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J.S.ミル『経済学原理』第1巻第1章【3/75】

J.S.ミル『経済学原理』の第1巻第1章「生産の要件」をAI翻訳しました。誤訳や読みづらいところが残っているかもしれませんが、温かい目で読んでいただけたらうれしいです。

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この翻訳について

  • 目的:個人の学習・読書用の試訳です。学術的な厳密さまでは保証できません。

  • 方法:AIで下訳 → 自分で全体を見直し、一部の表現を修正しています。

  • 出典:原文はこちら

  • お願い:引用の際は出典の明記をお願いします(本文リンク・本記事URLなど)。

AIによる要約

生産の必須要件:労働と自然物

  • 【主張】生産には「労働」と「生産に適した自然物」の二条件が不可欠である。

    • 【根拠・内容1】労働は身体的・精神的(筋肉・神経)に分かれ、単なる作業行為だけでなく苦痛・負担・不快などのコストも含む。

    • 【根拠・内容2】自然物は洞穴や果実など例外的に直接利用できる場合もあるが、通常は確保・加工・調理など何らかの労働を経て初めて欲求を満たす手段になる。

自然は「材料」だけでなく「力」も提供する

  • 【主張】自然は原材料の供給者であるだけでなく、風・水・重力・燃焼などの「利用可能な力」によって労働を代替・補完する。

    • 【根拠・内容1】穀物の製粉は、当初は過酷な人力労働だったが、風力・水力に置き換えることで労働負担を大きく削減できた。

    • 【根拠・内容2】自然の力は、人力を置き換える場合に限らず、手仕事でも常に工程を成立させる能動的要素(例:繊維の結合力)として働いている。

人間の直接作用は「物の移動」であり、結果は自然法則が生む

  • 【主張】労働が物理世界に直接及ぼせるのは基本的に「動かすこと」だけで、実際の変化や成果は物質の性質と自然法則が生み出す。

    • 【根拠・内容1】種を土に置けば成長力が働き、木を切れば重力や材質の性質が結果(倒れる・板になる等)を決める。

    • 【根拠・内容2】人の技能の中心は、望む効果を得るために自然力が働く配置・手順(機械、燃焼→蒸気等)を発見・設計することにある。

    • 【根拠・内容3】家畜・風・水などの外部動力を使うには装置の構築という「一度の労働」が必要だが、反復労働を節約できる。

「自然の寄与が大きい産業/労働の寄与が大きい産業」という比較は無意味

  • 【主張】生産物への自然と労働の寄与割合を産業間で比較するのは、境界も測定も困難であり概念的に誤っている。

    • 【根拠・内容1】成果は自然と労働の双方が不可欠な共同産物であり、どちらが「より」貢献したかを切り分けるのは不毛である。

    • 【根拠・内容2】「農業は製造業より自然の助けが大きい」という見方は、地代を自然作用への対価と誤解したことに由来する。

    • 【根拠・内容3】土地に地代が生じるのは希少で私有・独占できるからであり、もし空気・熱・電気等も希少で独占可能なら同様に地代が成立しうる。

自然要素の「実質的に無尽蔵」か「有限」かが経済を左右し、有限なら価値が生まれる

  • 【主張】自然の力・資源には実用上豊富なものと量的制約の強いものがあり、制約が現実化すると所有・利用に交換価値(価格・地代)が発生する。

    • 【根拠・内容1】土地・水・水力・港湾スペース・地下資源・漁業資源などは、場所や用途によって有限になりうる(歴史の長い国ほど土地は希少化しやすい)。

    • 【根拠・内容2】十分に豊富で独占されない自然要素は市場価値を持ちにくいが、不足が生じると滝の水力利用料や土地の売買・地代のように価格が成立する。

    • 【根拠・内容3】経済の重要な帰結は「とりわけ土地が有限であること」に大きく依存し、後続議論の土台となる。


本文

生産に必要な条件は二つある。労働と、生産に適した自然物である。

労働は身体的な労働と精神的な労働の二つに大別でき、より包括的に言えば、筋肉を使う労働と神経を使う労働と言い換えられる。そして労働という概念には、力を出す行為そのものだけでなく、仕事のために思考や筋肉、またはその両方を働かせることに伴う、不快感や苦痛、身体の不便さや負担、気疲れや精神的ないらだちといった嫌な感覚も含める必要がある。労働以外のもう一つの必要条件である自然物について言えば、人の欲求を満たしうる性質のものが、自然に存在したり自生したりする場合もある。たとえば洞穴や樹洞のある木は住まいになり得て、果実や根、野生の蜂蜜などの自然産物が生きる糧になることもあるが、一般には、それらを新しく作るためではなく、見つけて確保し、自分のものにするためにも相当の労働が必要になる。こうした少数の例外(そして人間社会のごく初期を除けば重要でない場合)を除けば、自然が与えるものは、人の労働によってある程度の変形や加工を受けてはじめて、人の欲求を満たす手段となる。森や海の野生動物も狩猟や漁労の食料源ではあるものの、それらを手に入れるための労働が主として捕獲であるとしても、食用にするには殺し、切り分け、ほとんどの場合は調理する工程が欠かせず、いずれも一定の人の労働を要する。自然の物質が、直接利用できる形になるまでに受ける変化の程度は、性質や見た目がほとんど変わらない場合から、原形や構造の痕跡が分からないほど完全に変わる場合まで幅がある。地中で見つかる鉱物の一片と、鋤や鉞、鋸とでは共通点がほとんどなく、磁器と原料の崩れた花崗岩、あるいは海藻混じりの砂とガラスの間では似ている点はいっそう少ない。羊毛の房や綿の種子のひと握りと、モスリンや厚地の織物との差はさらに大きく、羊や綿の種子そのものも自然任せに生じたものではなく、先行する労働と手入れ、管理の積み重ねの結果である。このように最終製品が自然の素材とかけ離れて見えるため、言葉の慣習としては、自然は材料を供給するだけだとみなされやすい。

しかし自然は、材料を与えるだけでなく、利用できる力そのものも与えている。地球の物質は、人間が形や性質を加えるのを不活性に受け入れるだけのものではなく、自然の力によって人の作業に協力し、ときには労働の代わりとしても使える力を備えている。昔は穀物を二枚の石の間でついて粉にしていたが、のちに取っ手を回して上の石を下の石の上で回転させる仕組みが生まれ、この方法は少し改良されながら東方ではいまも広く使われている。ただし、この作業に必要な筋力の負担はとても大きく、疲労も激しい過酷なものだったため、主人の意に背いた奴隷への懲罰として課されることもあった。ところが、奴隷の労働と苦しみを節約する価値があると考えられるようになると、上の石を回す力を人力ではなく風力や落下する水の力に任せる工夫が進み、身体的負担の大部分が不要になった。その結果、風や落下する水の力といった自然の働きが、それまで労働が担ってきた仕事の一部を引き受けるようになった。

ある程度の労働が省かれ、その仕事が何らかの自然の働きに委ねられる場合には、労働と自然力の役割の違いについて誤解が生じやすい。自然力が人間の産業に協力するのは、労働の代わりに働かされる場合に限られ、手で作られるものでは自然は受け身の材料を与えるだけだと思われがちだが、それは錯覚である。自然の力は、労働を代替する場合でも手仕事の場合でも、同じように能動的に働いている。職人は亜麻や大麻の茎を裂いて繊維に分け、数本を指でより合わせ、紡錘という簡単な道具に助けられながら糸を作る。こうして糸ができると、その糸を多数並べ、同じような別の糸をそれに直角に渡し、それぞれが交差する糸の上と下を交互に通るようにするが、この工程は杼という道具によって容易になる。こうして材料に応じて麻布または粗布の織物が仕上がるが、一般には手で作ったものとされ、自然力が共同して働いたことは想定されない。だが、各工程を可能にし、織り上がった布をつなぎ止めているのは繊維の粘り、すなわち結合力である。これは自然に備わる力の一つであり、ほかの機械的な力と同様に正確に比較して測定でき、どの程度の力で打ち消せるか、またはつり合わせられるかを確かめられる。

人が自然に働きかけるほかの例を見ても結論は同じで、対象を適切な位置に置きさえすれば、そのあと実際に働くのは自然の力、つまり物質が本来もつ性質である。人にできるのは、物の内部の力や周囲の自然物の力が働きやすい場所へ物を移し替えることだけであり、その範囲を超えることはできない。結局、人は物を別の物に近づけたり遠ざけたりして、物どうしの関係を移動によって変えるにとどまる。たとえば種を土にまけば、成長の力が根、茎、葉、花、実を順に生み出す。斧を木に振り下ろして入れれば重力で木は倒れ、鋸を一定の動かし方で通せば、硬いものの前では柔らかいものが退くという性質によって木は板に分かれる。その板を所定の位置に並べ、釘を打ち込むか接着剤を挟めば、机や家に組み立てられる。火花を燃料に移せば着火し、燃焼で生じる力が煮炊きを進め、鉄を溶かしたり柔らかくしたりし、あらかじめその場へ運んでおいた麦芽やさとうきびの搾り汁をビールや砂糖に変える。人が物質に加えられる操作は移動以外になく、筋肉が担えるのも運動と、その運動への抵抗に限られる。筋肉の収縮で外部の物に圧力を加え、それが十分に強ければその物を動かし、すでに動いているなら減速させたり向きを変えたり、あるいは止めたりできるが、それ以上のことはできない。それでも人類は、この限られた力だけで自分たちよりはるかに強い自然の力を大規模に利用し、その活用の範囲は今後も広がっていくと考えられる。方法としては、すでにある自然の力を利用するか、力が生まれるように物を混ぜたり組み合わせたりするかのいずれかであり、たとえば燃料に火のついたマッチを当て、その上のボイラーに水を入れて蒸気の膨張力を生み出し、目的の達成に役立ててきた。

物理世界において労働が直接行うのは、物体を動かすことだけであり、残りは物質の性質や自然法則が決める。したがって人間の技能や工夫は、主として、自分の力で実行でき、かつ望む効果をもたらす動かし方を見いだすことに向けられてきた。しかし、人が筋肉によってただちに直接生み出せるのが動きだけだとしても、必要な動きのすべてを筋肉で直接起こす必要はない。最初で最も明白な代わりは家畜の筋力であり、やがて風や水のようにすでに動いているものの力にも助けさせ、風や水にその運動の一部を車輪へ伝えさせて、以前は筋力で回していた車輪を回転させるようにもなった。風や水の力を引き出すには、物体を一定の位置へ動かして機械と呼ばれるものを組み立てる一連の作業が必要になるが、そのために必要な筋肉の働きは常に繰り返されるのではなく一度きりで足り、全体として労働を大きく節約できる。

自然が労働をどの種類の産業でより助けるかという問題について、ある産業では労働の寄与が大きく、別の産業では自然の寄与が大きいと述べる論者がいるが、そこには概念の混乱がある。人の仕事における自然の関与は、どこまでを自然とみなすかの境目を定めにくく、量として比較して測ることもできないため、ある一つの事柄で自然の働きが他より大きいと断定することはできない。労働についても、より小さいと言い切ることはできない。必要な労働が少なくて済む場合はあっても、その必要分が絶対に欠かせない以上、成果は自然の産物であると同時に労働の産物でもある。効果を生むのに両方が同じように必要なら、どれだけが自然でどれだけが労働の産物かを論じるのは、はさみの左右の刃のどちらが切るのにより関わるか、また五と六のどちらが三〇を生むのにより貢献するかを決めようとするのと同じで、意味がない。こうした考えは多くの場合、「農業は製造業より自然が人間の努力をより多く助ける」という想定として現れ、フランスの重農主義者が唱え、アダム・スミスも免れなかったこの見方は、地代の性質を取り違えたことに由来する。すなわち、土地の地代を自然の作用への対価ととらえ、製造業には同種の支払いがないため、支払いがある分だけ農業における自然の奉仕が大きいと推測したのである。だが、土地に価格が付くのは土地の量が限られているからにすぎず、もし空気や熱、電気、化学作用など製造業が用いる自然の力も供給が乏しく、土地のように独占や私有が可能なら、それらにも同様に地代が課されうる。

ここから、これからの議論の土台となる重要な区別が導かれる。自然の力には、実用上ほとんど無尽蔵とみなせるものと、量に限りがあるものがある。無尽蔵といっても文字どおり無限という意味ではなく、少なくとも現時点の状況では使い尽くせないほど豊富だ、という実際上の意味にとどまる。土地は、開拓や入植が進む国の一部では、現在の人口や今後数世代にわたる人口増を見込んでも余るほどあり、実用上は無尽蔵に近い。けれども同じ国でも、市場に近い、輸送に便利といった条件に恵まれた土地は一般に限られており、喜んで占有して耕作するなどして利用したい人びとの需要を十分に満たせない。歴史の長い国ぐにでは、耕作できる土地、少なくとも一定の肥沃さを持つ土地は、量の限られた資源として扱わざるをえない。水も、川や湖のほとりで日常的に使うかぎりは豊富とみなせるが、灌漑に必要となれば、そこでもあらゆる需要を満たすには不足しうる。貯水槽や水がめに頼る地域、井戸の水量が豊富ではない地域、枯れやすい地域では、水はとりわけ厳しく制約される。水そのものが豊富でも、水力、つまり落差を工業の動力として使える条件はきわめて限られ、もしもっとあれば利用されるはずの用途に比べて不足することがある。石炭や金属鉱石などの地下資源は、土地以上に制約が強く、分布が局地的なうえ、採掘すればいずれ尽きる。とはいえ、特定の場所と時点では、たとえ無料で得られるとしても、当面の用途では使い切れないほど多い場合もある。海の漁業資源は多くの場合、実用上は無尽蔵とされるが、北極海の鯨漁では、占有のための権利確保に高い費用がかかり、その費用をまかなうために高い価格が必要であったにもかかわらず、長らく需要を満たせなかった。その結果、南方漁場は大きく拡大し、そこでも枯渇が進みつつある。河川の漁業資源はもともと限られており、だれでも無制限に利用できるなら、短期間で尽きるだろう。空気は、風として利用する場合でも多くの地域であらゆる用途に足る量が得られる。同様に、海岸や大河川では水上輸送も可能であるが、その輸送に使える埠頭や港の収容スペースは、多くの場所で、容易に確保できるなら利用されるはずの規模に比べて大きく不足している。

社会の経済がどれほど左右されるかは、最も重要ないくつかの自然的要素が限られた量でしか存在しないこと、とりわけ土地が有限であることに大きく依存していることが、後に明らかになるだろう。ここではひとまず、自然的要素の量が実質的に無尽蔵で、しかも人為的に独占できる場合を除けば、市場で価値を持たず価格もつかないという点だけを述べておきたい。無料で手に入るものに対して、人は対価を払わないからである。ところが制約が現実のものとなり、頼めばいくらでも得られる状態ではなくなると、その自然的要素の所有や利用には交換価値が生まれる。例えば、ある地域で求められる水力が、利用できる滝の供給を上回れば、人々は滝の利用に見合う対価を支払う。耕作に必要な土地が需要に対して不足する場合や、特定の品質や立地上の利点を備えた土地が足りない場合も同様で、その品質と立地の土地は価格を付けて売買されるか、年ごとの地代を付けて貸し出される。この問題は後に詳しく論じるが、ここではまだ十分に示し説明できない原理や、そこから導かれる結論についても、簡単な示唆によって先取りしておくことが、しばしば有用である。

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