政府固有の職務とみなされる機能を果たすことで、どのような影響が生じるのかをまず検討しておく必要がある。そのためには、政府という概念に本質的に伴う機能、または各国の政府が通常、慣行として異論なく担っている機能を特定し、政府がそれを担うべきかどうかが疑問視され、論争の対象となってきた機能と明確に区別しなければならない。前者は政府の必要な機能、後者は政府の選択的な機能と呼べる。ただし、ここでいう選択的とは、担っても担わなくてもよいとか、政府の恣意的な選択に委ねてよいという意味ではなく、その機能を政府が担うことの妥当性が必要性と断じられる水準には達しておらず、賛否が現に分かれ、また分かれうる論点であることを指す。
二
政府に求められる必要な役割を挙げていこうとすると、その範囲は多くの人が最初に思うよりもはるかに多岐にわたり、世間の軽率な議論でしばしば引かれがちな、あまりにも明確な線引きでは収まりきらないことが分かる。たとえば、政府の役割は暴力と詐欺から人々を守ることに限るべきで、それ以外は人々が自由な主体として自分で対処し、他人の身体や財産を害する暴力やだましを行わない限り、立法府や政府はその人に関わる必要がない、という主張を耳にすることがある。しかし、なぜ人々は政府、すなわち自分たちの集団としての力によって、暴力と詐欺からは守られるべきで、ほかの害からは守られないのか。違いがあるとしても、それは損得の判断が比較的見えやすいという点にとどまるのではないか。もし「本人にどうしてもできないこと」だけを政府が担うのだとすれば、暴力への備えさえ各人の技量と勇気に委ねられ、政府の力が及ばない地域で実際に見られるように、保護は乞うか金で買うしかないという話になりかねない。詐欺についても、各人が自分の知恵で防げるはずだという理屈に行き着いてしまう。これ以上、原理の議論を先取りしないためにも、ここではまず事実を考えれば十分である。
力の抑圧と詐欺の抑圧という二つの区分のうち、例えば相続法の働きはどちらに当たるのか。どの社会にも何らかの相続法は不可欠だが、この点で政府がしているのは、遺言によって個人が自分の財産を処分する意思に法的効力を与えることにすぎない、という説明がそのまま成り立つかどうかには議論の余地がある。実際、遺言による処分権を完全に絶対のものとして認める国は、恐らくほとんどない。遺言がないというごく一般的な場合を考えれば、だれが相続するかを一般的便宜の原則に基づいて定めるのは法律、すなわち政府ではないか。さらに、相続人が何らかの意味で不適格とされるときには、政府がしばしば自らの職員を含む者を選任して財産を取りまとめ、その利益のために用いるようにさせることもある。公益、あるいは関係する当事者の利益のために必要だと考えられる場合、政府が財産の管理を引き受ける例はほかにも多い。これは係争中の財産の場合や、司法的に支払不能が宣告された場合にもしばしば行われる。これらを行うことが政府の職務の範囲を超えると主張されたことは一度もない。
法律が財産そのものを定義するという役割は、一般に考えられているほど単純ではない。法律は、人が自ら生産したもの、あるいは生産者の自由な意思に基づく同意を得て正当に取得したものについての権利を宣言して保護すれば十分だ、という見方もある。しかし、財産として認められるのは生産物だけなのだろうか。地球そのものや森林、水など、地表の上にも下にも広がる自然の富がある。これらは人類全体の遺産であり、それを共同で利用し享受するためには取り決めやルールが欠かせない。この共有遺産の一部について、個人がどのような権利を持ち、どのような条件で行使できるのかは、あいまいなままにしたり先送りしたりできない。これらを規制することほど、政府の役割として任意性の小さいものはなく、文明社会という考え方には当然含まれている。
政府が暴力や背信を抑えることが正当だとしても、人々に契約の履行を求めることがそのどちらに当たるのかははっきりしない。契約を履行しないことが直ちに詐欺だとはいえず、契約した当初は誠実に履行するつもりだった可能性もあるし、「詐欺」という語は欺く行為のない単なる契約違反にまで広げにくく、過失による不履行にはなお当てはまらない。では政府に契約を強制して執行する責務があるのかという点について、不干渉を唱える立場は、契約の強制は個人の生活を政府の恣意で取り締まることではなく、当事者が明示した希望を実現する行為だとして、不干渉の原理を一定程度拡張して説明するだろう。けれども、仮にそこまで認めたとしても、現実の政府は契約をただ執行するだけではなく、どの契約が執行に値するかまで判断している。欺かれも脅されもせずに約束したという事実だけでは足りず、公共の利益の観点から、人が自らを拘束する力を持つべきではないような約束が存在するからである。違法行為に関する取り決めはもちろん、約束する側の利益や国家の一般政策に関わる理由によって、法が強制を拒む取り決めもあり、たとえば自分を奴隷として売る契約はこの国や多くの欧州諸国の裁判所で無効とされ、売春と見なされる契約や、法定の条件と少しでも異なる婚姻上の取り決めを強制する国はほとんどない。このような例をいったん認めるなら、便宜上の理由で法が強制すべきでない取り決めがあるかどうかという問いは、たとえば賃金が低すぎたり労働時間が過酷すぎたりする場合でも労働契約を強制すべきか、短期間を超えて特定の個人のもとで働き続ける契約を強制すべきか、生涯にわたる婚姻契約を当事者双方またはいずれかの熟慮した意思に反しても強制し続けるべきかといった問題へと、あらゆる契約に広がっていく。結局のところ、契約に関する政策や契約が人と人との間に築く関係をめぐる問題は立法者が扱うべき課題であり、検討を避けず、何らかの形で決めざるを得ない。
武力による圧迫や詐欺を未然に防ぎ、抑え込むことは兵士や警察官、刑事事件を担当する裁判官の役割だが、社会にはこれとは別に民事を扱う法廷もある。不正を罰することは司法の役割の一つにすぎず、当事者間の争いに判断を示して決着させることも、もう一つの重要な役割である。争いは、双方に悪意がないまま自分たちの権利の理解を誤ったり、その権利が法的に左右される事実について認定や立証が一致しなかったりして、数多く生じる。こうした不確かさを整理し、紛争を終わらせる者を国家が任命することは社会全体の利益にかなうが、絶対に不可欠とまでは言い切れない。人々は仲裁人を選び、その裁定に従うと約束することもでき、裁判所がない地域であったり、裁判所が信頼されていなかったり、手続きの遅れや費用、証拠の扱い、証拠規則の不合理さが利用をためらわせたりする場合には、実際に仲裁が用いられてきた。それでも、国家が民事法廷を設けて整備するのが妥当だという考えは広く共有されており、法廷の欠陥が代替手段の利用を促す局面があっても、いざとなれば法に基づく正式な裁判所に持ち込めるという留保が、代替手段に主たる実効性を与えている。
国家は、争いを裁くことに加えて、争いが生じないようにあらかじめ予防策を講じる役割も担っている。多くの国の法律がさまざまな事項について決定の手順を定めるのは、どのように決めるか自体が特別に重要だからではなく、何らかの方法であらかじめ確定しておき、その事柄について後になって疑問や争いが生じないようにするためである。法律は、契約の意味をめぐって争いや誤解が生じないよう、多くの種類の契約について文言や形式を定めるとともに、万一争いが生じた場合にそれを判断するための証拠が得られるよう、証人の立会いのもとで文書を証明させ、一定の形式に従って作成することを求めている。さらに、出生、死亡、婚姻、遺言、契約、裁判手続など、法的効果を伴う事実は登録簿に記録して真正な証拠として保存されるが、このようなことを行うにあたり、政府がその職務の適正な範囲を超えると主張されたことはない。
「個人は自分の利益を最もよく守れる主体であり、政府の役割は他者から干渉されないよう守ることに限られる」という考え方をどれほど広く認めるとしても、それが当てはまるのは、当人が自分のために自ら判断し行動できる場合に限られる。現実には、当人が乳幼児であったり、精神疾患や障害などによって意思決定や判断が困難であったり、知的能力が著しく損なわれていたり、認知機能が深刻に低下していたりすることがある。こうした人々の利益は、法律によって確実に守られなければならない。その手段は、必ずしも行政の職員による対応に限られず、親族や関係者に保護や手続きを委ねることも多い。しかし、委ねた時点で政府の責務は終わるのか。第三者に委ねた以上、監督しなくてもよいのか。委ねられた側が信頼に見合う形でその責務を適切に果たしたかどうかについて、責任を問わずに済むのか。
政府が国民の支持を得て権限を引き受け、特定の機能を果たす例は多いが、その理由を突き詰めれば「社会全体の利便にかなう」という一点に集約されることが少なくない。代表例は貨幣の鋳造である。これは政府が独占して担う業務だが、その目的は、人々が重さの計量や品位の鑑定に費やす手間や時間、遅延、費用を減らすことにある。そのため、国家の介入に最も警戒的な人であっても、不適切な権限行使だとしてこれに反対していない。標準となる度量衡の基準を定めることも同種の例であり、街路や幹線道路の舗装、照明、清掃も同様で、中央政府が担う場合もある一方、より一般的には自治体が担い、多くの場合にはそのほうが望ましいとされる。さらに、港湾の建設や改良、灯台の建設、正確な地図や海図を作るための測量、海を防ぐための防潮堤の整備、河川を制御するための堤防の築造も、いずれも典型例に当たる。
論争の余地がある領域に踏み込まなくても、例はいくらでも挙げられる。だが、ここまで述べれば十分に示されたのは、政府に認められている諸機能が、どれほど制約的に定義して厳格に線引きしても、その枠内に容易には収まりきらないほど広範に及ぶということである。しかも、それらすべてに共通する正当化の根拠や土台を見いだすのはほとんど不可能であり、結局は「社会全体の便益」や「一般的な便益」といった包括的な根拠に行き着く。さらに、政府の介入を普遍的な規則で一律に制限することもできず、残るのは、便益の見込みが強い場合に限ってのみ介入を認めるべきだという、単純ではあるがあいまいな原則だけである。
三
政府が介入すべきかどうかを判断するにあたり、どのような考慮が結論を左右しやすいのか、また、介入に伴う利害の相対的な規模をどのように見積もるべきかについて、ここでいくつか補足しておくとよい。政府介入の原理と影響についてのわれわれの議論は、便宜上三部に分けて論じることができ、本節はその第三部の末尾を成す。以下に、これから扱う内容の区分を示す。
まず、政府が必要と認められている役割や機能をどのような方法で果たすかに着目し、そのやり方の違いから生じる経済的影響と効果を検討する。
次に、わたしが「任意型」と呼ぶ政府介入、すなわち一般に認められている政府機能の範囲を超える介入に移り、これを検討していく。こうした介入は、誤った一般理論の影響を受けてこれまで行われてきたものであり、場合によっては現在もなお続いている。
最後に問うべきは、誤った理論や学説に拠らず、人間社会の営みを規定する法則を正しく理解したうえで、個人の選択に委ねてもよい任意の領域に属する事柄のうち、政府の介入が現実に望ましいといえる場合があるのか、あるとすればそれはどのような場合か、という点である。
これらの区分のうち第一のものは、性格がきわめて雑多である。政府に不可欠な機能や、明らかに有益で、これまで反対されたことがないか、あってもごくまれな機能は、すでに述べたとおり、あまりに多様で、きわめて単純な分類には収まりにくい。だが、本稿で検討する必要がある主要で重要なものに限れば、次に示す一般的な項目、すなわち見出しにまとめて整理することができる。
第一に、政府が存立の条件となる歳入を確保するために採用する手段。
第二に取り上げるのは、財産と契約という二大主題について、彼らが定める法則がどのような性質を持つのかを検討することである。
第三として、各国が一般に法律の執行を確実にし、その実効性を保つために用いている制度、すなわち司法制度と警察制度について、その長所や欠点、課題を検討する。
まず第一の論点、すなわち租税の理論から議論を始める。
