見出し画像

遥かなるアニメーターへの道

今日でアニメーターになって46年たちました。当時の定番、東京デザイナー学院ルートでなく、名古屋の高校生がどんな経緯でアニメーターになったか?実は46年前、ある人の紹介で業界入りしました。アニメーターに導いてくれたその恩人はベテランアニメーターのK村さんという作監です。出会いは1977年まで遡ります。

恩人との出会い

K村さんと初めてお会いしたのは高2の夏でした。三越名古屋店はその頃、オリエンタル中村というデパートだったのです。そこで「夏休み子供アニメ教室」ってイベントやってました。講師は『キャンディキャンディ』の作監ということで、友人のM田と見に行きました。いい年なのでアニメ教室を遠目に見て、休憩時間に講師の方を伺いました。その講師がK村さんでした。名前はTVアニメで知ってました。1965年に200人中4人という東映動画の狭き門を突破して入社し『わんぱく王子』の動画がデビュー作のベテランです。その後、木村班で劇場用『009』から原画担当になり、以降は東映動画作品、サンライズ作品などで原画や作監で参加されてました。

『サイボーグ009』(1966)

アニメーターになりたい

そんな大ベテランに「こういう仕事に興味ある?」と聞かれ「あります」と答えました。「そうかあ、僕、育てたいんだよなあ。じゃあ、明日はまだ名古屋にいるから絵見せて。ラクガキでもいいから。描きためたのあるでしょ」ということで、突然アニメーターへの門が見えてきて、この瞬間アニメーター志望になりました。アニメーターになりたくて活動していたわけでもなく、降って湧いたんです。

高校卒業したら東京においで

そもそもアニメーターという職には疎かったです。高校生なので巧いアニメーターの名前は大勢知ってましたが、雲の上の存在というか。高校の友達が「アニメーターになりたい」ってのを聞いても、現実味を感じませんでした。まったく遠い世界でまるで接点もないし、なれるものだとは思ってもいませんでした。それよりは吉本に入りたかったんですよ、その頃は。でも、なれるもんならなりたい。絵を描くのも好きでだし、映画も好きだし、アニメも好き。それが仕事にできるなら凄いことだと。ダメモトで絵を見てもらおう!描きためた絵なんかないですから、その日は徹夜でラクガキをいっぱい描きました。デッサンぽいものや、アニメの模写などをラクガキ帳に描きました。翌日はM田と絵を持って会いに行きました。プロに絵を見せるなんて恥ずかしくてドキドキです。二人とも「始めるなら早い方がいい。高校卒業したら東京においで」と言われました。門は開かれました。もちろん、親は反対しました。今度はオレとM田がそれぞれオカン同伴で東京に会いに行くことになりました。

東京で面談

待ち合わせ場所はひばりヶ丘ボウル。ロビーに到着すると支配人らしき人が「K村さんはこちらです」と案内されました。K村さんはゲーム中でした。K村さんの輝かしい戦績も展示されていました。K村さんはセミプロのボウラーでもあったのです。K村さんに会うには家よりもひばりヶ丘ボウルだし、連絡をとるにもひばりヶ丘ボウルでした。アニメ業界では、ボウラーとして知られていたようです。その後K村さんのお宅へお邪魔すると、奥さんと娘さんがいらっしゃいました。決して広くはないアパートには、ボウリングの大会で獲た景品やトロフィーがズラリ。二人の親は不信感が募りましたが、K村さんの熱心な説得と自信に、半信半疑のまま「よろしく」みたいな方向になりました。大学進学のために通っていた河合塾も退学し、高校卒業までの1年余り、デッサンにいそしむことになりました。

別の選択肢

アニメーターになるにしても、親は心配だったようで、専門学校はどうか?ということになりました。そこで、翌年からアニメーション学科が新設されるという東京デザイナー学院名古屋校にオカン同伴で面談に行きました。M田とオカンも一緒です。面談に応じた東デの先生はグラフィックデザイン科の講師で「アニメーターでは食えないから、アニメ科でなくグラフィックデザイン科を選びなさい」ってことでした。それじゃ意味ねえし、K村さんの「東デに行くより、すぐ始めた方がいい。僕に任せて」というアドバイスに従うことにしました。東デは却下です。結局、アニメーターを3ヶ月やってみて、向いてなかったら名古屋に戻るって条件でOKになりました。

東映動画へ

1978年の東映動画スタジオ

1978年の夏休み、再び東京へ行きました。憧れの東映動画では当時アニメーターの募集はしてませんでしたが、K村さんが見学してきなって勧めてくれたからです。「いきなり行っちゃっていいから総務部を訪ねなさい」とのことでした。東映動画の総務部へ行くと「今日は見学日じゃないから水曜日に来てね」と断られちゃいました。そりゃそうだよなあ。でもK村さんの名前を出したら「まあ、栄ちゃんの紹介だったの!」てことで特別に案内してくれることになりました。見学日のみ観られる試写室を除いてひととおり案内していただきました。「栄ちゃんの紹介で名古屋から来た高校生よ」と紹介されると、EDで見かける社内班のみなさん歓迎してくれました。写真やサインをいただきました。芹川さんも仕事の手を止めて貴重なメイキング話しを聞かせてくれました。名前出すだけでこんなにも歓迎されて、K村さんすごーい!って思いました。

アーツプロ

K村さんに弟子入りするということは、どこで修行するんでしょう?ひばりヶ丘ボウルでしょうか。K村さんも「育てたい」って言ってましたが、フリーの身。高校卒業を控え、卒業生名簿に就職先を記載しなければならないので、電話で聞きました。そしたら「アーツプロって書いといて」と言われました。アーツプロはアニメの音響プロダクションです。アーツプロ内にK村さんの仕切りで作画部を設けるってことでしょうか。だから高校の卒業生名簿には就職先がアーツプロになってます。なので同級生たちには劇団に入る
と思われてました。

連絡を待つ

年が明け、1979年。高校は卒業しました。あとはお呼びがかかるのを待つだけです。でも、4月になってもK村さんから連絡はなく、名古屋でずっと待つ日々。上京したことになってますから、友達に見つかると気まずい。でも地下街とかうろついてると見つかったりして、「東京の劇団に入ったんじゃなかったの?」って驚かれました。映画館でも後ろの席にたまたま友達がいて上京してないのがバレてしまいました。

スタジオエイト

しかし、5月8日にK村さんから連絡があり、見捨てられたんではないことがわかってホッとしました。「アーツプロではなくスタジオエイトになった」とのことで、どんな事情でそうなったかは知りませんが、びっくりしました。ただし、スタジオは工事してるからもう少し待つように言われました。上村さんは自分で育てるつもりだったんでしょうが、それができなくなり、エイトにブッキングしてくれたんだと思います。アパートも手配してくれてました。

1979年5月


いいなと思ったら応援しよう!