シーン1-side him- そのとき 音は消えた
目線を上げるとあいつがいた。
いつもとはまとう空気がまったく違う。何かわからないが、気づいたら俺は立ち上がって走り出していた。
顔を見るなり、弾かれたように涙があふれだしていた。
思わず胸にたぐりよせる。
大きく上下する肩。泣いている。
声を出さないように必死にこらえながら、時にしゃくりあげるように背中がはね上がっている。
一体何があったのかはわからない。ひとつ言えるのは、こいつは今とてつもなく深い悲しみか絶望かーそれすら俺にはわからないー大きな黒いうずに巻きこまれている。
かけてやれる言葉なんて、何を選んだところでうつろに響くだけだ。何もわからないくせに耳障りがいいだけの言葉なんて、俺は吐きたくない。吐かれたくもない。
こいつだってそんなしらじらしい言葉なんて、いらないだろう。聞きたくないだろう。
俺は抱きとめている腕に静かに力をこめた。
こいつの気のすむまで、こうしているほかない。
俺にはほかにできることがない。
まだ時折はね上がるその背中に静かに目をやり、何ができるかを探していた。やはりどれだけ探しても、今こうしていることのほかには、俺には見つけられそうもなかった。
はげしく波打っていた肩が少し息をとりもどして、静かになってきた。
今こいつは一体どんな悲しみをその目にたたえているんだろう。
ゆっくりとその顔をのぞきこんだ瞬間、くちびるはほおに引きよせられていた。
まだ冷たい涙のあとをたどって、こいつの抱え込んだ苦しさを追いかけようとした。
俺が・・・。
びくりと小さく硬くなった背中に、手のひらを置いた。ゆっくりと。その硬さが遠ざかるのを確かめながら、ふるえるような揺らぎが静けさを取りもどすのを見つめていた。
そしてそのままくちびるにふれた。もう、考えていることは宙にういていた。
はっ、俺が・・・?
頭の遠いところで、どこかおどろくような、あざけるような自分の声を聞いた気がした。そして、俺は認めることにした。
そうだ、俺が。
こいつの苦しみを悲しみを、その重りを、ひとりで抱えさせるようなことはしない。そういう自分に気づいたその時、ほおにあたたかいものがふれた。
目が合う。
やわらかくときほどかれたような色をうかべる瞳を見つめた。口元からほろりとこぼれるように笑みがともった。はにかむようにして俺の胸に顔をうずめる。もう、重苦しい黒いものは感じなかった。
髪にそっとふれてから、これ以上ないほどにゆっくりと手のひらを伝わせる。ほおに手を添えた。指先に少しだけ声を通すように。俺は思う。顔をあげてくれ。
目が合う。
さっきまでのしかかっていた悲しみの影は消え去り、たがいに陽の光のように笑いあった。雲間にさす光はこんなにもまぶしかったのかと、そう初めて知るような、そんな笑顔だった。
これは、「シーン1 -side her- ほどけて そして」と対をなす描写になります。
彼の視点から同じ場面を描いています。
順番としては彼女視点から先に書きましたが、どちらから読んでいただいてもいいかな、と思います。
よろしければ、彼女の視点から描いたもうひとつの物語もあわせてご覧いただけるとうれしいです。
▶「シーン1 -side her- ほどけて そして」
