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東南アジアのパールシー──成功した共同体は、なぜ消えたのか

ディアスポラと国家シリーズ.Ⅴ


忘れられた帝国のエリート

「パールシー」という民族をご存じだろうか。

世界的ロックバンド、Queenのボーカル、フレディ・マーキュリーは、パールシーの家系に生まれた。映画『ボヘミアン・ラプソディ』で初めてその事実を知った人も多いだろう。しかし、そのルーツであるパールシーについてとなると、詳しく知る人はほとんどいないのではないだろうか。

実は19世紀から20世紀初頭にかけて、彼らはイギリス帝国を代表するエリート共同体の一つだった。

もともとパールシーは、ペルシアで生まれたゾロアスター教を信仰する人々である。イスラーム化が進むペルシアを離れ、インド西部へ移住した彼らは、ボンベイを拠点に商業や工業、金融、法律、医学など幅広い分野で活躍した。

その活躍はインドだけにとどまらない。イギリス帝国がインド洋交易圏を広げると、パールシー商人や専門職たちはボンベイからカルカッタ、シンガポール、ペナン、ヤンゴン、香港へと進出し、各地の港町で都市の形成を支える重要な存在となっていった。

この点で彼らは、本シリーズで取り上げてきたバグダード系ユダヤ人やアルメニア人とよく似たディアスポラ共同体である。いずれも自前の国家を持たず、海を越える人的ネットワークを生かしながら、イギリス帝国の港町を舞台に活躍した。

シンガポールにも、ペナンにも、ヤンゴンにも、かつてはパールシー共同体が存在した。しかし現在では、その存在はほとんど忘れられてしまっている。それにもかかわらず、彼らは植民地時代の東南アジアにおいて都市の形成を支えた重要な共同体の一つだった。では、彼らはこの三つの港町に何を残したのだろうか。

フレディ・マーキュリーはザンジバル生まれのパールシーだった。19世紀から20世紀にかけて、パールシーたちはイギリス帝国の拡大とともに、西はザンジバルから東はシンガポールまでインド洋各地の港町へ進出し、商業や専門職として活躍した。彼の家族も、その広大な活動圏の中で暮らしていた一例である。

街並みの向こうにいた人々

パールシーはイギリス帝国を代表するエリート共同体だった。しかし、彼らが東南アジアに残した痕跡は、アルメニア人ほど目立つものではない。街を歩いても、アルメニア通りのような地名はほとんど見つからず、サーキーズ兄弟が築いたような歴史的ホテルもない。

そのため、三つの港町を歩いていても、彼らの存在はなかなか目に入ってこない。それでも歴史をたどると、教育や医療、法律、慈善活動を通じて植民地社会を支えた人々の姿が少しずつ浮かび上がってくる。

シンガポール、ペナン、ヤンゴンのいずれにも、パールシー共同体は決して大きくはなかった。しかし、高い教育を受けた彼らは商人としてだけではなく、医師や弁護士、技術者、実業家として活躍し、植民地社会を支える専門職集団となっていた。さらに学校や病院への寄付、奨学金の提供、慈善団体への支援などを通じて教育や福祉にも積極的に関わり、港町の発展を陰から支えていたのである。

もっとも、その足跡が完全に失われたわけではない。現在でもシンガポールには小規模ながらパールシー共同体が存続し、ゾロアスター教の礼拝施設も維持されている。しかし、それはアルメニア教会やラッフルズ・ホテルのように都市を象徴する存在ではない。街を歩いていても、パールシーの存在に気づく機会は決して多くないだろう。

ゾロアストリアン・ハウス
シンガポールのパールシーゆかりの品や、コミュニティの歴史について展示している。
Googleマップ上では24時間営業と書いているが…
見学を希望する場合、管理者に連絡を入れた方がいいだろう

それでも、植民地時代の都市を支えた人々をたどると、そこには少なからぬパールシーの名前が現れる。彼らは目立つ建物を築いたわけではない。しかし、教育、医療、法律、行政、慈善といった社会の基盤を支えることで、港町の発展に静かに貢献していたのである。

ユダヤ人は共同体を残した。アルメニア人はホテルや教会、街路といった都市の景観にその名を刻んだ。それに対してパールシーが残したものは、人々の暮らしを支える社会そのものだった。

だからこそ現在の東南アジアで、パールシーは「見えない共同体」となった。街の風景にはほとんど姿を残さなかったが、その足跡は教育や医療、法律、慈善といった社会の仕組みの中に静かに息づいているのである。

パールシー劇場が残した文化

街を歩いていても、パールシーの痕跡はほとんど見えてこない。しかし、目に見える建物を残さなかった彼らは、代わりに東南アジアの文化そのものへ深く入り込んでいた。

その代表例が、19世紀後半にボンベイから渡ってきたパールシー劇団である。

当時ボンベイでは、「パールシー劇場」と呼ばれる新しい商業演劇が大きな人気を集めていた。これはゾロアスター教の宗教劇ではなく、パールシー実業家たちが育てた近代的な巡業劇団である。歌や踊り、恋愛や英雄譚、笑いと涙を織り交ぜた華やかな舞台は、今日のボリウッド映画にもつながる演劇文化の源流の一つともいわれている。こうした劇団はイギリス帝国の航路に沿って各地を巡業し、その文化は東南アジアにも運ばれていった。

1890年代 ボンベイのパールシーの家族

最初に大きな影響を受けたのがペナンだった。1870年代、ボンベイから訪れたパールシー劇団の人気を受け、ジャウィ・プラナカン共同体出身の実業家モハメド・プシは、その舞台様式を取り入れたマレー語劇団をジョージタウンで立ち上げた。これがやがてバンサワン(Bangsawan)へと発展し、現在でもマレーシアを代表する伝統演劇の一つとして受け継がれている。

この新しい演劇文化は、やがてシンガポールにも広がった。19世紀末にはカンポン・グラムやジャラン・ブサール周辺でバンサワン劇団が盛んに公演を行い、多民族都市シンガポールを代表する娯楽となる。現在でもバンサワンはシンガポールでも伝統芸能として受け継がれ、ときおり復興公演が行われている。

一方、ヤンゴンにもパールシー劇団は巡業し、多くの観客を魅了した。しかし、その運命はペナンやシンガポールとは異なっていた。ビルマにはすでに宮廷文化を背景とする豊かな演劇文化が存在しており、パールシー劇場は一時的な流行にはなったものの、やがてその中へ吸収され、独立した系譜としては残らなかった。今日のヤンゴンを歩いても、パールシー劇場の直接的な痕跡を見つけることはほとんどできない。

こうして三つの港町を見比べると、同じ文化が海を渡っても、その運命は都市ごとに大きく異なることが分かる。ペナンではマレー文化の一部となり、シンガポールでは多民族都市を彩る舞台芸術として受け継がれた。一方、ヤンゴンでは歴史の中へと姿を消した。

港町とは、人やモノだけでなく文化も行き交う場所である。しかし、その文化が土地に根付き、次の時代へ受け継がれるかどうかは、それぞれの都市が持つ社会や共同体によって大きく左右される。

ユダヤ人は共同体を残した。アルメニア人は都市の景観を残した。そしてパールシーは、都市の景観ではなく、その土地に息づく文化を残したのである。

マレーの伝統芸能、バンサワン。一見するとマレーの伝統的演劇だが、その華やかな演出や音楽には、19世紀にボンベイから伝わったパールシー劇場の影響を見ることができる。

静かに消えていった共同体

パールシー劇場は、東南アジアに新しい文化を残した。しかし、その文化を運び、この地域で活動していたパールシー共同体そのものは、20世紀に入ると静かに姿を消していった。

ペナンでは、かつて商業や専門職の分野で活動したパールシー共同体も、20世紀後半にはほとんど姿を消した。ジョージタウンの街を歩いても、アルメニア人のように共同体の存在を示す教会や通りの名前を見つけることは難しい。かつて港町の発展を支えた人々の記憶は、現在の都市景観の中ではほとんど見えなくなっている。

ヤンゴンでも事情は似ている。英領ビルマ時代、ボンベイとの結びつきを背景にパールシー商人や専門職が活動していた。しかし、第二次世界大戦、ビルマ独立、その後の政治変動によって、多くのインド系住民が国外へ移住した。パールシー共同体もまた、その大きな流れの影響を受け、現在のヤンゴンではかつて存在した共同体の記憶はほとんど残っていない。

一方、シンガポールでは現在も小規模ながらパールシー共同体が存続している。共同体の拠点である「ゾロアスター・ハウス」では現在も礼拝や文化活動が続けられており、完全に共同体が消滅したわけではない。

しかし、その存在が広く知られているわけではない。現在のシンガポールで、パールシーという名前から植民地時代の共同体を思い浮かべる人は決して多くないだろう。まして、かつて彼らがこの都市の発展を支えたことまで知る人はさらに少ない。プラナカンやユーラシアンのように、多民族国家シンガポールを語る際に頻繁に登場する存在とは異なり、パールシーの歴史は現在の社会の中でほとんど共有されていない。

こうして三つの港町を見比べると、パールシー共同体の残り方には大きな違いがある。ペナンではほぼ姿を消し、ヤンゴンでは歴史の中へ埋もれた。そしてシンガポールでは、わずかながら現在へ記憶が受け継がれている。しかし、ここで一つの疑問が生まれる。これほど成功したパールシーたちはどこへ消えたのだろうかという疑問だ。

パールシーは決して衰退した共同体ではなかった。むしろ19世紀から20世紀初頭にかけて、イギリス帝国を代表する成功した少数派の一つだった。教育と英語能力を武器に帝国内の各地で活躍し、大きな社会的地位を築いた人々である。それほど成功した共同体が、なぜ現在ではほとんど姿を見せなくなったのだろうか。

共同体は何を残したのか

パールシーの歴史には、一つの大きな逆説がある。彼らは失敗したから共同体が縮小したのではない。成功したからこそ、共同体が縮小したのである。19世紀から20世紀初頭にかけて、パールシーはイギリス帝国を代表する成功した少数派だった。教育を受け、英語を身につけ、商業や法律、医療、行政、文化など幅広い分野で活躍し、東南アジアでも港町を支える専門職集団として高い評価を受けていた。しかし今日、その共同体の姿を見ることはほとんどない。それほど成功した共同体が、なぜここまで縮小し、ときには歴史の中に埋もれてしまったのだろうか。

この問いを考えるには、本シリーズで取り上げてきたユダヤ人やアルメニア人との比較が欠かせない。ユダヤ人は宗教を軸に共同体そのものを維持し、アルメニア人は教会や学校、商業ネットワークを通じて共同体の記憶を受け継いできた。形は異なっていても、両者には共同体を存続させる仕組みが存在していた。一方、パールシーが重視したのは、共同体を守ること以上に、人を育てることだった。

近代教育を積極的に受け入れたパールシーは、帝国中で活躍できる優秀な専門職を数多く育てた。その結果、一人ひとりは共同体の外でも成功できるようになり、社会の中へ広く溶け込んでいった。もちろん、人口規模の小ささや少子化、共同体内婚の難しさなども共同体縮小の要因だった。しかし、それ以上に象徴的なのは、共同体が個人を成功へ導くほど、その成功が共同体への依存を小さくしていったという事実である。共同体の成功と共同体の存続は、必ずしも一致しなかったのである。

では、それは共同体としての失敗だったのだろうか。そうとは言えない。学校や病院への慈善活動、植民地社会を支えた専門職、そしてボンベイから伝わりバンサワンへと発展した演劇文化を見れば分かるように、共同体は縮小しても、その成果まで消えたわけではなかった。彼らが育てた人材や文化、制度は、共同体の外側で生き続け、港町そのものを支えてきたのである。

ここまで三つの共同体を見比べると、それぞれが社会へ残したものの違いが見えてくる。ユダヤ人は共同体そのものを残した。アルメニア人はホテルや教会、街路といった都市の景観や記憶を残した。そしてパールシーは、人材や文化、制度を社会へ残した。同じディアスポラ共同体であっても、その成功はまったく異なる形で受け継がれていったのである。

共同体は、同じ形で歴史に残るわけではない。しかし都市という視点に立てば、その価値を測る基準は明確になる。都市にとって共同体の価値とは、その共同体が都市や社会に何を残したかにある。 共同体が今も存在しているかどうかだけでは、その歴史は語れない。人を育てたのか、街を築いたのか、それとも文化や制度を社会へ根づかせたのか。その違いを見つめることで初めて、港町を形づくってきた多様な共同体の姿が見えてくるのである。

パールシーが現代の移民問題に問いかけること

ここまで見てきたパールシーは、不思議な共同体だった。共同体そのものは20世紀を通じて急速に縮小し、東南アジアではその存在すら忘れられつつある。しかし一方で、彼らが育てた人材や文化、慈善活動、そして社会の仕組みは、現在でも都市の中に生き続けている。共同体は消えたように見えて、その成果は消えなかったのである。この事実は、現代の移民共同体について考える上でも、一つの重要な問いを投げかけている。

現代の移民問題をめぐる議論では、「同化」と「多文化共生」という二つの立場が対立することが多い。移民は社会へ溶け込むべきなのか、それとも独自の文化や共同体を維持するべきなのか。議論の焦点は、多くの場合、共同体が現在も存在しているかどうかに置かれている。しかし、その視点だけで移民共同体を評価することは、本当に十分なのだろうか。

パールシーの歴史を見ると、そこには第三の見方があるように思える。彼らは共同体を永続させることよりも、教育を通じて優秀な人材を育て、社会の中で活躍することを重視した。その結果、共同体そのものは縮小した。しかし、その人材は法律や医療、行政、教育、産業、文化といったさまざまな分野で社会へ溶け込み、都市の発展を支え続けた。共同体の大きさは小さくなっても、その影響まで小さくなったわけではなかったのである。

この視点に立つと、共同体の価値は少し違って見えてくる。都市にとって重要なのは、その共同体が現在どれだけ大きいかだけではない。その共同体が、人を育て、制度を築き、文化を生み出し、社会へ何を残したのかという点にも目を向ける必要がある。共同体とは、自らを維持するためだけの存在ではなく、都市そのものを豊かにする存在でもあり得るのである。

本シリーズで取り上げてきた三つの共同体は、それぞれ異なる形でその役割を果たしていた。ユダヤ人は共同体そのものを残した。アルメニア人はホテルや教会、街路といった都市の景観や記憶を残した。そしてパールシーは、人材や文化、制度を社会へ残した。どれか一つが優れているという話ではない。それぞれが異なる方法で都市を形づくり、それぞれ異なる形で歴史の中に生き続けているのである。

だからこそ、この歴史は過去だけのものではない。百年後、現在の移民共同体はどのように記憶されるのだろうか。共同体そのものを維持していることが成功なのか。それとも、社会へ深く溶け込み、人材や文化、制度として受け継がれていくこともまた、一つの成功なのか。パールシーの歩みは、その問いに簡単な答えを与えてはくれない。しかし、「共同体とは何のために存在するのか」という根本的な問いを私たちへ投げ返してくれる。

都市は、多くの共同体が積み重ねてきた営みによって形づくられてきた。そして共同体の価値は、「いまも存在しているか」だけでは測ることはできない。都市にとって共同体の価値とは、その共同体が都市や社会に何を残したかにある。パールシーの歴史は、成功した共同体とは何か、そして移民共同体とは何を目指す存在なのかを考えるための、一つの静かなヒントを与えてくれているのである。


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