令和阿房列車論~その37『時刻表昭和史【完全版】』(7)急行601列車信越本線経由大阪行
前回のおさらい
各章ごとに書評をしていく記事ですが、ついに一年以上空いてしまいました。
相変わらず読書の習慣がほとんどないのが痛いです。
第7章 急行601列車信越本線経由大阪行〜昭和16年
より戦時色が濃くなった時代
昭和十四年に中学一年生になった宮脇俊三が中学校で軍事教練を受ける場面からこの章が始まっていることからわかるように、この頃から戦時色が濃くなったとわかります。
こと鉄道においても体制が「国策輸送型」に変わっていき行楽輸送が削減する一方軍事に関する輸送力が増強されました。
その中で当時中学三年生の宮脇俊三少年は、父の宮脇長吉と共に黒部峡谷に向かって旅行したことがこの章に書かれています。
そのエピソードには、旅行の荷物に当時配給制になっていた米を持参して旅館に提供しなければならないとか旅先の土産物店に甘いものが少なくなっていたことがありました。
昭和16年について
この章はページ数が多く、あらためて巻末の年表を見てみました。
6月 独ソ開戦
8月 「不急不要」の旅行を禁止されたが、父と2泊
3日で黒部峡谷へ(上野発午後9時00分急行
信越本線経由大阪行)。翌日、待望の黒部峡
谷軽便鉄道2乗車
11月末 次兄が肺結核で死去
12月 太平洋戦争勃発
その二年前の昭和十四年に旧制成蹊高校尋常科(中学)に進学とありますが、この旧制成蹊高校は現在の成蹊大学のことでしょうか。
私の中学生時代(昭和54年〜昭和57年)
この当時の私(a-ki阿房列車)についてですが、昭和54年当時、小学校六年生から中学校一年生の私にとって特殊な一年でした。
父親の転勤で約4年住んだ根室から札幌に転居したのですが、その時期が3月上旬という最悪のタイミング…というのも私の小学校卒業をあと数週間という時期だったのです。
約4年もいればそれなりに友達も出来てはいたので卒業式を一緒に迎えることが出来なかったことが子供ながらに悔しさを感じました。
根室を離れる日、私達家族が根室駅を出発する釧路行きの急行列車を待つ間、たくさんの見送りの人達が来ていました。特に私や弟のクラスメイトが多く来ていました。さらに、私のクラスメイト一人と担任の先生が所用で同じ急行列車に乗ることもあって一部の女子と男子のほとんどが来てくれました。
根室を出発した急行列車の車内で過ごした約2時間半の間、担任の先生とクラスメイトとたくさん話をしましたが、そのクラスメイトとは数か月後に同じ学習塾で会うとは当時思いもしませんでした。
そして、転居先の小学校では卒業式までわずか一週間しか過ごしませんでした。
それから昭和54年4月に札幌市立伏見中学校に進学したのですが、この頃に入部したエレクトロニクスモデル研究部の鉄道模型班でNゲージに本格的に触れたことを除けばあまりよい思い出はありません。
中学一年生になった放送委員でアナウンサー担当だったことがきっかけで放送局のアナウンサーになりたいと思い始めたことを除けば、二年のクラス替えから卒業までの担任に虐められていたりクラスになじめなかったこともあってひねくれた性格はこの頃に形成されたのかもしれません。
時代や環境は違えど、私も宮脇先生も年齢を重ねるにつれて鉄道に対する造詣はよりいっそう深まっていくのでした。
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