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マーシャル『経済学原理』第1編第4章【5/56】

マーシャル『経済学原理』の第1編「予備的概観」第4章「経済学研究の順序と目的」をAI翻訳しました。誤訳や読みづらいところが残っているかもしれませんが、温かい目で読んでいただけたらうれしいです。

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この翻訳について

  • 目的:個人の学習・読書用の試訳です。学術的な厳密さまでは保証できません。

  • 方法:AIで下訳 → 自分で全体を見直し、一部の表現を修正しています。

  • 出典:原文はこちら

  • お願い:引用の際は出典の明記をお願いします(本文リンク・本記事URLなど)。


AIによる要約

第四章「経済学研究の順序と目的」では、経済学の方法と役割が論じられる。経済学は事実の収集だけでなく、理性によって事実を整理し、原因と結果の関係を明らかにする科学である。経済法則は一定条件のもとでの人間行動の傾向を示すもので、貨幣は動機の強さを測る不完全だが有用な尺度となる。研究は実用上の問題に導かれるが、当面の政策目的だけに従うべきではなく、知識そのものの探求と体系的分析が必要である。マーシャルは、経済学者に知覚、想像、理性、共感を求め、目に見える効果だけでなく遠い原因や隠れた結果をたどる重要性を説く。経済学は社会生活を経済面から研究し、私有財産や自由を無条件に崇拝するのではなく、国民全体の福祉と進歩を慎重に見きわめる学問なのである。


本文

これまで見たように、経済学者は事実を広く集めなければならない。だが、事実を並べるだけでは、そこから何かが自ずと分かるわけではない。歴史が示してくれるのは、出来事がどのように続いたか、また何がたまたま同時に起きたかである。その連なりに意味を与え、教訓を引き出すのは、理性の働きである。経済学者の仕事は多方面にわたり、その多くは、実際の問題で最後にものをいう、よく鍛えられた常識に委ねられる。経済科学とは、体系的な分析と一般的な推論に支えられた常識の働きである。それによって、個々の事実を集め、整え、そこから推論を進めやすくする。経済科学の及ぶ範囲にはつねに限りがあり、常識を欠けば空しいものになる。それでも難しい問題では、常識だけでは届かないところまで、私たちを進ませてくれる。

経済法則とは、一定の条件のもとで、人間の行動がどのような傾向をもつかを述べるものである。それが仮説的であるというなら、その意味は物理科学の法則についていう場合と同じである。物理科学の法則にも、条件が明示されているか、少なくとも前提として含まれているからである。ただし経済学では、物理学の場合よりも、その条件をはっきり示すことが難しい。しかも、条件を示し損なったときの危険は大きい。人間行動の法則は、重力の法則ほど単純でも、明確でも、確かめやすくもない。とはいえ、その多くは、複雑な対象を扱う自然科学の法則と並べて考えてよいものである。

経済学が一つの独立した科学として成り立つのは、人間行動のうち、測定できる動機に最も強く支配される部分を主な対象とするからである。そのため経済学は、他の分野よりも体系的な推論と分析に乗せやすい。動機そのものは、高いものであれ低いものであれ、直接には測れない。測れるのは、人を動かす力である。貨幣は、その力を完全に測る尺度ではない。貨幣が働く一般的な条件、とくに行動する人々が豊かなのか貧しいのかを慎重に考えなければ、かなりよい尺度にさえならない。だが十分に注意して用いれば、貨幣は、人々の生活を形づくる多くの動機について、その動かす力をかなりよく測る尺度となる。

理論の研究は、事実の研究と並行して進めなければならない。現代の問題を考えるうえでは、現代の事実が最も大きな助けになる。遠い過去については、経済の記録が少なく、信頼しにくいものも多い。しかも初期の経済状態は、自由企業、一般教育、真の民主主義、蒸気、安価な新聞、電信をもつ現代の状態とは、まったく性質が違っている。

経済学には二つの目的がある。一つは知識そのものを得ることであり、もう一つは実際の問題を明らかにすることである。ただし、研究を始める前にその効用をよく考えることは必要だとしても、効用そのものを直接の目標にして研究を組み立てるべきではない。そうすると、当面の目的にすぐ関係しないと思えたところで、考えることをやめたくなるからである。実践上の目的だけを直接追えば、その場の目的にしか結びつかない知識の断片を集めることになりやすい。それらの断片は、互いをほとんど照らし合わない。知的な力は、対象から対象へ移ることに費やされるばかりになる。何一つ十分に考え抜かれず、真の進歩も生まれない。

したがって、科学にとって最もよい分類とは、性質の近い事実と推論をまとめることである。そうすれば、一つの研究が隣り合う研究を照らすようになる。同じ考察のまとまりに長く取り組むうちに、私たちは自然法則と呼ばれる根本的なまとまりへ、少しずつ近づいていく。まずそれぞれの働きを単独でたどり、次にそれらが組み合わさった働きをたどる。こうして歩みは遅くても、確かな前進が可能になる。経済研究が実際にどう役立つかは、経済学者の念頭から離れてはならない。しかし経済学者に固有の仕事は、事実を研究し、それを解釈することにある。そして、原因が単独で働くとき、また組み合わさって働くときに、どのような結果を生むかを見いだすことにある。

このことは、経済学者が主にどのような問いを扱うのかを見れば、よくわかる。とくに現代世界については、富の消費と生産、分配と交換、産業と商業のしくみ、金融市場、卸売と小売、外国貿易、雇い主と働く人びとの関係に、どのような原因が作用しているのかを問わなければならない。あわせて、それらの動きが互いにどう働きかけ、また働き返すのかを見なければならない。そして、長い目で見た傾向が、目先に見える傾向とどのように異なるのかも明らかにする必要がある。

価格は、どのような条件のもとで、ものがどれほど望まれているかを示す尺度になるのだろうか。社会のある階級で富が一定だけ増えたとき、その人びとの暮らしのよさは、まずどれほど増すと考えられるのだろうか。所得が不足すれば、その階級の産業上の能率はどの程度損なわれるのだろうか。反対に、所得がいったん増えれば、それが能率と稼ぐ力を高めることで、その増加はどの程度みずから支えられるのだろうか。

実際には、経済的自由の影響は、ある場所、社会階層、産業部門において、どこまで及んでいるのだろうか。また、特定の時期には、どこまで及んでいたのだろうか。そこでは、ほかにどのような力が最も強く働いているのだろうか。それらの力は、互いにどう結びついて作用するのだろうか。とりわけ、経済的自由はそれ自身の働きによって、結合や独占をどこまで生み出し、それらはどのような効果をもつのだろうか。長い目で見れば、社会の各階級はどのような影響を受けるのだろうか。最終的な結果が現れるまでには、どのような中間的な効果が生じるのだろうか。その効果が広がっていく時間を考えると、最終的な効果と中間的な効果は、それぞれどれほど重要なのだろうか。租税制度は、結局どこに負担を帰着させるのだろうか。それは社会にどのような負担を課し、国家にどれほどの収入をもたらすのだろうか。

経済学が直接扱う主な問題は、以上のようなものである。事実を集め、分析し、そこから推論する作業も、これらの問題を軸に進めるべきである。実際の社会で問われる問題の多くは、経済学そのものの範囲をこえている。けれども、それらは経済学者の研究を背後から促す大きな動機になる。しかも、そうした実際上の問題は、研究の材料となる経済上の事実や条件よりも、時代や場所によって大きく変わる。いま私たちの国でとくに切実なのは、たとえば次の問題である。経済的自由について、その行き着く結果だけでなく、そこに至る過程も見たうえで、よい働きを強め、悪い働きを弱めるには、私たちはどうすべきか。たとえ最後にはよい結果が得られるとしても、その途中で害が生じ、しかも苦しむ人々がその利益を受けないなら、他人の利益のために彼らが苦しむことは、どこまで正当化できるのか。

富はもっと平等に分配されるべきだと認めるとしても、そのために財産制度を変えたり、自由な企業活動を制限したりすることは、どこまで許されるのだろうか。そうした変更は、富の総量を減らすおそれがあるからである。言い換えれば、国民全体の物質的な富がいくらか減るとしても、貧しい階級の所得を増やし、労働を軽くすることを、どこまで目標にすべきなのか。それは、不正を生まず、進歩を担う人々の活力を弱めずに、どこまで実行できるのか。租税の負担は、社会の各階級にどのように分けられるべきなのか。

私たちは、現在の分業のあり方に満足していてよいのだろうか。多くの人々は、人格を高める性質をもたない仕事だけに従事し続けなければならないのだろうか。労働者の大多数に、より高度な仕事を担える新しい能力を、少しずつ育てることはできないのだろうか。とりわけ、自分たちが働く事業の管理を、協同して担う能力を育てることはできないのだろうか。

私たちのような文明の段階では、個人の行動と集団の行動を、どのように組み合わせるべきだろうか。集団で動くことにとくに利点がある目的については、古い形のものも新しい形のものも含め、自発的な結社にどこまで任せるべきだろうか。さらに社会全体として、国や地方の政府を通じて、どのような仕事を引き受けるべきだろうか。広場や公園、芸術作品、教育や娯楽の手段、さらにガス、水道、鉄道のように、共同で行動しなければ十分に整えにくい文明生活の物的条件について、私たちは共同で所有し、共同で利用する仕組みを、進めるべきところまで進めているのだろうか。

政府が直接かかわらない場合、個人や会社が自分たちの事業を自由に運営することを、どこまで認めるべきだろうか。鉄道のように、ある程度独占的な地位をもつ事業については、政府はどこまで規制すべきだろうか。また土地のように、人間の力では量を増やせないものの管理については、どこまで介入すべきだろうか。いま存在している財産権は、すべて完全な効力をもつものとして守り続ける必要があるのだろうか。それとも、それらの権利がもともと満たそうとしていた必要は、すでにある程度まで薄れているのだろうか。

現在の富の使われ方は、全面的に正しいと言えるのだろうか。政府が介入すると硬直的で強制的になり、利益よりも害を生みやすい経済関係では、世論による道徳的な圧力が、個人の行動を抑え、方向づける余地はどれほどあるのだろうか。経済問題において、一国が他国に対して負う義務は、同じ国民同士が負う義務と、どのように違うのだろうか。

このように、経済学は、人間の政治生活、社会生活、私生活を、経済という側面から研究する学問である。なかでも中心になるのは社会生活である。経済学は、知識そのものを得ることを目的とする。同時に、生活、とくに社会生活を実際に営むための手がかりを得ることも目的とする。その手がかりが、今ほど強く求められた時代はない。後の世代には、私たちより多くの余暇があるかもしれない。そうなれば、抽象的な思索や、過去の歴史に残る不明な点を明らかにする研究にも、より多くの時間を使えるだろう。たとえそれが、現在の困難をすぐに解く役に立たない研究であってもである。

もっとも、経済学は実際上の必要に大きく導かれるが、政党組織の都合や、内政、外交をめぐる駆け引きの議論には、できるだけ立ち入らない。政治家は、自国のために実現したい目的へ最も近づく施策を選ぶとき、そうした事情を考えざるをえない。経済学が助けようとするのは、その目的は何であるべきか、またその目的へ向かう大きな政策として何が最善かを判断することである。しかし、実務家が無視できない多くの政治問題には踏み込まない。したがって経済学は、技術というより、純粋科学であり応用科学である。狭い意味の「政治経済学」よりも、広い意味の「経済学」と呼ぶ方がふさわしい。

経済学者には、知覚、想像、理性という三つの大きな知的能力が必要である。なかでも想像力は欠かせない。目に見える出来事から、その背後にある遠い原因や、表面の下にある原因を探らなければならないからである。また、目に見える原因からも、その遠い結果や、表面の下にある結果をたどらなければならないからである。

自然科学、とりわけ物理学系の科学には、人間の行動を研究する学問にはない、大きな訓練上の利点がある。研究者が、後の観察や実験で確かめられるほど正確な結論を求められるからである。表面に見える原因や結果だけで満足すれば、その誤りはすぐに明らかになる。自然の力が互いにどう働き合うかを無視しても、同じである。どの運動も周囲を変え、また周囲によって変えられる。だから物理学を深く学ぶ者は、一般的な分析だけでは満足しない。つねに数量として捉えようとし、問題を成り立たせているそれぞれの要素に、ふさわしい重みを与えようとする。

人間に関わる科学では、これと同じ正確さを得ることは難しい。抵抗の少ない道が唯一の道である場合もあり、その道はいつも人を誘う。たとえ危うい道であり、努力すればもっと徹底した道を切り開ける場合であっても、その誘惑は強い。歴史を科学的に研究する者は、実験ができないために制約を受ける。さらに大きな制約は、原因どうしの相対的な重みを評価しても、それを照合する客観的な基準がないことである。しかも、そうした評価は議論のほぼすべての段階に入り込んでいる。ある原因、または一群の原因が、別の原因に押しのけられたと結論するには、それぞれの重みを暗黙に見積もらざるをえないからである。それでも、自分が主観的な印象にどれほど頼っているかを自覚するには、大きな努力がいる。経済学者もこの困難を免れない。ただし、その程度は、他の人間行動の研究者よりは小さい。少なくとも現在と近い過去を扱うかぎり、多くの事実は明確に分類でき、しばしば数値によってもかなり正確に示される。そのため経済学者は、表面の下にあって見えにくい原因や結果を探り、複雑な条件を要素に分け、多くの要素から全体を組み立て直すうえで、いくらか有利な立場にある。

小さな事柄であれば、単純な経験だけでも、目に見えない働きを示してくれる。たとえば、倹約心のない人々を思慮なく援助すると、表面上はほとんど利益だけに見えても、実際には人格の強さや家庭生活を損なう。その害に目を向けさせてくれるのである。だが、雇用を安定させるための、多くのもっともらしい計画について、その真の結果をたどるには、いっそう大きな努力と広い視野、強い想像力が必要になる。そのためには、信用、国内取引、外国貿易上の競争、収穫、価格の変化がどれほど密接につながり、雇用の安定に善悪両面でどのように作用するかを知らなければならない。西洋世界のどこかで重要な経済事件が起これば、それはほとんど他のすべての地域で、少なくともいくつかの産業の雇用に影響する。失業の身近な原因だけを扱っていては、目に見える害を十分に治せないばかりか、見えない害を生むおそれがある。遠い原因を探し、それらを比較して重みを測る仕事は、精神にとって高度な訓練となる。

また、「標準規則」などによって、ある産業の賃金が特に高く保たれる場合を考えてみよう。この問題で大切なのは、その規則のために、人々が支払ってもよいと思う価格で働く機会を失った人たちが、その後どのような道をたどるかを想像することである。彼らはよりよい地位へ押し上げられるのか。それとも、より悪い境遇へ押し下げられるのか。よくあるように、ある者は上がり、ある者は下がるとすれば、上がる者が多数で下がる者が少数なのか。それとも、その逆なのか。表面だけを見れば、多数が押し上げられるように思えるかもしれない。しかし、労働組合その他の権威による禁止が、人々にとって最もよい働き方と稼ぎ方をどのように妨げるかを、科学的な想像力でたどってみるなら、多くの場合、押し下げられる者のほうが多数で、押し上げられる者は少数にすぎないことがわかる。イングランドの影響もあって、オーストラレーシアのいくつかの植民地は、労働者に目先の快適さと安楽を約束するように見える大胆な試みに踏み出している。オーストラレーシアには、広大な土地所有を背景にした大きな借入能力がある。そのため、こうした近道が産業の衰退に終わるとしても、その落ち込みは小さく、一時的なものですむかもしれない。だが、イングランドも同じ道を進むべきだという主張は、すでに現れている。イングランドで失敗すれば、その結果ははるかに重いものになるだろう。だからこそ、こうした計画はもっと広く研究されなければならない。新しい戦艦の設計を、荒天のもとでどれほど安定しているかによって判断するのと同じように、ここでも秩序立った思考が必要なのである。

この種の問題を扱うには、まず純粋に知的な能力が必要である。場合によっては、批判力が決定的な役割を果たす。しかし経済研究は、共感する力も必要とし、同時にその力を育てる。とりわけ大切なのは、自分の仲間だけでなく、他の階級の人びとの立場にも身を置くことのできる、まれな共感である。こうした階級を越えた共感は、日ごとに重要さを増している研究によって強められる。たとえば、性格と所得、雇用の方法と支出の習慣が、互いにどのような影響を及ぼし合うかを研究することである。また、家族、同じ事業に属する雇い主と被雇用者、同じ国の市民を結びつける信頼と愛情が、国民の能率をどのように強め、またその能率によってどのように強められるかを研究することである。さらに、職業上の作法や労働組合の慣行のなかに入り交じっている、個人の無私と階級の利己の善悪を研究することでもある。そして、増大する富と機会を、現在と将来の世代の福祉に最もよく生かそうとする運動を研究することでもある。

経済学者が理想を育てるには、何よりも想像力が必要である。しかし、それ以上に求められるのは慎重さと節度である。理想を語る勢いが、将来を見通す理解を追い越してはならないからである。

さらに多くの世代を経れば、私たちが今もっている理想や方法も、人間社会の成熟期のものではなく、まだ幼年期のものだったと見えるかもしれない。それでも、私たちはすでに一つのはっきりした前進を遂げている。どうしようもなく弱い、あるいは卑しいと証明されない限り、すべての人は十分な経済的自由を受けるに値する、ということを学んだからである。もっとも、この前進が最後にどこへ向かうのかを、自信をもって見通すことは難しい。中世後期には、全人類を含む産業の有機体を研究しようとする試みが、まだ粗い形ながら始まっていた。その有機体は世代を追って成長してきたが、私たちの世代ほど大きな成長を見た世代はない。成長が進むにつれて、これを研究しようとする熱意も高まり、理解しようとする努力の広さと多様さも、かつてないものになっている。だが近年の研究が何より明らかにしたのは、進歩を形づくる原因について、私たちがどれほど知らないかということである。また、その産業の有機体が最後にどこへ向かうのかも、どれほど予測しがたいかということである。この点を、私たちはどの前世代よりも深く認識するようになった。

前世紀の初めには、排他的な階級特権を守ろうとする苛酷な雇い主や政治家の中に、政治経済学の権威を利用すれば都合がよいと考える者がいた。彼らは自らを「経済学者」と呼んだ。私たちの時代でさえ、民衆教育に十分な支出をすることに反対する人々が、この称号を名乗ってきた。現代の経済学者たちは、その支出こそ本当の意味での節約であり、それを拒むのは国家の見地から見て不正で有害な政策だと、一致して主張している。それにもかかわらずである。ところがカーライルとラスキン、さらに彼らのような高く人を鼓舞する詩的洞察には及ばなかった多くの著述家は、十分に検討しないまま、偉大な経済学者たちが実際には反対していた言説や行為の責任を、その経済学者たち自身に負わせた。そのため、彼らの思想と人格について、広い誤解が生まれた。

実際には、近代経済学の創設者のほとんどは、穏やかで共感に富み、人類への熱意に動かされた人々だった。彼らは自分の富にはほとんど関心をもたず、富が民衆の間に広く行き渡ることを重んじた。どれほど強力であっても、社会に反する独占には反対した。彼らはそれぞれの世代で、雇用者団体には認められていた特権を労働組合には認めない階級立法に反対した。あるいは、旧救貧法が農業労働者などの心と家庭に注いでいた毒を取り除こうと努めた。あるいは、自分たちの名で語ると称した政治家や雇い主の激しい反対にもかかわらず、工場法を支持した。彼らは例外なく、全国民の福祉を、私的努力と公共政策の究極の目標にすべきだと考えていた。ただし、その姿勢には勇気だけでなく慎重さもあった。冷淡に見えたのは、知識に支えられず、厳しい思考で鍛えられてもいない人々の確信だけを頼りに、まだ試されたことのない道を急いで進む責任を、彼らが引き受けなかったからである。

彼らの態度は、やや慎重に過ぎたのかもしれない。当時の偉大な先見者たちでさえ、ある面では、今日の多くの教養ある人々ほど広い視野を持っていなかった。今では、生物学の研究の影響もあって、環境が人の性格を形づくる力は、社会科学の中心にある事実として広く認められている。そのため経済学者も、人間が進歩しうる可能性を、以前より広く、また希望をこめて見るようになった。慎重な思考に導かれた人間の意志は、環境を変えることができる。環境が変われば、性格も大きく変わりうる。さらに人間は、性格を育てるのによりふさわしい生活条件をつくり出し、民衆の経済的な福祉と道徳的な福祉をともに高めることができる。経済学者は、そう考えるようになったのである。だからこそ、今も昔も経済学者の務めは、この大きな目的に向かう一見もっともらしい近道のうち、人々の活力や自発性の源を損なうものに反対することにある。

経済学という学問を築いた巨匠たちは、財産権そのものをあがめていたわけではない。ところが、この学問の権威は、既得権の主張を極端で反社会的なところにまで押し広げようとする人々によって、不当に利用されてきた。ここで確認しておきたい。慎重な経済研究が私有財産権を重んじるのは、それを抽象的な原理として奉じるからではない。過去の経験を見るかぎり、私有財産権は着実な進歩と切り離せないものだったからである。したがって、社会生活の理想から見れば適切でないように思える権利であっても、それを廃止したり変更したりするときには、責任ある人々は慎重に、実際の結果を確かめながら進まなければならない。

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