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J.S.ミル『経済学原理』第2巻第15章【30/75】

J.S.ミル『経済学原理』の第2巻第15章「利潤」をAI翻訳しました。誤訳や読みづらいところが残っているかもしれませんが、温かい目で読んでいただけたらうれしいです。

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この翻訳について

  • 目的:個人の学習・読書用の試訳です。学術的な厳密さまでは保証できません。

  • 方法:AIで下訳 → 自分で全体を見直し、一部の表現を修正しています。

  • 出典:原文はこちら

  • お願い:引用の際は出典の明記をお願いします(本文リンク・本記事URLなど)。

AIによる要約

利潤の定義と「利潤を構成する3要素」

  • 【主張】利潤とは資本を前払いして生産を可能にした者が得る取り分であり、その内訳は「利子・危険補償・監督労賃」に分解できる。

    • 【根拠・内容1】資本家は賃金・原材料・道具・建物などを前払いし、生産物が自分に帰属することで費用回収後の余り(純収入)を得る。

    • 【根拠・内容2】資本の利益のうち、単に「消費を控えて貸す」ことへの対価は利子(市場金利)で示され、事業利潤が金利を上回るのは危険負担と管理労働・技能の報酬が上乗せされるため。

    • 【根拠・内容3】総利潤は①節制(資本供給)②危険③監督の労苦・技能、の3つを賄う必要があり、支払い主体(貸し手・事業者・休眠パートナー・雇われ管理者)により分配形態が変わる。

長期的に成り立つ利潤率の下限(最低利潤)

  • 【主張】利潤率には長期的な下限があり、それを下回ると資本は生産から引き揚げられて利潤率が回復するまで調整が起こる。

    • 【根拠・内容1】最低限必要なのは、平均的損失の補填(危険への備え)+蓄積を続ける動機(節制への報酬)+管理の手間に見合う報酬。

    • 【根拠・内容2】この水準に満たないと、生産的用途に投じる資本が減り(非生産的消費へ回る)、資本量の減少を通じて利潤率が押し上げられる。

    • 【根拠・内容3】最低利潤は時代・地域で大きく変動し、とりわけ「財産の安全性」が悪い社会では危険補償が跳ね上がり、高利潤でなければ資本が出ない。

業種間の利潤差を生む要因(危険・評価・技能・独占)

  • 【主張】利潤率の差は主に危険度、仕事の不快さ・社会的評価、必要技能や市場規模、自然独占・談合などによって生じる。

    • 【根拠・内容1】小売が相対的に高利潤になりやすいのは、社会的評価や事業条件の違いがあるためで、差を最も大きくするのは危険の違い(例:火薬製造)。

    • 【根拠・内容2】見かけの高利益の多くが「監督労賃(技能への賃金)」にすぎない場合がある(薬剤師、技師、小規模商店など)。

    • 【根拠・内容3】巨額資本が必要で参入者が限られる事業や、業者の結託が起きやすい取引では、自然独占・人為的独占により高利潤が維持されやすい。

「利子は均一、粗利益は不均一」/利潤の均等化傾向

  • 【主張】同一時点・同一地域・同程度の担保での利子率は均一化する一方、事業の粗利益は個人差が大きいが、独占がなければ産業間の利潤見込みは均等化へ向かう。

    • 【根拠・内容1】金融は競争と仲介層により金利が迅速に調整され、担保が同じなら適用金利は等しい。

    • 【根拠・内容2】粗利益は能力・知識・倹約・行動力・人脈・運などで大きく分散し、「等しい資本は等しい利益」を一般原則として扱うのは現実に合わない。

    • 【根拠・内容3】それでも、ある分野が有利に見えれば資本と人が流入し、不利なら流出して、平均的な成功見込みが近づく(完全な同一利潤ではなく「見込みの均衡」)。

    • 【根拠・内容4】調整は資本の物理的移転だけでなく、新規蓄積の配分変更や信用(借入規模の増減)を通じても進み、固定資本の転用困難な衰退業種のみ調整が遅い例外となる。

「価格が利潤を生む」の誤解と、利潤の根源

  • 【主張】利潤は売買(価格差)そのものからではなく、労働が生活維持分を超える産出を生むという生産力から生じる。

    • 【根拠・内容1】貨幣の受け取りは利潤が支払われる「手段」にすぎず、根本原因ではない。

    • 【根拠・内容2】資本が利潤を生むのは、食料・衣服・道具・原材料が「それを作るのに要した時間より長く役立つ」ためで、資本家が前貸しして生産物を受け取れば余剰が残る。

    • 【根拠・内容3】価格の偶然的変動で個別利潤が上下しても、調整後には国全体の一般利潤は生産力に規定された水準へ配分される。

一般利潤率を決める決定要因(賃金ではなく「労働費用」)

  • 【主張】一般利潤率を決める核心は、労働者取り分(賃金の“比率”)ではなく、資本家側から見た「労働に要する費用」であり、これは①能率②実質賃金③実質賃金財の供給費用の3変数で決まる。

    • 【根拠・内容1】利潤総額は生産量(生産力)と労働者取り分の割合で左右されるが、利潤率は生産量が増えても前貸しも同規模で増えるため基本的に「労働者取り分の比率」によって決まる、という整理が提示される。

    • 【根拠・内容2】ただし議論上「賃金が上がると利潤が下がる」と言うより、利潤は賃金そのものではなく資本家の負担としての「労働費用」に依存すると表現すべきだと区別を強調する。

    • 【根拠・内容3】低賃金でも能率が低ければ労働費用は高くなり得る(例:賃金が低い地域でも利潤が高いとは限らない)。

    • 【根拠・内容4】生活必需品が高い国では、労働者は困窮しても雇い手の労働費用が高くなり、低賃金と低利潤が同居し得る一方、必需品が安く能率が高い国では高い生活水準でも労働費用が抑えられ利潤率が維持され得る。


本文

前節では生産物のうち労働者が受け取る取り分を述べたが、本節では資本家の取り分、すなわち資本や在庫から生じる利潤を扱う。利潤とは、生産に必要な費用を前もって負担する者が得る収益である。たとえば、手元の資金から労働者の賃金を支払い、あるいは作業期間中の生活を支え、建物、原材料、道具、機械などを用意し、通常の契約条件によって生産物がその者に帰属して、彼が自分の裁量で処分できるとき、その取り分が利潤である。支出した費用の補填を受けたあとでも、一般に余りが残り、これが利潤となる。利潤は資本から得られる純収入であり、生活必需品や娯楽に充てる資金となるだけでなく、さらに貯蓄すれば資産を増やす元手にもなる。

労働者の賃金が労働への報いであるのと同じように、資本家の利潤も、ミスター・シーニアの適切な表現を借りれば節制への報いだとされる。資本家が資本を自分のために消費して使い尽くすことを控え、その資本を生産的労働者が自分たちのために消費できるようにすることで利潤が生まれるのなら、その自制に見返りが求められるのはもっともである。実際、個人的な享楽という点では資本を浪費してしまったほうが得をすることも多く、手元の元本が生涯に得られる利潤の合計を上回ることもある。しかし、元本を減らさずに保っているかぎり、望むときや必要なときにはいつでもそれを消費に回す力を持てるし、死後に他者へ譲ることもできる。さらにそのあいだも、資本から所得を得られるため、貧しくならずに自分の欲求や好みを満たすことに充てられる。

資本から得られる利益のすべてが、資本を他人に使わせること自体への正当な対価というわけではなく、対価として妥当なのはその一部にとどまる。返済能力のある借り手が資本を借りるために進んで支払う額がそれであり、一般に利子と呼ばれる。資本をすぐに消費せず、他者が生産に回せるようにするだけで得られる収益は、結局この利子に限られる。どの国でも、単に消費を控えることへの報酬の水準は、もっとも安全な担保が付いた貸付における当座の金利、つまり元本を失うおそれが事実上ない担保を前提とした市場金利によって示される。これに対して、自分で資本の運用を監督する人が見込む利益は、常にそれを上回り、一般には大幅に大きい。利潤率が金利を上回るのは、上乗せ分の一部が危険への補償だからであり、十分な担保を取って貸すだけなら危険はほとんどない一方、自分の勘定で事業に乗り出せば元本の一部または全部を失いかねない危険にさらされる。この危険には補償が必要で、さもなければ誰もそれを引き受けない。さらに、事業を統括するには時間と労働が必要で、その統括は通常、資金の全部または大部分を供給する者が担い、その者は、ふつうの取り決めでは、結果について単独で利害関係を持つか、少なくとも直接にはもっとも大きな利害関係を持つ。事業が大規模で複雑であるほど、いっそう強い勤勉さと、しばしば並みではない技能が求められ、それらには相応の報酬が必要になる。

資本が生む総利潤、すなわち生産資金を提供する者に帰属する利益は、少なくとも次の三つをまかなえるだけの水準でなければならない。すなわち、消費を控えて資本を拠出することへの対価、損失が生じるおそれへの補償、事業を監督するために必要な労力と技能への報酬である。これらの補償が一人にまとめて支払われることもあれば、複数の人に分けて支払われることもある。たとえば資本の全部または一部を借り入れで調達し、資本の所有者である貸し手が事業の危険や手間を負わない場合、貸し手は資本の使用を許す代わりに利子を受け取り、総利潤と利子との差額が事業者の努力と危険負担の見返りとなる。また、資本の全部または一部をいわゆる休眠パートナーが拠出する場合、休眠パートナーは危険を分担するが手間は負わず、その危険負担の対価として、単なる利子ではなく総利潤の一定割合を受け取る。さらに、資本の提供と危険負担を一人が担い、事業もその名義で行いつつ、管理の手間だけを別人に任せて定額の給与を支払う形もある。しかし、結果については給与の維持にしか利害を持たない雇用人による管理は、主として利害を有する者の監督の目、場合によっては統制の手が及ばないかぎり、非効率になりやすい。したがって、そのように十分に統制できない管理者には、報酬の一部を利潤に連動させるのが賢明であり、そうすると実質的に休眠パートナーに近い形となる。あるいは最後に、同じ人物が資本を所有し自ら事業を営み、望みかつ能力があれば、所有者が信任して任せるだけ他人の資本の管理まで引き受ける場合もある。だが、これらのいずれの仕組みであっても、総利潤が報いるべき要素は「消費を控えること」「危険」「労苦」の三つであり、利潤はそれぞれに対応して、利子、保険、監督の賃金という三要素に分解して整理できる。

長期的に成り立ちうる利潤率の下限とは、その時点と場所において、資本を投じることで生じる節制や危険、労苦に対して、かろうじてつり合う対価を確保できる水準である。総利潤からは、まず資本の運用に伴って起こりうる損失を平均的に補えるよう、一定の分を基金として差し引く必要がある。次に、資本の所有者が資本をただちに消費せず節制を続ける動機となるだけの対価を与えなければならず、その大きさは社会が現在と将来のどちらを重視するか、言い換えれば蓄積を望む力の強さに左右される。さらに、損失への備えと節制への対価を確保したうえで、事業に時間を割く人の労働と技能に報いる分が残ることが求められ、その額は、少なくとも大資本の所有者が自ら管理する手間に見合うか、管理者に報酬を払って代行させるに足る水準でなければならない。余剰がこの程度にとどまる場合、生産的に用いられるのは大規模な資本に限られ、これを下回れば資本は生産から引き揚げられて非生産的に消費され、資本量の減少を通じて利潤率が押し上げられるまでに至る。

利潤の最低限度は前に述べたとおりだが、この水準はきわめて変動しやすく、時代や地域によっては極端に低下する。その背景には、最低限度を形づくる三要素のうち二要素が大きく動くという事情がある。消費を控えて蓄積することに対して必要な報酬率、つまり蓄積を促す実効的な動機が、社会の状態や文明の程度によって大きく異なることはすでに述べたが、それ以上に差が出るのが危険に対する補償である。ここで問題にしているのは、同一社会の中で投下先によって危険度が違うことではなく、社会の違いによって財産の安全度が大きく左右される点である。多くのアジアの政体のように、専制的な政府や統制の利かない役人が財産を常に収奪の危険にさらす社会では、富を持つことや富裕だと疑われることが略奪の標的になるだけでなく、隠し財産の所在や引き渡しを迫る虐待の対象にさえなりうる。また、ヨーロッパ中世のように政府が弱体で、圧政の意思がなくても住民が保護も救済も受けられず、個々の権力者による露骨な略奪や正当な権利の不履行にさらされる社会でも、平均的な気質の人びとが、たまたま手にしているものの即時の享受を断ち、財産と自分自身をこうした危険にさらす以上、求める利潤率はかなり高くならざるをえない。こうした不測の事態は、生産に従事する者に限らず、資本の利子だけで暮らす者にも及ぶ。一般に治安が安定した社会では、十分な担保を取って貸し付ける限り、投資先固有の危険が貸し手に及ぶことはまれだが、アジアの多くの地域では担保がほとんど信用できず、金や宝石などの現物を差し入れさせる場合を除き、有効でない。貯蔵財があると知られたり疑われたりするだけで、財も所有者も危険にさらされ、その危険は、どれほどの利潤を期待できても到底つぐなえないほどだからである。このため、治安の悪さによって財宝の保有が非常時に命を守り災厄を避ける手段として必要になる機会が増えていなければ、蓄積は現状よりさらに減るだろう。こうした悲惨な統治の下で貸し付ける者は、返済されない危険を最大限に負うことになる。インドの多くの土侯国や在地国家、藩王国では、政府向けであっても、利子が数年にわたって支払われ、元本がまったく返らなくても貸し手がある程度補償されると受け取れるほどでなければ、だれも金を貸さないとされる。元本と複利の合計が、最後には一ポンド当たり数シリングで手打ちになってしまっても、貸し手は概して有利だった計算になる。

資本の報酬は、労働の報酬にも増して、資本がどの用途に用いられるかによって、その用途がどれほど魅力的と見なされるか、あるいはどれほど敬遠されるかという事情に応じて大きく変わる。たとえば小売業の利潤は、投下した資本に対する割合で見ると卸売業者や製造業者の利潤より高くなりやすいが、その理由の一つとして、その仕事に伴う社会的な評価が相対的に低いことが挙げられる。ただし、差を最も大きくするのは危険の違いである。火薬の製造では、事業者本人やその財産が常に特有の危険にさらされるため、それを埋め合わせるだけの高い利潤が平均以上に必要になる。他方で、海上での事業のように、特有の危険を一定額の支払いで肩代わりさせることができ、しかも通常そうされている場合には、保険料は生産費の通常の項目となり、その支払いと引き換えに船舶や貨物の所有者が受け取る補償は、利潤の見積りには現れず、資本の補てんに含まれる。

総利益のうち、商人や生産者の労働や技能に対する報酬に当たる部分は、職業によって大きく異なる。薬剤師の利益率が不自然に高いとされるのは典型例だが、アダム・スミスが指摘したように、その大部分は専門的な応対に見合う適正な賃金にすぎない場合が多い。というのも、近年の法改正まで、薬剤師は薬価以外の形でその報酬を請求できなかったからである。職業によっては、相当の科学的、技術的教育に加えて多額の資本を備えた者でなければ営めないことがあり、機械製作者としての技師や、公共事業の請負人としての技師がその代表で、こうした仕事は総じて利益率が高い。さらに、市場が狭くて事業規模を広げにくい一方、経営には相当の労働と技能が必要な事業もある。そのような場合、より高い利益率が必要であっても、得られる最終的な報酬は一般的な水準にとどまりやすい。スミスは「小さな港町では、小さな食料品店は資本一〇〇ポンドで四〇ないし五〇パーセントの利益を上げるが、同じ町の相当な卸売商は資本一万ポンドでも八ないし一〇パーセントほどにとどまる」と述べ、店主に求められる読み書きや記帳、五〇ないし六〇種類の商品を見分ける力を考えれば、年三〇ないし四〇ポンドを賃金として差し引いた残りは通常の資本利潤に近いと説明した。つまり、見かけ上の高利益の大半は、実際には賃金としての性格を持つ。

自然独占とは、法律の規定によってではなく、置かれた状況や条件によって生まれる独占のことであり、職種の違いが賃金や報酬の差を生んだり広げたりするのと同じように、資本の投下先が異なる事業のあいだでも同様に作用する。巨額の資本がなければ有利に運営できない事業では、多くの国で参入できる人々の範囲がきわめて限られ、その結果、参入者は利潤率を一般的な水準より高く保ちやすい。さらに、取引の性質によってある商いが少数の手に集中し、業者どうしの結託や談合によって利潤を高い水準で維持できる場合もある。ロンドンの書籍商のように業者数が多い分野でさえ、この種の結びつきが長期にわたって存在したことはよく知られており、ガス会社や水道会社の場合についてはすでに触れたとおりである。

利潤率に差が生じる背景には、職業ごとの危険度や働きやすさ、仕事の快・不快の違いがあり、さらに自然独占や政策などによって生じる独占の影響も加わる。しかし、これらの要因を適切に織り込んで調整し、前提と条件を明確にしたうえで考えるなら、あらゆる職業における資本の利潤率はおおむね同じ水準へ近づき、均等化する方向へ動く傾向がある。これは政治経済学で通常唱えられてきた命題であり、適切な説明を伴うかぎり妥当だといえる。

利潤のうち利子に当たる部分、すなわち節約や支出の先送りに対する実質的な報酬は、同一の時点と場所においては、資金の使途や運用先にかかわらず厳密に同じである。金利は、同程度に確かな担保がある限り、元本の投下先によって変わらないが、市場の状況や環境によって時期ごとに大きく上下する。現代の産業において、資金の貸し借りほど競争が激しく途切れずに続く分野はほかに見当たらない。事業に従事する者は折に触れて、そして多くは恒常的に借り手であり、一方、事業に関わらない者でも貨幣資産を持てば貸し手となる。この二つの集団の間には、銀行家、証券仲介業者、手形割引業者など、人数が多く機敏で判断力があり、わずかな利益の兆しにも敏感な仲介層が存在し、貸し付け需要が当面または先行きで増減すると受け取られる些細な事情や、一時的な世論の揺れでさえ、金利に直ちに反映される。取引全般の状況変化も絶えず起きており、商業危機のような大きな混乱がなくても、最優良の商業手形の金利が一年ほどの間に四パーセント未満から八、九パーセントへ変動した例がある。それでも、同一の時点と場所で同程度の担保を示せる者に適用される金利は等しく、市場の金利は常に周知の明確なものとして存在している。

しかし、粗利益となると事情がまったく異なる。粗利益は、業種や事業の種類が違っても(後で見るように)あまり変わらないことがある一方で、個人による差は非常に大きく、どの二つの例でも同じ水準になることはほとんどない。これは、事業主本人、または雇い入れた代理人の知識や能力、倹約の度合い、行動力に左右されるうえ、人脈といった偶然の要素や運にも影響されるからである。同じ業種の商人であっても、商品が同程度に良質で同程度に安価であったとしても、事業運営にかかる費用を同じにしたり、資本を回転させるのに要する時間を同じにしたりすることはめったにない。「等しい資本は等しい利益を生む」を商取引の一般原則であるかのように言い立てるのは、「同じ年齢や体格なら腕力も同じ」「同じ読書量や経験なら知識も同じ」と言い切るのと同じくらい現実に合わない。実際の結果は、挙げた一つの要因だけでなく、ほかの二〇の事柄にも同じくらい左右される。

利潤は変動するが、資本の用い方が異なっていても、自然独占や人為的独占がない限り、全体としては重要な意味で均衡が保たれる。平均して見れば、短期的な変動はあっても、各分野の利潤額そのものが同じになるのではなく、平均的な能力と条件にある人が利潤を得られる見込みが同程度になる水準へ落ち着いていく。この「同程度」とは、仕事の快適さや安全性が劣る場合に生じる不利を補う分も織り込んだうえでの比較である。もし、ある業種のほうが他より金銭的成功の機会が明らかに有利だと誰の目にも映るなら、人々は資本をその業種に振り向け、子どもをその道に進ませようとするはずであり、実際に技師の仕事や、新しく成立して繁栄している製造業のように、成長が見込まれる事業には資本と人が集まってきた。反対に、繁栄していないと見なされ、利潤の見込みが他より低いと考えられる事業からは資本が次第に離れるか、少なくとも新しい資本が入りにくくなる。こうして低収益分野から高収益分野へ資本の配分が動いて均衡が回復するため、分野ごとの利潤獲得の見込みが大きく異なる状態は長く続かず、揺れを伴いながら共通の平均に近づいていく。

資本が産業間を移って利潤が平均化していく過程は、重く、時間がかかり、ほとんど不可能だと考えられがちだが、必ずしもそうではない。第一に、調整とは、すでに投じた資本を実際に現場から引き上げることを、つねに意味するわけではない。資本が急速に増えている局面では、毎年の新たな蓄積がより好調な部門へ優先的に向かうだけで、均衡に近づくことも多い。仮に実質的な移転が必要になっても、採算の悪い業種の関係者がすぐに事業をやめ、拠点を畳まなければならないわけではない。商業が発達した国では、信用という数多く多様な経路を通じて遊休資本が広く行き渡り、利回りの低い分野ほどより潤沢に流れ込み、これが利潤の平均化を成し遂げる手段となる。つまり、一方の商人や生産者の集団が借入資本で回す事業部分を縮め、他方がそれを広げることで、資金配分が変わっていく。一定規模の商人や生産者で、自己資金だけで事業を回している者はほとんどなく、景気がよいときには自己資本を最大限に使い、自己資本が与える信用力を背景に借入も増やす。ところが、供給過剰や需要の鈍化で売れ行きが落ち、価格も下がれば、事業を縮小し、銀行などに以前と同じ規模で融資を更新するよう求めなくなる。反対に伸びている事業では、これまでより多くの流動資本を利益に結び付けられる見通しが立ち、当事者は融資をいっそう求めるようになり、改善した状況のおかげでそれを得るのにもさほど苦労しない。こうした流動資本の配分替えだけでも、資本の所有者が同額の資本を一方の業種から引き揚げて他方へ移すのと同程度に、利潤を均衡へ戻す効果がある。このような容易で、いわば自然発生的な、生産を需要に合わせる調整方法は、景気変動など日常的に起こる要因から生じる不均衡を正すには十分である。ただし、完全に衰退していく業種では、生産の一時的な増減だけでは足りず、大幅かつ恒久的な縮小、あるいは全面停止が必要になり、資本の引き上げは遅く困難で、ほとんどの場合かなりの損失を伴う。機械や建物などに固定された資本は、他に転用できないか、転用できても高額の改造を要し、損失を最も小さくする方法、すなわち固定資本が摩耗するたびに更新しないことで調整するための時間も、めったに与えられない。さらに、資本の向け先を全面的に変えるには、既存の取引関係や、身に付いた技能と経験を捨てる犠牲があまりに大きいため、人々は決断が非常に遅く、成り行きの好転が望み薄になってからようやく動くことが多い。それでも、こうした事例は明らかに例外であり、こうした場合でさえ、最終的には均衡へ向かう。また、ある不均衡が正される前に別の不均衡要因が生じると、均衡への回帰がかなり長引くこともある。北米南部諸州の綿花生産では、製造面での改良が相次いだ結果、需要の増加が予想を大きく上回る速さで進み、供給が長年それに追い付かず、事実上の独占価格に支えられ続けたとされる。ただし、同じ方向に働くかく乱要因が、ほとんど間を置かずに次々と続くことは多くない。独占がなければ、利潤は一般水準を上回ったり下回ったりしながらも、つねにそこへ戻ろうとする。その動きは振り子の揺れに似ている。

利潤は人によって異なり、同じ人でも年によって変動するが、同じ時点かつ同じ地域に限ってみれば、業種ごとの平均利潤に大きな差が生じた状態が長く同時に続くことは、恒常的には多くない。大きな開きが出るのは短期間にとどまるか、特定の業界が長期にわたる大変動に見舞われた場合に限られる。独占の結果でもなく、綿花取引で見られたようなまれな偶発的事例でもないのに「この業界は特別にもうかる」と広く語られるなら、その印象は誤りである可能性が高い。情報と検証能力をもち、正確に精査する動機も強い人々がその見立てを共有すれば資本が流入し、利潤はほどなく一般水準まで下がるからである。もっとも、同じ元手でも大きな財産を築く機会が多い業種はあるが、その分、倒産や破綻も多く、大成功の見込みは全損となる確率の高さと表裏一体である。しかも、多くの場合、計算以上に「大当たり」への期待が参入と競争を呼び込み、平均ではむしろ不利になりやすい。したがって、巨利を狙える業種の平均的な稼ぎは、成長は遅くても比較的確実で暮らしの安定が見込める業種より低くなり得る。実際、カナダの木材取引は投資というよりくじ引きに近いとされ、参加者全体で見れば利益より損失が多く、平均利潤率は零を下回るという見方が広く受け入れられていた。こうした点は国民性にも左右され、冒険心、非難する意図で言えば射幸心の強弱が影響する。射幸心は米国が英国より強く、英国は大陸諸国より強いとされる一方、大陸の一部では傾向が逆で、安全で静かな分野は、より大きな利得をより大きな危険の代償として提示する分野より、投下資本に対する平均利潤が低い可能性がある。

競争が最も激しい国であっても、商業の利潤は競争だけで決まるのではなく、慣行もまた相当の影響力を持つ点は忘れてはならない。業種ごとに「利潤はこの程度が目安だ」という考え方が広まり、だれもが守るわけではなく、厳密に従う者もほとんどいないものの、取引の進め方には一定の影響が及ぶ。英国では、小売取引の利潤は五〇%が適正だという考え方が語られてきたが、これは総資本に対する五〇%ではなく、卸値に五〇%を上乗せするという意味であり、その中から貸倒れや店舗賃料、事務員や店員、各種代理人の賃金など、小売に伴う経費全般を賄う仕組みである。この慣行が普遍的に行き渡り、しかも厳格に守られるなら、競争が働いても消費者は少なくとも価格面では得をしにくくなる。小売に携わる側の利得が縮むとしても、その影響は値下げとしては表れにくく、取引がいっそう細分化する形で現れるにとどまる。欧州大陸の一部では、この基準が一〇〇%に達する地域もある。もっとも、少なくとも英国では競争の激化によって、こうした慣行は急速に崩れつつある。多くの業種、特に大商都では「少利多売」を掲げる商人が増え、高値で少数の取引を狙うよりも、低価格で大量の取引を重ねる動きが強まっている。資本の回転を速め、必要に応じて借入資本を加えることで、各商人は個々にはかえって高い利潤を得ることもあるが、同じ方針を取らない競争相手の利潤は必然的に押し下げられる。それでも、前章で述べたとおり、競争が小売価格に及ぼす影響力はなお限定的であり、土地と労働の総生産のうち、単なる流通業者の報酬に吸収される割合は依然として過大である。また、社会経済の仕組みの中で、遂行すべき仕事量に比べてこれほど不釣り合いに多くの人々を支える機能は、ほかに見当たらない。

これまでの議論によって、一般にいう「通常の利潤率」が何を意味するのか、また、いかなる意味において、どのような制約や限界のもとでこの通常利潤率が現実に存在するといえるのかを、十分に明らかにしてきたと思う。あとは、その大きさを決定する原因が何であるかを検討するだけである。

一般には、事業や商いの利潤は価格によって決まると思われがちである。生産者や商人、取引業者が、仕入れや製造に要した費用、つまり原価より高い価格で売ることで利潤を得ているように見えるため、利潤は結局、売買の結果にすぎないと考えられやすい。そこから、買い手がいるからこそ生産者は利潤を得られるという前提が立てられ、需要や顧客、商品の市場の存在こそが資本家の利得や収益の原因だという理解につながる。つまり、商品を売って資本を回収し、その総額をさらに増やしていくという見方である。

しかし、このような見方は、社会の経済の仕組みをうわべだけ追っているにすぎない。どのような場合でも、単に貨幣がだれかからだれかへ移ることそのものが、すべての経済現象の根本だとは言えない。生産者の営みをさらに詳しく見れば、商品と引き換えに受け取る貨幣は利益を生み出す原因ではなく、利益が彼に支払われる際の方法にすぎないことが分かる。

利潤が生まれるのは、労働が自己の生活を維持するのに必要な量を上回る産出を生み出すからである。農業資本が利潤を得るのも、作物を育てる期間に必要な食料に、道具の製作や各種の準備に要する時間を含めても、なおそれ以上の食料を生産できるためだ。その結果として、資本家が生産物を受け取ることを条件に労働者を養えば、前貸しした分を回収したうえで、なお一部が資本家の取り分として残る。言い換えれば、食料や衣服、原材料、道具は、それらを生産するのに要した時間よりも長く役に立つため、資本は利潤を生む。資本家がこれらを労働者に供給し、代わりに生産物のすべてを受け取るなら、労働者は必需品と道具の再生産に加えて、時間の一部を資本家のために働くことになる。したがって、利潤は交換そのものから生じるのではなく、労働の生産力から生じ、国全体の一般利潤は、売買が行われるかどうかにかかわらず、生産力が決める水準に落ち着く。職業の分業がなければ売買は生じないが、それでも利潤は生じうる。仮に国の労働者が全体として賃金を二〇パーセント上回る生産をするなら、利潤も二〇パーセントとなり、価格があろうとなかろうと左右されない。価格が偶然に変動すれば、ある生産者は一時的に二〇パーセントを上回り、別の生産者は下回ることがあるが、価格が調整されれば、結局、二〇パーセントが生産者全体に配分されるだけである。

以上手短に示した考察を踏まえ、以下では利益率がどのように決定されるのか、その決定の仕方をより詳細に示す。

以下では、労働者と資本家が別々の階級として存在する社会が、少数の例外を除けば世界の多くの地域に普遍的に見られるという前提に立ち、資本家が必要経費の全額を前払いし、その中に労働者の報酬の全額も含まれるものとして議論を進める。ただし、資本家が賃金を全額立て替えることが制度上必ず求められるわけではない。労働者は、生産が完了するまで生活必需品を超える分の賃金の受け取りを先延ばしにすることもできるし、当面の生活を支える資金が手元にあるなら賃金の全額の受け取りを待つこともできる。後者の場合、労働者はその分だけ事業の運転資金の一部を供給することになり、実質的には資本家としてその事業に資本を投じ、資本家の役割の一部を担うことになる。さらに、生活必需品を超える分だけを待つ場合でも、市場価格より低い対価で働く以上、その差額は雇用主への貸付に等しく、事業の収益から利子(その算定原理は何であれ)を付して返済を受ける関係として捉えられる。

資本家は、生産に必要な支出をすべて前もって支払い、その結果として完成した生産物をすべて受け取るものとみなせる。利潤とは、生産物の価値が前払いした総額を上回る分であり、利潤率とは、その上回り分が前払い総額に対して占める割合である。では、この前払いは何から成り立っているのだろうか。

当面は、資本家が地代をまったく支払わず、専有された自然的要因の利用についても何も購入しなくてよいものと仮定して議論を進める必要がある。しかし、この仮定は現実にはほとんど正確には当てはまらない。農業では、耕作地を自ら所有している場合を除けば、資本家は常に、またはほぼ常に地代を支払っている。製造業でも(宅地地代は別としても)、原材料は生産過程のどこかの段階で、一般に地代負担を含むかたちで供給される。もっとも、地代の性質についてはまだ検討していないが、のちに示すとおり、いま検討している問いに関しては、地代を度外視しても実務上の誤りは生じない。

地代の問題はひとまず脇に置き、資本家が生産のためにあらかじめ前貸しする資金が何から成り立つのかを問えば、それが労働者に支払う賃金から成り立つことが分かる。

資本家の支出の多くは労働者への賃金の直接の支払いから成り、賃金以外の支出は建物を含む材料や道具類である。しかし、材料や道具類もすべて労働によって生み出される。ここで想定する資本家は特定の業種の例ではなく、国全体の生産を代表する典型であるため、資本家が自ら道具を作り、自ら材料を生産すると考えれば、そのために前もって投じる資金も結局はすべて賃金として支出されることになる。たとえ材料や道具を市場で購入するとしても、資本家がするのは、先にそれらを生産した側が労働者に支払った賃金を、その生産者に返済することにすぎず、結論は変わらない。購入代金に利潤が含まれるとしても、自ら生産していればその利潤は自分の取り分になっていたはずである。したがって、材料や道具から完成品に至る生産の全過程で前払いされるものは賃金にほかならず、例外があるとしても、全体の都合や便宜によって一部の資本家が作業の完了前に利潤分を受け取るという点にとどまる。最終的な産出物のうち利潤に当たらない部分は、賃金の返済である。

以上を踏まえると、資本家の利得を左右する要素は二つだけに整理できる。第一は生産物の量であり、労働の生産力と言い換えられる。第二は生産物のうち労働者自身が受け取る割合であり、労働者の報酬が自分の生産量に対して占める比率である。この二点は国内のすべての資本家に利潤として分配される総額を定めるための基礎となるが、利潤率、すなわち投下資本に対する百分率を決めるのは二つの要素のうち第二だけであり、分配される利潤総額の多い少ないには左右されない。たとえば生産物が二倍になり、労働者が以前と同じ割合を受け取る、すなわち報酬も二倍になれば、資本家の利得も二倍になるが、同時に前貸しする資本も二倍になるため、利潤率は以前と変わらない。

こうしてリカードらは、利潤率は賃金に左右され、賃金が下がれば利潤が上がり、賃金が上がれば利潤が下がるという結論に至った。ただし、この学説を採るのであれば、その表現は改める必要がある。利潤は賃金に依存すると言うのではなく、リカードの趣旨に従えば、利潤は労働に要する費用に依存すると述べるべきである。

賃金は労働者が受け取る額であり、労働費用は資本家が負担する額であって、両者は別の概念としてはっきり区別して考える必要がある。その区別を保つには、賃金と労働費用を同じ呼び名で語る慣行を避けることが重要である。公の議論では、口頭でも印刷物でも、賃金が受け手ではなく支払い手の立場から語られやすく、「賃金が高い、低い」と言いながら、実際には労働費用の高低だけを指している例が多い。しかし、むしろ逆であることが多く、労働費用が最も高いのは賃金が最も低いところであることが少なくない。これは二つの理由によって起こりうる。第一に、賃金が安くても労働の能率が低い場合がある。ヨーロッパでも賃金がこれほど低い国は多くなく、少なくとも当時は西部アイルランドの農業労働者の報酬が、イングランドで最も低賃金とされたドーセットシャーの労働者の賃金の半分にも満たなかった。しかし、技能や勤勉さの劣りによって、アイルランド人の二日分の労働がイングランド人の一日分と同じだけの仕事しか成し遂げないのであれば、アイルランド人の労働はイングランド人と同じだけ資本家に費用がかかる一方で、アイルランド人自身の取り分はそれだけ少なくなる。資本家の利潤を左右するのはこの前者であって、後者ではない。この程度の能率差が実際に存在したことは、多くの証言によってだけでなく、賃金が低いにもかかわらず、アイルランドの資本利潤はイングランドより高かったとは一般に理解されていないという事実からも裏づけられる。

賃金と労働費用が互いに実質的な基準になりにくいもう一つの理由は、労働者が日々消費する品目の価格が一定ではなく、国や時期、地域によって変動することにある。生活必需品や消費財が安ければ、労働者にとって重要な意味での実質賃金は高くなりうる一方で、雇い手が負担する労働費用は低いままにとどまりうるが、必需品や消費財が高ければ、労働が雇い手にとって高くついていても労働者はひどく困窮し、苦しい生活に追い込まれかねない。この後者の状態は、土地に比して人口が過剰な国で起きやすく、食料が高いために労働者の実質的な報酬が乏しくても、労働は購入者にとって高くつき、低賃金と低利潤が同時に成り立ちやすい。これと対照的な例がアメリカ合衆国で、同国の労働者は、新しく開かれた植民地の一部を除けば、世界のどの国よりも多くの生活上の快適さを享受しているが、その快適さを安価に得られること(加えて労働の効率が高いこと)によって、雇い手にとっての労働費用は少なくともヨーロッパより高くならず、利潤率もヨーロッパより低くはならない。

労働にかかる費用は、数学の言葉でいえば三つの変数の関数である。つまり、労働の能率、労働者の実質賃金、そしてその実質賃金を構成する財を生産または調達する費用の高低である。資本家にとっての労働費用はこの三点にのみ左右され、ほかの要因は直接には影響しない。したがって利潤率も同じ三点で決まり、いずれかを通じないかぎり変動しない。もし労働の能率が一般に上がっても実質賃金が上がらないなら、能率が下がらないまま実質賃金が下がり、しかもそれを構成する財の費用が上がらないなら、また、労働者が受け取る財の量が増えないままそれらの財が安くなるなら、いずれの場合も利潤は増える。反対に、国民の体力低下や固定資本の損傷、教育水準の低下などによって能率が下がるなら、実質賃金が上がってもそれを構成する財が安くならないなら、また、労働者が受け取る財の量が増えないままそれらの財が高くなるなら、いずれの場合も利潤は減る。国全体の一般的な利潤率が産業を問わず上下するのは、この三要素の変化の組み合わせによる場合に限られ、ほかの事情だけでは説明できない。

これらの命題を裏づける根拠については、本論の現段階では一般的に述べるほかないが、願わくは決定的に示しうるであろう。価値と価格の理論をあわせて検討し、利潤の法則が現実にそれが作用している複雑に絡み合った諸事情のなかでどのように働くかを具体的に示せるようになれば、議論はさらに詳しくなり、いっそう力強く説得力のある形で明らかになるはずである。これは次巻で扱うほかない。本巻においてなお論じるべき主題が一つ残っている。それは、価値の考察とは独立に取り扱いうるかぎりでの地代であり、以下これに移る。

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