「“できる”に変わる瞬間——知育について、父として考えること」
子どもたちの教育について考える時間が増えた。
「知育」と聞くと、早いうちから文字や数に触れさせる、いわゆる“先取り学習”を思い浮かべがちだけれど、本当に大切なのはそこじゃないんじゃないか。最近、そんなことを考える。
僕が思う知育の目的は、「正しく考える力」を育てること。
いわゆる論理的思考というやつだ。何となく感覚で動くのではなく、筋道を立てて物事を捉える力。それって、大人になっても必要なことだと思う。
たとえば、なにか問題が起きたとき。
ただ「誰が悪い」と決めつけるのではなく、原因を探し、どうすれば防げたかを考える——このプロセスができる子に育ってくれたら、きっと将来、自分で道を切り開けるはずだ。
もう少し広げて考えると、「文系」と「理系」の違いにも思いが及ぶ。
あくまで僕の感覚だけど、文系は“どれだけ知っているか”が評価される世界で、理系は“知っていてもできなければ意味がない”世界だと思っている。
文系的な学びは、知識が豊富だったり語彙が多かったりすれば、それなりに通用する。でも理系的な世界では、結果がすべて。解けなければ、知らないのと同じ。そこがシビアだけど、ある意味フェアでもある。
このあたりから、最近は「知行合一(ちこうごういつ)」という言葉がしっくりくるようになった。
知っているだけじゃダメで、実際にやってみてこそ意味がある。
頭で理解していても、実行に移せなければ本当の意味では“知っている”ことにならない——これは、自戒も込めて感じている。
よく「知識は力だ」と言われるけど、僕はそれはちょっと違うと思っている。
知識って、パソコンで言えば「ソフトウェア」みたいなもの。
どれだけ高機能なソフトを入れていても、それを使いこなす人間の“考え方”や“判断力”が伴わなければ、宝の持ち腐れになる。
また、リベラル教育の中で中心的に扱われる「哲学」も、僕にとって大きなヒントをくれた。
哲学って、正しさがはっきりしない世界。
「これが答えだ」と決められないところが難しくて、でも面白い。
すぐに答えが出ない問いと向き合うことが、人間らしい思考のトレーニングになるのだと、最近は感じている。
こういう話をすると、つい正解を押し付けてしまいそうになるけれど、これはあくまで僕自身が考えていること。
子どもたちが「たくさんのことを知っている」だけじゃなくて、それを考え、判断し、行動できる人に育ってくれたらいいなという、ささやかな願いでもある。
親として何ができるか、正直、まだまだ模索中です。
でも、ただ知識を詰め込むだけじゃなくて、「考えるって面白いね」と一緒に感じながら育っていけたら、それでいいんじゃないかと、今は思っています。
もしもこの考えに少しでも共感してもらえたなら、うれしいです。
そして、子どもたちと一緒に“知っている”を“できる”に変えていく時間を、これからも大切にしていきたい——そう、感じています。
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