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『顔を捨てた男』見える“障害”より、見えない卑屈が、こわい。

どうも、安部スナヲです。

ティザー映像を観たときは、「これって『エレファント・マン』をダーク・コメディにした感じ?」みたいな印象を受けました。

本作はモノクロではないけれど、16㎜フィルム特有のざらっとした質感が、時代をぼかしつつ、障がい者差別という主題に普遍性を与えています。

ちなみに、特殊メイクを手がけたマイク・マリノが、人生で初めて観た映画が『エレファント・マン』。まあ、そうじゃなくても「そりゃ避けて通れないわな…」という影響力を、あらためて、あの映画には感じます。

で、驚いたのが、オズワルド役のアダム・ピアソンが、特殊メイクではなく素顔で出演していたこと。

さらにもうひとつハッとさせられたのが、パンフレットでは「障がい」ではなく「障害者」と表記されていたことでした。

“障害”とは個人の問題ではなく、社会が生み出すもの…その視点に立った表記とのことで、正直、そんな使い分けがあることすら知りませんでした。

なるほど、オレってそういうこと、なにも知らないんだな…と、軽く反省しつつ、映画は映画として、楽しんできました。

【あらましのあらすじ】

病によって顔が大きく変形した、俳優志望の男エドワード(セバスチャン・スタン)。

ニューヨークのアパートに暮らす彼は、隣に住む劇作家の女性イングリッド(レナーテ・レインスヴェ)と、ささやかな交流を持つようになる。

何気ないやりとりを重ねるうち、次第に親密になっていく2人。エドワードは密かにイングリッドに想いを寄せるが、それを表に出せるはずもなかった。

そんな中、エドワードは新薬による実験的な治療を受け、見違えるほど整った顔を手に入れる。

“ガイ”という新たな名前を名乗り、別人としてアグレッシブな人生を歩み始めた彼の前に、かつての自分の「顔」とそっくりな男、オズワルド(アダム・ピアソン)があらわれ……。

出典:映画.com

【感想】

哲学的な問いを投げかけてくるくせに、答えは出さない。というか、「出させない」。

なんとも、こねくり回した映画である。

けれど、この“こねくり具合”にこそ、映画の面白さ、快楽、カタルシスが充溢している。

前半のおよそ1時間は、顔に凸凹の腫瘍を持つエドワードが、障がい者として微妙な憂き目を抱えつつも、静かに暮らす様子が描かれる。

それは意外にも平凡で、というと語弊があるが、たとえば『エレファント・マン』のように苛烈な差別にさらされるわけではない。

差別意識について、この映画は“社員教育ビデオ”(エドワードが役者として出演する)の体裁で、まず、ある種の「定義」を示してくる。

要旨はこうだ。

「異形なものに反応してしまうのは本能なので、しかたがない。だが、それは“慣れ”によって解消できる。そこから次のステップとして“調和”を図るのが、ビジネスマンのあるべき姿」。みたいなところ。

しかし、そんなおあつらえ向きの良識とは別に、エドワードが暮らすニューヨークのダウンタウンは非常にガラがよろしくなく、地下鉄も街もアパートも、それこそ“異形”の連中で溢れていたりする。だが、そこには露骨な差別意識や悪意のようなものは、感じられなかったりもする。

そこへ、イングリッドがあらわれる。

出典:映画.com

彼女はエドワードの顔を見て、一瞬ギョッとのけ反るが、劇中の表現を借りれば、これは「本能による反射反応」であって、悪意ではない。

むしろ彼女はフツウの人よりもフラットに、エドワードと接する。社会性や良識とは関係なく、彼に対してフツウの親愛を抱く。その接し方には同情的ニュアンスさえなく、見ていてとても清々しい。

出典:映画.com

エドワード本人も、消極的で引っ込み思案ではあるが、これまでの人生で辛い思いをしてきたことを思えば、致し方ない…と、こちらも“おあつらえ向きに”腑に落としてしまう。

で、こねくり回されるのは、オズワルドがあらわれてからだ。

彼が演劇の稽古場にあらわれた時、そしてそのファーストインパクトを抱いたまま、ガイ(元エドワード)が、仲間たちとバーで飲んでいる最中に再会した時。

どちらのシーンでも、ほんの一瞬のなかに「え、今のなに?」という静かな揺らぎのような衝撃が走る。

軽い挨拶から自然に流れるその口上は、言語明瞭で、デリカシーをわきまえつつ、ウィットに富んでいる。なんだかよくわからないけど、ポジティブな空気を残し、サッと去っていく。

イヤミのなさが、逆にイヤミに思えるほど粋で、いなせなのだ。

あの瞬間、映画で得られるカタルシスに新風が吹いたような、爽快な気分になった。

「自己肯定感」とよく言われるが、オズワルドにはそんなものは必要ない。あえてその言葉を彼に当てはめるなら、「自己肯定“力”」だ。

「感」などあろうがなかろうが、彼は自己を肯定する圧倒的な“力”を持っている。

ああなってしまえば、もはやハンディキャップだのコンプレックスだのは関係ない。

出典:映画.com

一方、念願のイケメン「ガイ」となって人生を再スタートしたエドワードは、彼の根源的な卑屈さが、かつての顔を捨てた以前よりも肥大していき、それに絡め取られていく。

出典:映画.com

かつての自分をモデルにした演劇で、「これこそ自分が演じるべき役だ」との意気込みは、やがて欺瞞と倒錯へと反転し、本来、自分が手に入れるはずだった人生の“オイシイところ”は、すべてオズワルドに持っていかれてしまう。

しかも、オズワルドという人は徹頭徹尾、善人なのだから、余計に始末が悪い。

なぜならオズワルドには、他者からなにかを奪おうという野心や邪心が、1ミクロンも存在しないからだ。

そこが、この映画の「こねくりの妙」。

エドワードは顔を変えることによって“可能性”を得たはずだった。なのに、なぜだかどんどん不自由になっていく。

一方、オズワルドは、社会にどんな圧力や悪意やしがらみが渦巻いていようが、微動だにせず、その顔のまま、朗らかに笑いかける。

結論。

人生を妨げるのは、ハンディキャップではなく、卑屈さである。猛省!

出典:映画.com


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