努力論・自己責任論をぶつけられて気が付いた、数百年栄える一族の流儀
うがみんしょーら🌴
発達障害の生存戦略を楽しく発信している、
うがみです。
今日は、努力論・自己責任論の話をします。
極端な自己責任論を
振りかざす人と出会ったとき、
あなたならどう反応するだろうか。
怒るだろうか、それとも深く頷くだろうか。
先日、仕事を辞める僕に対して、
ある親族が真顔でこう言い放った。
「あなたは正しい努力ができていない。
正しい努力ができていれば、良い大学を出て、
もっと良い会社や組織に入れて、
仕事を辞める必要なんて無かったはずだ」
普通ならイラッとするかもしれない。
しかし、言われた瞬間の僕は、
なぜかちょっとワクワクしてしまった。
自己責任論は発達障害をどう扱うか
なぜワクワクしたのかといえば、
かねてよりずっと気になっていた
問いがあったからだ。
それは、「すべては個人の努力次第だと
考える人は、発達障害といった
生まれ持った脳の特性の違いを、
どう解釈しているのだろう?」という疑問だ。
脳のワーキングメモリの広さ、
衝動の抑えやすさ、空気を読むための回路。
これらは本人の意志ではなく、
遺伝や脳の構造という
配られたカードで決まる。
努力以前の違いを
どう解釈しているのか。
リアルな自己責任論者に、
この疑問をぶつけてみる
絶好のチャンスがやってきたわけだ。
僕はさっそく、
自分の持つ発達障害の特性や、
それによる生きづらさという
前提を交えて、彼に問いかけてみた。
結論:会話にすらならなかった
期待に胸を膨らませて検証を試みたわけだが、
結論から言うと、
拍子抜けするほどあっけなかった。
「そんなのは言い訳だ。特性は関係ない。
それも含めて、正しい努力が
できていないあなたの問題だ」
壊れたファービー人形のように、
それしか繰り返さない。
そこには論理的な辻褄合わせも、
こちらの前提に対する
客観的な考察もなかった。
ただただ、「努力不足」という
結論ありきの言葉がループするだけ。
議論や会話と呼べるシロモノではなかった。
その人にとって、発達障害の特性は
考慮すべき変数ではなく、
単に努力で上書きすべきエラー
にすぎないようだった。
成功すると努力論が快感になる
なぜ、ここまで頑なに
すべては努力次第という
屁理屈にしがみつくのだろうか。
理由はシンプルだ。
すべては自分の努力のおかげ
ということにすると、
自分が気持ちよくなれるから。
成功した人の一定割合は、
自分の手に入れた地位や富を
自分の実力100%の成果だと思いたがる。
もしそこに「運」や
「生まれ持った脳の構造」、
「環境の恵み」といった要素が
関わっていると認めてしまえば、
自分の努力が否定されていると感じる。
努力論を他人にぶつけるとき、
成功者が自分自身の過去を全肯定して
自尊心を最大化するための嗜好品になる。
数代で没落する成金と、何百年と栄える名門
この一件から、ふと思ったことがある。
歴史を振り返ったとき、
数代で一気に没落していく成金と、
何百年もの間、形を変えながらも
繁栄を続ける名門や老舗の違いは、
まさにここにあるのではないか、と。
【数代で没落する成金マインド】
自分の成功を100%自分の実力と努力
だと過信する。だから他者への感謝を忘れ、
配られたカードがたまたま強かった
という運の要素に気づけない。
傲慢になり、社会の変化や足元に潜む
理不尽なリスクに足元をすくわれる。
再現性が無いので、数世代で没落する。
【何百年と栄える名門マインド】
自分たちが今ここにいるのは、
先祖の積み重ねや、時代の運、
そして周囲の支えのおかげだと知っている。
自分が恵まれているのは偶然であり、
世の中には理不尽な不平等が
存在することを理解している。
だからこそ、謙虚であり続け、
他者や社会に還元しようとする。
結果として、周囲に守られながら長く繁栄する。
だからこそ、他人の事情を無視して
「努力が足りない」と切り捨てる姿勢は、
持続可能な戦略ではない。
努力論を用いたければ、
自分に発破をかけるために、
自分にだけ使えば良い。
ポジショントークはトイレに流す
「あなたは正しい努力ができていない」
一見、もっともらしいアドバイスの皮を
かぶったこの言葉は、その実、
発言者の脳内をスッキリさせるためだけに
吐き出された、ただの排泄物だ。
「事情は色々あると思うから、
自分なりの努力をすれば良い」
そう考える方が、よほど生産的で、
何より精神衛生上、ずっと健全だと思う。
みんな、今日もいってぃきやんしょーら🌴
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僕の晩酌代にしかなりません。