花屋とネジ屋
連載小説『一灯庵』42
あのパーティーから、十日が過ぎていた。
杉本生花店の電話が鳴ったのは、その翌々日のことだ。
「轟木産業の秘書室、加藤と申します。先日は創立記念パーティーで見事な花を生けていただき、ありがとうございました。弊社の轟木も大変感激しておりまして、ぜひ直接お礼を申し上げたいと申しております。ご多忙とは存じますが、お時間をいただけないでしょうか」
受話器を耳に当てた小春が、源三に目配せした。源三は無言で首を横に振る。
「あいにく父は今、手が離せませんので。また折り返しご連絡いたします」
電話を切った小春が「またやってる」とため息をついた。源三はバケツの水を換えながら、知らん顔を決め込んでいた。
三日後、再び電話が鳴った。
「轟木です。先日は秘書の加藤が失礼いたしました。お忙しいところ恐縮ですが……」
今度は源三が自ら受話器を取った。
「花屋が受け取るのは花代だけで十分です。お気持ちだけいただきます」
それだけ言って、一方的に切った。
小春が呆れたように口を開く。
「父さん、あの方、轟木産業の会長さんよ。大きな会社よ」
「花屋に肩書きは関係ねえ」
源三は短く返した。
さらに三日後のことだ。
朝の仕入れから戻った源三は、店の前に佇む人影に気づいた。
七十がらみの男だった。頑丈そうな体つきに、短く刈り込まれた角刈り。節くれ立った大きな手。一見するとどこかの職人のようだが、その佇まいには隠しきれない重みがあった。
「杉本さんですか」
「そうだが」
「轟木です」
源三は足を止めた。男は静かに続けた。
「電話じゃ埒が明かないと思いましてね。失礼を承知で直接参りました」
源三は黙って男を観察した。源三には人間を見る時、まず手を見る癖がある。轟木の手には、爪の間にまで機械油の染みが深く刻まれていた。
「……上がりますか」
源三の言葉に、男の目元がわずかに緩んだ。
店の奥に通すと、小春が慌てて茶を運んできた。
轟木は、バケツの中で出番を待つ仕入れたばかりの花々をゆっくりと見渡した。
「……きれいだ」
「今朝、青梅の市場で仕入れてきたばかりだ。目利きは自分でする。市場の相場より、花の顔を見る」
轟木はしばらく沈黙した後、噛み締めるように言った。
「うちも同じです」
「ネジが、ですか」
「ええ。同じ規格のネジでも、一本一本、精度が違う。数字だけを追っていては、本物は掴めない」
源三はちらりと轟木の手を見た。
「あんた、今でも現場に出るのか」
「毎朝。現場を離れたら、私の仕事は終わりだと思っていますから」
「手に、油が残ってるな」
「今朝も機械の調子が気になりましてね。つい、触ってしまいました」
花の話とネジの話が、不思議なほど重なり合っていく。
「花は一本一本、顔が違う」と源三が言えば、「ネジも一本一本、癖があります」と轟木が応じる。
「機械で作ってもか」
「ええ。だから最後は目で確かめ、手で触れる。人間の感覚に勝るものはありません」
源三はバケツから一輪の菊を抜き取った。
「これが今日、一番いい顔をしている。理屈じゃねえ、そうとしか言いようがないんだ」
「その『わからない』という感覚こそが、一番の信頼に値するのでしょうね」
轟木の言葉に、源三は先ほどとは違う眼差しを向けた。
「それで」と源三が切り出した。「まだ私を食事に誘うつもりですか」
「もちろんです」
「しつこい人だ」
「よく言われます」と轟木は苦笑した。「ですが、どうしてもお伝えしたかった。あのパーティーの花を見た瞬間、私の故郷が見えたんです。富山、高岡の工場の裏に生えていた古木と、その足元に咲いていた野の花が。お礼もさることながら、あなたがどうやってあの景色に辿り着いたのか、それを伺いたかった」
源三は黙って茶を啜った。小春がそっとお代わりを置いていく。
「高岡……金属の町だな」
「ええ。銅器の産地で、古くから金属と向き合ってきた土地です。私はそこで育ち、ネジと向き合うようになった」
源三はしばらく考え込み、やがて顔を上げた。
「食事はいい」と源三が言った。
轟木が少し眉を上げた。
「でも」と源三が続けた。「いい店を知っている。飯より酒の店だが、よければ案内するよ」
轟木が少し驚いたように源三を見た。それから静かに笑った。
「ありがとうございます」
「礼はいい」と源三が言った。「ただ、あんたに花を一本受け取ってもらいたい」
「私にですか」
「今日一番いい顔をしている菊だ。工場に飾りってくれ」
轟木が両手で受け取った。
小春が厨房の奥から覗いていた。父親がこんな顔をするのを、久しぶりに見た気がした。
その夜、源三と轟木が一灯庵の暖簾をくぐった。
「いらっしゃいませ」と弘子が迎えた。源三の隣の人物を見て、少し目を見開いた。
「弘子さん、知り合いです」と源三が言った。それだけだった。
カウンターには、トクさんとおシゲさんがいた。
おシゲさんが轟木をじろりと見た。
「源さん、珍しいべさ。人を連れてくるなんて」
「たまにはいい」と源三が言った。
轟木がカウンターに腰を落ち着けた。店の中をゆっくりと見回した。白木のカウンター、控えめな行灯、厨房から漏れてくる包丁の音。
「いい店ですね」と轟木がぽつりと言った。お世辞ではなく、本心がそのまま出たような言い方だった。
弘子が微笑んだ。
晴翔が突き出しを運んできた。
「今夜の蕪は糖度が高い」と晴翔が真顔で言った。「12度です。秋が深まったからです」
轟木がしばらく晴翔を見た。それから蕪を一口食べた。
「甘い」と静かに言った。
「12度だからです」と晴翔が言って、厨房に戻っていった。
轟木が源三を見た。源三が「ああいう男です」と言った。
轟木が小さく笑った。
「花の顔を見る人間と、数字で語る人間が、同じ店にいるんですね」
「ここはそういう店です」と弘子が静かに言った。
轟木が燗酒を一口すすった。
一灯庵の夜は、ゆっくりと始まっていった。
