見出し画像

海軍軍属について Civilians in Japanese Navy

 海軍に勤務する文官については別の記事で簡単に触れていましたが、この際もう少し詳しくまとめてみようと思います。過去記事は以下になりますがこちらは読まなくてもすむことを目指します。


海軍軍属とは

 「軍属ぐんぞく」という単語はそれなりに知られているもののその意味について正確に理解しているひとはあまり多くないように思う。もっとも、法規上で明確に定義されているかといえばそうも言えないというのも事実である。知るかぎり法文上で軍属について説明しているのは「海軍刑法」(および「陸軍刑法」)だけのように思われる。
 明治初期、明治5年に制定された「海陸軍刑律」では

第3条 およそ軍属と称するは海陸軍各衙門、城堡、武器火薬糧食等の倉庫、造船場、材木草秣等諸廠において、監守、支給、使役、運輸等の用に供する者にして、あるいは定例の課役に充て、あるいは一時の傭役に出るも、その犯罪、海陸軍事にわたる者は、またこの律に依て断ずべし

原文カタカナ、一部表記を改めた

としておりこれが軍属という単語の初出ではないかと想像する。さらに時代がくだって明治41(1908)年に制定された「海軍刑法」(明治41年法律第48号)では

第10条 海軍軍属と称するは海軍文官、同待遇者および宣誓して海軍の勤務に服する者をいう

原文カタカナ、一部表記を改めた

とかなり簡単になっているが、これが終戦まで有効だった。ただしこれは「海軍刑法」内にだけ通用する語釈とみることも可能であり、この説明を広く採用するのには慎重であるべきだろう。

 ここでは海軍軍属を「海軍に勤務する者のうち軍人(武官および兵)でない者」としておく。具体的には海軍文官(高等官および判任官)と雇員・傭人・嘱託をあわせたもの、ということになる。

官吏官等制

 かつて階級の記事でも説明したが、ここでも振り返っておく。特に文官については官等と官名の関係が武官ほど単純ではないので注意が必要だろう。
 もともと律令制においては官位相当制がとられておりそれぞれの官名に対して位階の範囲が定められ、対応する位階をもつ者からその官に任ぜられることとされていた。例えば中務省なかつかさしょうの長官である中務卿なかつかさきょう正四位上しょうしいじょう、その他の省の卿(式部卿しきぶきょう兵部卿ひょうぶきょうなど)は正四位下しょうしいげの位を持つ者が任ぜられた(多少の上下はあり得る)。維新によって律令が廃されても官と位の間に相関をもたせるという考え方は残った。明治初期には例えば海軍少将は従四位相当とされていたが、明治19(1886)年にいたって位階と官等を分離して位階はもっぱら宮中関係の席次を表すものとされ官名とは無関係になり、別に官等が定められて俸給などの待遇の基準とされた。
 はじめは大臣など親任式をもって任ずる官を除く高等官を勅任および奏任にわけ、勅任官を一等および二等、奏任を一等ないし六等とした。武官についてみると大将が親任、中将が勅任一等、少将が勅任二等、大佐が奏任一等、少尉が奏任六等となる。明治24(1891)年に官等が改められ、親任を含む勅任を一等ないし三等とし、奏任を七等に区分して高等官全体を通して一等ないし十等とした。大将が高等官一等、少尉が高等官九等となる。しかし翌明治25(1892)年に早くも再改正されて明治19年の制度に近くなった。親任官は広義の勅任官に含まれたが官等とは別扱いになり、親任官を除く勅任官一等が同時に高等官一等(中将相当)とされた。以下勅任官二等が高等官二等(少将相当)、奏任官一等が高等官三等(大佐相当)で以下奏任官六等が高等官八等(少尉相当)にあたる。なお官等は九等まであるが武官で九等に相当する階級はない。基本的にはこの制度が新憲法施行まで続いた。

 官吏のうち高等官に該当しない判任官は、その任免を大臣に委任されたものである。高等官の奏任官も基本的には大臣などが任免するが形式的には奏薦して裁可を得るのを建前としている。判任官の官等も変遷があるが最終的には一等ないし四等に落ち着いた。武官では准士官または下士官に相当する。

明治の海軍高等文官

 明治初期には武官と文官の区別はあいまいで、軍医、秘書、主計、機関官を「乗組4文官」と呼んだ時期もあった。明治10年代なかば(1880年頃)にはこれらは武官とみなされるようになっていたが、文官から武官とされた時期についてはさまざまな見方ができるのでひとつに特定するのは難しい。
 明治19(1886)年に高等文官俸給令が定められたが、明治24(1891)年にいたって文武高等官官職等級表(勅令第215号)によって官等と官名の関係が表のかたちではじめて網羅された。武官を除く海軍省所管の官吏としては文官扱いの海軍次官(勅任二等 - この時期ではのちの時代と官等がひとつずれている)のほか、高等官三等ないし九等の主理、六等ないし十等の海軍教授、七等ないし九等の海軍編修が記載されている。このほか海軍省に限らず各省に置かれた技術官として勅任三等の技監と、四等ないし八等の技師があった。主理はのちの海軍法務官または海軍司法事務官である。余談だが海軍の主理に相当する官を陸軍では理事と呼んでいた。そのため「主理」と言えば海軍と決まっており、官名には「海軍」はつけず単に「主理」と呼ぶ。
 この表のほか、各省官制通則と海軍省官制で定める文官の配置があった。各省官制通則は外務省以下の中央各省庁に共通する組織を規定した。各省官制通則(明治23年勅令第50号)で定める官名は大臣のほか次官、局長、参事官秘書官書記官、試補、属で、次官は勅任、局長は勅任二等もしくは奏任一等、参事官・秘書官・書記官は奏任で、試補は試みに採用したもので正式な官吏ではなく、属は判任である。ただし海軍省官制(明治23年勅令第52号)では「海軍省に参事官書記官を置かず」(第6条)とある。海軍大臣秘書官は武官(佐官または主計監)である。

 明治25(1892)年11月12日、文武高等官官職等級表は廃止され、新たに高等官官等俸給令(勅令第96号)が制定されてその別表として「文武高等官官等表」が定められた。既述の通りこの時点から親任官は官等の外とされ、勅任が一等および二等、奏任が三等ないし九等となり官等の基本形が定まった。その一方で表の海軍省の欄には大きな違いはない。次官が勅任一等または二等になり、主理の最高官等が高等官一等(もとの勅任二等)に格上げされ、海軍教授の官名が海軍文官教授と改められたくらいである。翌年(明治26年)には海軍文官教授の官名が海軍教授に復されている。明治30(1897)年には参事官と通訳官が追加された。明治43(1910)年4月1日、高等官官等俸給令が全文改正(勅令第134号)され、これまで別立てだった技術官俸給令が包含された。この時点での海軍省関係の高等文官は次官をのぞいて、主理(一等ないし七等)、海軍省参事官(二等ないし七等)、海軍大臣秘書官・海軍書記官(三等ないし七等)、海軍技師・海軍教授(三等ないし九等)、海軍編修・海軍通訳官(四等ないし八等)、海軍監獄長(五等ないし八等)とされた。海軍監獄は軍港(横須賀・呉・佐世保)におかれ、監獄長1名ずつを置き監獄長は鎮守府司令長官に隷属した。

政治職

 現行の憲法では内閣閣僚の過半数は国会議員でなければならないとしているが、明治憲法にはこうした規定はなく閣僚でありながら帝国議会議員でないことはごくあたりまえだった。特に陸海軍の軍部大臣は現役軍人であることを求められたから同時に議会に議席をもつということはあり得ない(皇族・侯公爵貴族院議員を除く)。
 しかし大正時代にはいると議会を基盤とする政党の影響力が強くなる。そのあらわれが2度にわたる大正政変だった。第二次大正政変のあと、大正3(1914)年に勅任一等ないし二等の海軍省参政官と、勅任二等の海軍省副参政官が新設された(勅令第217号)。同時に参事官が三等ないし七等とされ、勅任参事官が格上げのうえ改称したようなあつかいとなる。参政官および副参政官の特徴は、生粋の官僚ではない政党政治家が就任したことだった。参政官はしばらくのあいだ欠員だったが、翌年初代参政官に就任したのは憲政会所属の衆議院議員早速はやみ整爾せいじ(のち大蔵大臣)だった。ところが大正5(1916)年に大隈内閣(第二次)が退任し、そのあとを陸軍出身の寺内てらうち正毅まさたけがつぐと参政官の任命は陸海軍ともにされなくなってしまう。もともと陸海軍はこうした政治職の任命を嫌っており、寺内内閣の成立を好機として有名無実化したのだろう。その後、参政官の制度自体はしばらく残っていたが実際に任命されることはなく、大正9(1920)年に正式に廃止されて代わりに勅任参事官が復活した(勅令第157号)。
 大正政変が参政官制度につながったように、第二次護憲運動は政務次官の創設をもたらした。大正13(1924)年、貴族院と官僚に主な基盤をもつ清浦きようら奎吾けいご内閣は政友会・憲政会・革新倶楽部のいわゆる「護憲三派」に総選挙で大敗する。清浦内閣は責任をとって総辞職し、かわって組閣したのは憲政会の加藤かとう高明たかあきだった。加藤内閣は勅任参事官を廃止し、勅任一等ないし二等の政務次官、勅任二等の参与官を置いた(勅令第187号)。参政官・副参政官と官等は同じだが名称を政務"次官"として軍人が就任する「海軍次官」などと並ぶものと位置づけた。ただし(参政官も含め)こうした政治職の職務は「軍機軍令に関する事項におよばざるものとす」(海軍省官制第2条)と制約されており、その影響力は限られたものになった。政務次官の制度は終戦まで継続し、しばしば欠員にはされたものの基本的には帝国議会議員が就任した。しかしこうした政務次官が実際に影響力を発揮したという事例はまったくと言っていいほど知られていない。

大正以降の海軍高等文官

 大正時代には上記のような政治職の新設があったが、それ以外は明治末に定まった制度から大きく変更されることはなかった。ただし官等の微調整はあり、海軍教授と海軍技師に勅任二等が設定され、勅任教授あるいは勅任技師がうまれた。また海軍省に法務局が設けられ(司法局を改称)、局長に勅任二等の主理が任ぜられることとされた。本省の局長に文官が任じられるのは明治初期を除けばはじめてである。なお、これからまもなく海軍省の外局として設立された海軍建築本部の本部長、およびその後継となる海軍省建築局長には勅任の海軍技師が補職された。
 大正時代の大きな制度改変は主理の改称で、まず大正9(1920)年に海軍司法事務官(三等ないし七等)が新設され、一部の主理が転官した(勅令第512号)。つづいて大正11(1922)年、主理を廃止して海軍法務官(一等ないし七等)、海軍司法事務官(二等ないし七等)を置いた(勅令第93号)。軍法会議で裁判官や検事役をつとめる法務官と、司法事務をつかさどる司法事務官をわけたのである。しかし職責には重なる部分が多く、法務官と司法事務官を行き来したり、兼官する者が少なくなかった。なお同じタイミングで海軍事務官(四等ないし八等)が新設されている。

 昭和9(1934)年に小改正があり、海軍理事官(四等ないし八等)が新設されたほか、官等の微調整があった。この制度が基本的に終戦まで継続するので、ここでまとめておく。
政務次官(一等・二等)
参与官(三等)
海軍法務官(一等ないし七等)
海軍司法事務官(二等ないし七等)
参事官(三等ないし七等)
海軍大臣秘書官(三等ないし七等)
海軍書記官(三等ないし七等)
海軍技師(二等ないし七等)
海軍教授(二等ないし七等)
海軍通訳官(四等ないし八等)
海軍編修(四等ないし八等)
海軍事務官(四等ないし八等)
海軍理事官(四等ないし八等)
海軍監獄長(四等ないし八等)

戦時中の海軍高等文官

 対米戦争がはじまった直後の昭和16(1941)年12月27日、「特設海軍部隊臨時職員設置制」(勅令第1204号)により、既存の文官の定員を追加するのに加えて海軍司政長官(勅任)および海軍司政官(奏任)を置くこととした。これは占領地に軍政をしくのにあたり、事務を担当する文官職員であった。たとえば海軍の担当とされたオランダ領インドシナ(現在のインドネシア)では、南西方面艦隊司令部の下に軍政を担当する南西方面海軍民政府が置かれ、その長である南西方面海軍民政府総監には主に内務省出身者が海軍司政長官に任官したうえで補職された。このときの規定では海軍司政長官の定員は専任38名、海軍司政官は専任1115名とされていたがそれでは足りず順次追加され、結果として質の低下をまねいて現地住民の反感を買ったという。

 高等文官として海軍に奉職している者であっても、憲法と兵役法の規定により兵役の義務を負った。海軍軍人(武官および兵)は海軍兵籍に編入され、そのため陸軍から召集されることはない。しかし海軍高等文官は海軍兵籍に編入されることはなく、その大半は国民兵あるいは補充兵として陸軍兵籍を持っている(兵役を免除されないかぎり入営経験の有無にかかわらず成年男子は兵籍をもつ)。たとえば対米開戦時に旅順警備府法務長兼旅順警備府軍法会議法務官であった海軍法務官(兼海軍司法事務官)楠田くすだ直方なおかたは、東京帝国大学を卒業した直後に一年志願兵を志願して陸軍下士官(歩兵軍曹か)に任官している。兵役法第61条には「余人をもって代ふべからざる職にある官吏または官吏待遇者」に対して「勤務演習召集または簡閲点呼を免除することを得」とあり官吏は通常召集しないこととされているが戦時の臨時召集を規制する規定はなく、あったとしても召集されるかどうかは最終的には陸軍大臣の胸先三寸であった。実際、日中戦争の勃発以降には海軍で勤務していた文官や雇員が陸軍に召集されるということが起きていたようだ。
 これを防止するには、海軍軍人として海軍兵籍に編入するのがもっとも確実だった。たとえば文官である海軍技師を、武官である海軍技術科士官に転官するのである。土木・建築などの施設系の技術者を海軍では文官の海軍技師として任用していたが、対米開戦後にこうした技師を技術科士官に転官している。昭和17(1942)年に造船科・造機科・造兵科・水路科の技術系士官を合同して単一の技術科士官としたのは、既存の技術系士官の枠に収まらない技術系の文官を収容するためにひとまわり大きな枠を作った、というのも理由のひとつだったと考えられる。ただし文官の海軍技師がすべて武官に転官したわけではなく、その後も文官の海軍技師のまま残ったものもおり、しばらく文官でいたものの後になって武官に転じたものもいた。

 いっぽうで完全に武官に転じたのが法務官や司法事務官である。もともと軍法会議では裁判官をつとめる判事の大半が武官(兵科将校)で、司法試験(高等文官試験司法科)に合格した法務官が少なくともひとりは加わることとされていたが、判事長(裁判長に相当)は必ず武官がつとめた。日中戦争後、軍法会議が開かれることが多くなるが被告となった将校などが武官ではない法務官が判事に加わることに不満を述べる事例があったという。また判事のなかで武官でない法務官が軽んじられ、法律の専門家である法務官の意見が通らないということもあったらしい。そこで法務官(および司法事務官)を武官である法務部将校とし「文官が武官を裁く」という状況を解消しようとした。その裏には兵科将校の意見にしばしば抵抗しようとする法務官たちを軍人として軍の命令系統に組み込むことで制御しようとした、という事情もあったらしい。こうした動きは主に陸軍で起こったようだが海軍もその流れに追随することとなり、法務官および司法事務官は昭和17(1942)年4月1日をもってそれぞれの官等に対応する法務科士官(たとえば勅任一等であれば法務中将、高等官六等であれば法務大尉)に転官して海軍法務官、海軍司法事務官は廃止された(勅令第309号、勅令第310号ほか)。なお判任官である海軍録事は文官として残ったが、これも昭和20(1945)年5月15日付で法務科准士官・下士官に転換して完全に武官化した。

判任文官

 判任文官には、一等ないし四等の官等をもつ正式な文官と、判任官待遇をうけるいわば「みなし判任官」があった。明治19(1886)年、判任官たる技手が技術官官等俸給令(勅令第38号)で制定され、これが海軍判任文官のはじまりと言えるが、技手は海軍固有のものではなく広く「技術官」というくくりであり、そのなかで判任官を技手、奏任官を技師、勅任官を技監と称したものだった。海軍判任文官が整理されて正式に制定されたのは明治24(1891)年の文武判任官等級表で、海軍では海軍属、海軍書記、海軍編修書記、海軍学校助教、海軍技手が判任一等ないし五等として定められた。その後、海軍録事、海軍監獄書記、海軍監獄看守長、望楼長、望楼手などが追加されたが、明治43(1910)年に文武判任官俸給令(勅令第267号)が制定されると、各省庁の判任文官をまとめて表のかたちで管理することをやめて、官等と俸給の関係を定めたうえで各判任官についてはそれぞれの省庁にまかせることになった。そのため、これ以降は判任官の全体像をひとめで把握することは難しくなり、個々の法令を個別にあたる必要が生じる。
 このころの海軍判任文官は、海軍省などの省庁で事務を担当する海軍属、また書類作業を担当する海軍書記、軍法会議などで法務関係の助手をつとめる海軍録事、おなじく警備を担当する海軍警査、高等文官である海軍編修の助手をつとめる海軍編修書記、各地に置かれた望楼で勤務する望楼長および望楼手、海軍工廠などで働く海軍技手、海軍監獄で勤務する海軍監獄看守長などがあった。うち海軍警査は判任官待遇官吏である。
 判任官から高等官に昇進するのは至難のわざだがまったく無理というわけではない。特に技術官である技手から高等官である技師に昇進する例は少なくなかった。むしろ昇進ルートががちがちに決まっている武官よりも融通が効いた側面もあった。

雇員・傭人

 雇員こいん傭人ようにんは官吏の身分は持たないが海軍で勤務する者で現在に例えるならば「契約職員」といったところだろうか。こうした存在はもちろん初期からあったはずだが、明治19(1886)年に「海軍艦船営傭夫規則」が定められ、従僕じゅうぼく裁縫夫さいほうふ剃夫ていふが挙げられている。ここでは「傭夫ようふ」と総称し、主に艦船や営(水兵などを収容する陸上施設)で雑用を担当したもののようである。同じ年に「雇員採用内規」が定められ、そこでは「筆生・技生・工夫長・器械手・兵器保護手・監護・用使・給仕・馭者・砲丁」などが挙げられている。明治22(1889)年には傭夫は「傭人」と改称され「雇員傭人採用規則」(達第241号)としてまとめられたがいちおう雇員と傭人は区別されて、雇員は「彫刻手、翻訳生、技生、器械手、兵器保護手、筆生、剣術教員、柔道教員、監護」、傭人は「司令長官司令官従僕、艦長従僕、割烹、剃夫、馭者、使丁、砲丁、給仕、定傭大工、定傭経師、射的場番人、用水場番人、定夫、馬丁」とされた。職名をながめてみるとなんとなく「雇員」と「傭人」でニュアンスの違いが感じられる。ただし厳密な定義は特にないようである。それぞれの職務の内容はなんとなく想像がつくものもあるいっぽうで現在ではわかりづらくなってしまっているものも多い。
 雇員傭人採用規則は明治27(1894)年に「雇員傭人規則」と改称した後たびたび改正されながら終戦まで存続した。雇員は時代が下ると整理統合されていく傾向があったが、傭人は逆にバリエーションが増えていく。昭和13(1938)年時点での雇員と傭人はそれぞれ

雇員「筆生、技生、通弁、守衛長、器械手、守衛、坑内取締、筆記、技員、看護婦長、医務助手、調剤助手」
傭人「海図彫刻手、海図印刷工、裁縫手、裁断手、麺麭手長、麺麭手、研磨手、割烹、舟夫長、電機手、水栓手、機関手、坑手、潜水夫、兵器手、印刷工、工作手、鉄道線路工夫、倉庫手、舟夫、経師、火夫、消毒夫、洗濯夫、烹炊夫、使丁、定夫、従僕、剃夫、電話手、給仕、番人、軍用郵便夫、看護婦、助産婦、記録、運転手、配給手、精米手、製剤手」

とされている。男所帯の海軍で「助産婦」がいるのはどういう理由かと思うだろうが「雇員傭人規則」ではそれぞれについてどのような場所で使役できるかを定めており、それを見ると助産婦の使役場所は「工廠、技術研究所、火薬廠、燃料廠、要港部」とされている。注釈として「もっぱら海軍共済組合の業務に従事する当該傭職名の傭人を使役することを得」とあることから、工廠や研究所などの工作庁(要港部とあるのは要港部附属の工作部であろう)で働く職工のための共済組合で働いたものだろう。

 工廠などで働く職工しょっこうについては雇員・傭人とは別に「海軍職工規則」で定められていた。明治初期には「工夫」と呼ばれていたが明治29(1896)年に「職工」と改められ、その時代が長く続いたが昭和12(1937)年に「工員」と改称した。したがって最終的には「工員」と呼ぶのが正しいのだが、「職工」の時代が長かったこともあり戦記などでは「職工」と記述されることが多いようである。

 嘱託しょくたくも契約職員ではあるが、雇員や傭人とは違って専門技能をもって業務に従事するもので、士官待遇の場合もあった。例えば艦船を海外に派遣する場合には臨時に通訳を乗艦させることがあり、そういう場合は士官待遇の嘱託とするのである。高等文官にも通訳官はあったが、必要な期間が限られていたり、あまりメジャーではない言語の通訳が必要だったりする場合は嘱託にしたのであろう。シベリア出兵中にカムチャツカ半島方面に派遣された海防艦新高にいたかにはロシア語通訳として嘱託1名が乗艦していたが、暴風のため遭難殉職している。

 歯科医師も嘱託として採用された。医師免許をもつものは軍医科士官、薬剤師免許をもつものは薬剤科士官として採用されたが、海軍では(陸軍も)ながく歯科医師免許をもつものを士官として採用する制度がなかった。しかし歯科医師が必要になる場面というのはあるもので、例えば練習艦隊の遠洋航海など長期間の海外派遣においては歯科医師を嘱託として乗艦させるということが行なわれた。余談だが戦前の日本では歯科医師の社会的地位が通常の医師に比べて低く、医師の養成機関には大学の医学部と短大相当の医学専門学校があったが、戦前の日本では大学の歯学部というのは存在せず歯学専門学校で学ぶしかなかった。話をもとに戻して、日中戦争がはじまった後、顔面に受傷して治療に歯科医師の関与が必要になるケースが相次いだことからまず陸軍で昭和15(1940)年4月1日に衛生部将校のなかに歯科医が新設され、海軍もそれにならい昭和16(1941)年6月1日に歯科医科士官を新設した(勅令第624号)。これ以降、専門学校を卒業した歯科医師免状保持者を歯科医科士官(歯科医少尉)に採用するという制度が始まったが、いっぽうで嘱託歯科医を歯科医科士官に任用するという運用も行なわれたらしい。ただしそれは希望者のみでその後も嘱託として勤務した者もあったという。

おわりに

 はじめは簡単にまとめるつもりでしたが思いのほか長くなってしまいました。しかし内容が濃いというわけではなく、高等官と判任官と雇員などについて別々に記載したため結果的に長くなってしまったという感覚です。逆にいうと軍属全体についてまとまった制度設計というものがなく、それぞれ説明せざるを得なくなったと思い知らされました。

 今回の記事ではまとまった参考文献というものがほとんどないので、「海軍制度沿革」と官報その他の史料を参照してまとめました。軍属という単語について SNS ではそれっぽい説明をみかけることがよくあるのですが、冒頭で述べたとおり厳密には正確な定義がないのでなかなか指摘も難しいのです。いちおう自分の中では「海軍に勤務する者のうち軍人でない者」が一番実態に近い簡潔な説明だろうと思っています。軍属というと軍人よりも格下であるかのように思われがちですが、政治職である政務次官や参与官を除いても中将相当の勅任一等海軍法務官や少将相当の勅任司法事務官・教授・技師なども実際に海軍で勤務していたわけで一概に軍人より下とも言えません。ただし軍人の中には根拠なく文官を下に見る者も少なくなかったようです。

 実は以前から構想があって準備していた記事について調べ始めていた情報の一部を使って先日「一年志願兵」の記事を公開したので、なんだかちょっと満足してしまいました。今後どうなるかわかりませんが当面は保留にしようかと思います。それとは別にひとつ思いついたテーマがあるのですが、こっちは史料自体を探すのが大変そうなので形にできるほど調べきれるかわかりません。

 ではもし機会がありましたらまた次回お会いしましょう。

(カバー画像は昭和13年改正雇員傭人規則「傭人の職名および使役場所」の一部 - 海軍制度沿革巻11より)

いいなと思ったら応援しよう!