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神の存在証明(神っているの?)

カント以前の所謂形而上学的哲学者たちは、神の存在の証明をしようとしました。これは人間である私たちが人間側の立場で神の存在の有無を考えようとしたということでしょう。洋の東西を問わず哲学とはそもそも神の存在証明を考える、すなわちこれは神学から発展してきたのが哲学だと言われる所以とも言えるでしょう。一方、現在の無神論者たちは「神などは無い」と言います。。

「この世の智慧は、神の前に愚かなればなり」(コリント前3-9)

では神という語のもとに我々は一体、何を考えるべきか。
「神は愛なり」「神は全智、全能なり」「神は完全、完徳なり」など色々にいわれますが、もっとも根本的に大切なのは、

出エジプト記3章14節に出てくる「有りて在(あ)る者なり」

ということだと私は考えています。実はこの「有りて在(あ)る者」であればこそ全智全能も完全完徳も、愛ということも、真に意味を持ってくるのです。それをもし「有りて在(あ)る者」ということを見失ったら、神は完全な愛であることも見失われるであろうし、従って全知全能でもなくなってしまいます。「有りて在(あ)る者」とは「何から何まで」と言うことです。「何から何まで神の働き」ということです。

ところが今の私たちは、いつも人間である自分の力で世の中のあらゆることを処理しようとしています。何からなにまでこの人間としてやってのけ、全能の神にとって代わろうと思っているのです。

しかし、最も身近な私たち自身の生理作用、例えば呼吸作用、消化作用、睡眠作用、血液の循環作用の1つですら、実は私たちの人間の意思で自由に操作、処理することはできないことなのです。

それは確かに消化剤を飲むことはできます。けれど食物を食べ、消化剤を飲んで「待ってくれ。ちょっと消化するから」と、ひと仕事するみたいに、胃袋の作用を自分でする人があるでしょうか。実際には消化作用など忘れて、一服し雑談しているうちに、ちゃんと消化されているのです。

また呼吸にしても、医者が来て酸素吸入してみたところで、死ぬ時は死ぬのだし、ふだんだって1つや2つの深呼吸ならする気にもなりますが、「今晩寝るけれど、眠っている間も、一分間にいくつの割で呼吸しなければ」と思って寝る人はいないはずです。これをすべて「自分以上の力」に任せきって眠ってしまうのです。

つまり、私を生まれさせた力、呼吸をさせたり消化させたりして、生かしていてくれる力、また、ものを考えさせ、意志させ、喜んだり、悲しんだりさせてくれる力、これすべて私の生命の中に働いている力が、実はもはや「自分以上の力」なのだと思います。この「力」を神学者たちは、「神」と呼んだのだと思います。

だから、神は認識できると言おうが言うまいが、また神を信じようが、信じまいが、神を疑おうが、疑うまいが、神がないと言おうが、有るといおうが、そう信じたり疑ったりする、この力(能力)の中に、既に「神様」がちゃんと働いているのです。神は「何から何まで」「有りて在る者」なのですから。

因みにこの「神」を哲学者ルソーは彼の著書「エミール」で「自然へ帰れ」と表現しました。「神」=「自然」というわけです。ただここでいうところの「自然」は私たちの周りにある環境である自然という名詞ではありません。「いつのまにかそうなった」「自然にそうなった」という時に使う副詞である「自然」です。まあ、ここでは「神」として話を進めましょう。

だから普通には、信じるとは「本当だと思うこと」「疑わないこと」だと思っていますが、今はそうではありません。信とはこの「何から何まで」の発見です。
それで、もしこのような神を信じない、つまり信の反対のことを言おうとするなら、それは「疑う」ということではなしに、「未発見」というべきです。

人間としての自分のどの能力を取り出してきても、ちゃんとその中に働いている、そのような遍満して働いている力に対して、いまだ自分は発見していない、気が付いていない、未発見であるに過ぎないのです。

それに反し「信じる」とは、このような自分の生命体験、「自分が生かされている」ということの発見です。単に発見なのですから、神を信じたからといって、特別に何か新しいものが付け加わったというものではありません。いや何か付け加わったとすれば、それは人間の作ったもの、被造物でしかないでしょう。

だから、もし神様の側からいえば、我々の内に働いている、この神の力を発見しようと、発見しまいと、神を信じようと、疑おうと、本来はどうでもいいことであるに違いありません。キリスト教の教理としては、そうは言わないかもしれませんが、まあ一応の話としてとにかくあなたが神を信じないため、神様が寝込んでしまって助けてくれない、そんなことはないとも思えます。一応、神様の側からはどうでもいいとして、しかし我々人間の側から言えば、この発見と未発見との間には、とても大きな違いが起こるのです。

いったい「発見」「未発見」ということはそうしたものなので、例えば人類が火を発見する、石炭を発見する、引力を発見する等々、発見しても、しなくても、実は人間が発見する前から既に火もあり、石炭も引力もあったのですが、人間の側からいえば、発見して以後はじめて人間にとって有用なのであり、それが人間文化を築く役割もするのです。神の発見についても同じこと、我々の側としては、それを発見するか、しないかで大きな違いがあります。

「天の父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせて下さる」(マタイの福音書5.45)

とあります。つまり、神は好き嫌い、善悪、正不正にもかかわらず平等だということです。このことは、私たち人間から見れば、実に途方もないおおらかさです。
この神のおおらかさに反し、私たち人間というものは、いつもこのちっちゃな自分のアタマで善い悪い、正しい正しくないを勝手に判断し、悪い奴、正しからぬ奴と思った者には、日を昇らせてやりたくなく、また雨も降らせてやりたくないのです。そんな私たち人間がこの途方もない神のおおらかさを、ふり仰ぐか、ふり仰がぬか、そこにこそ、大きな裁きがあったと言わねばならないでしょう。

つまり神とは「有りて在る者」であり、あらゆるものに働きながら、しかも我々がそれを信じようと信じまいとケロッとしています。このケロッとしている「おおらかさ」を仰ぐということは、いつもヤッサモッサしている我々の目には、実は何ものにも代えがたい有難いことでなければならないからです。

神は「有りて在る者」であり、「有りて在る者」は無限であり、無限なるが故に、有限的な我々の考えでつかみ切れるものではなく、ただ我々は、それに働かれて、「自分は生かされているのである」と発見する――つまり信ずることだけができるものです。

ところが、我々はこの神の力の中にあって、いつも自分というものを区切りとり、自分の都合を中心にして行動し、無限の神に対して目をふさごうとばかりしています。そして、できればこの小さく区切りとった自分の手で全てを処理して、有るとか無いとか、片づけてしまおうとするのです。罪とはまさしくこのように、無限の神の力の中にあって「自分を区切りとる」ということだと私は思います。

宗教上の罪とは、いわゆる悪徳、悪行、すまわち道徳上、法律上の罪とは意味が違います。神の前における罪であって、もっと根本的に深い意味をもっています。したがって罪の反対は、単なる徳行という意味ではありません。罪とは「自分を区切り取って、自分中心にする」ということですから、罪の反対は、「神から自分を区切りとらないこと」、「自分中心でなく、神中心」です。

区切り取った自分を中心として考えるのではなく、ただひたすらに、無限なる神の御旨をそのまま我とした、イエス様の自覚がキリストです。

ガンジーのある著書によれば(実際にはガンジーはそんなこと主張していないという説もありますが)、真実の道を歩もうとする人は結婚してはならない。結婚すると「まず2人だけで。あとの人はどうでもいい」という気になるから、と書いてありますが、とにかくこの「まず自分だけ」「まず自分たちだけ」と区切り取る。これが原罪というものになるのだと思います。

それで、我々ふだん愛といえば、はなはだよく分かっている気でいますがキリスト教的な愛ということについては、よっぽど目を洗って、よく見直してみなければならないと思います。というのは、愛という言葉は、どうも自己愛の延長として受け取られやすいからです。この男女の愛(エロス)は、今まで自分1人の囲いであったのに、今度は異性と2人の囲いに増えることを意味します。だから愛する彼・彼女に、彼・彼女は自己犠牲、自己献身するでしょうが、それは自分たちの囲いの中で、彼・彼女が大人しくしている限りの関係なのであって、もしその囲いを破って、彼・彼女が外へ飛び出したとしたら、この関係は破れて彼と彼女は他人になる。

我々人間の考える愛は、いつも囲いを境にして、向こうとこちら側とで、裏返せば、憎しみになるような愛でしかないようです。これに反し、神の愛は絶対囲いなしなのですから、裏返して憎しみになるようなものではありません。

例えば相手が間違っていると思われる、そこでこれを正すべく努力する。これは一応の話なので、相手が改めないからといって、憎んでいいというわけではない。根本的にいうなら、神の愛とは相手によって、これはよし、これは悪し、と分別して、悲しんだり、憎んだりしてはならないものです。

実にここにキリスト教的な愛の本質があります。
こういうと、いかにも消極的のようですが、イエス様自身、パリサイ人たちの不信を咎めながらも、いつ暴力、武力をもって立ち上がったか。もし暴力、武力をもって立ち上がったなら、彼はキリストではなくなってしまったでしょう。そうではなく、返って罪人たちのために、その生命を与えながらも、最後に

「神なる父よ、彼らをお許し下さい。自分が何をしているか知らないのです。」(ルカによる福音書23章34節)

こう祈っておられます。

絶対的に、無条件、無報酬の自己犠牲においてこそ、彼は神の子として

「我すでに世に勝てり」(ヨハネの福音書16章33節)

の確信のもとに永遠の生命として復活したのです。

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