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「修復」がもたらす解体:小津安二郎『晩春』から『麦秋』への構造的転換と「第三項の不在」に関する考察4

第三章:決断のベクトル――実母の有無と「他者の母」の引力

1. 実母の不在がもたらす『晩春』の自己犠牲的決断

『晩春』の紀子には実母が存在しない。

この構造的欠落は、第一章で述べた通り紀子を曽宮家の「妻(母)の代行者」として位置づけている。

この役割からの解放は、実母が健在である一般的な家族構造における「娘の自立」*1とは位相を異にする。

紀子にとって家を出ることは、父の生活基盤を変容させ、彼を孤独へと追いやることを意味するからである。

したがって、『晩春』における紀子の結婚に対する抵抗は、単なる変化への回避ではなく、父を一人にすることへの強い忌避感、すなわちシステム維持への倫理的責任感に起因している。

彼女が最終的に結婚を受け入れるのは、父が「再婚する」という嘘によって自立した生活主体としての偽装を行い、紀子をその責任から免除したためである。

ここにおける紀子の決断は、個人の自由意志による選択というよりは、父の意志への服従と、父の幸福のための「自己犠牲」という受動的な性質を帯びているのだ。


2. 実母の存在と『麦秋』における「他者の母」との直接合意

対して『麦秋』の紀子には、実母(しげ)が健在である。

実母の存在は、紀子を家事労働や家長に対する過度なケアから解放し、彼女に「自立した個人」としての自由を担保している。

間宮家が紀子に結婚を勧める際、そこに「家族を犠牲にする」という悲劇的ニュアンスは介在しない。

この構造的自由を背景として、小津は『麦秋』において、日本映画史から際立って特異なプロポーズのシークエンスを構築した。

紀子の結婚は、当事者である矢部が外出しており、物理的にプロポーズの場から不在の状態のまま、矢部の母・たみと紀子という「女同士の直接合意」によって決定されるのである。

事実、合意が成立した直後に帰宅した矢部は、家の前で紀子とすれ違うだけであり、自らの運命が決定されるプロセスに関与していない。

この決定プロセスは、家父長制的な権威を無効化するのみならず、恋愛感情に基づく男女の結合という回路すらも捨象している。

紀子は、間宮家という「宙吊りの不在」を抱えたモラトリアムの空間から脱却するために、特定の男性主体ではなく、たみという「他者の母」*2が発する外部の引力に直接接続することを選択した。

もし特定の男への感情が主たる理由ではなく、外部の母の引力で決断が成立するならば、なぜその男が「亡き次男の親友(矢部)」でなければならなかったのか。

それは、矢部が間宮家が目を背けている「時間的進行(モラトリアムの脱却)」の象徴だからであろう。

間宮家が母への配慮から次男の死を保留し、時間を「停滞」させているのに対し、矢部は次男の死を引き受け、秋田への転勤という形で物理的にも時間的にも「前進」しようとしている。

紀子は、間宮家の「修復された停滞」から抜け出すために、不可逆的にシステムを変容させ、時間を前進させてくれる契機として、矢部という外部装置を構造的に必要としたのである。

さらにここで構造的特筆を要するのは、紀子が矢部との結婚を選ぶことによって、彼女自身が矢部の前妻の娘(ふみ子)の「新しい母(継母)」というポジションに就く事実である。

『晩春』において、紀子は父の「後妻」という存在を、自らの密室(温室)を脅かす存在として強く拒絶した。

しかし『麦秋』において、彼女は矢部家が抱える「前妻の死(完了した不在)」という欠落を自ら埋め、他者の家族システムを修復する主体となることを選択する。

間宮家の「宙吊りの不在」による停滞を見限り、他者のシステムの「修復可能な欠落」を自らの手で補完するというこの選択こそが、間宮家というシステムを逆説的に解体へと導く決定的な要因となるのである。

さらに、この決断プロセスの変容は、映画内部の力学にとどまらず、当時の日本社会における法制と規範の移行という外部環境の変化と密接に関連している点も指摘しておく必要があろう。

『晩春』(1949年)において、父の作為によるトップダウンの解体が不可避であった背景には、旧民法的な家制度の人為的な抑圧が機能していたと見ることができる。

一方、『麦秋』(1951年)へと至る時期の社会の深層には、新民法がもたらした新たな価値基準が浸透しつつあった*3。

しかし、この法制上の歴史的固有性は、解体の直接的な原因ではない。

むしろ、旧制度という人為的な抑圧(重力)が取り払われた結果としてはじめて、家族システムが本来内包している普遍的な物理法則(構成員の最適化と善意がもたらすエントロピーの増大)が自然状態で作動し始めたと捉えるべきであろう。

したがって、紀子の決断もまた、表層的には「個人の自由意志」による能動的な飛躍に見えるものの、構造論的に見れば、システムが不可逆的な変容を迎えるために要請した「外部との接続装置」としての機能的作動に他ならないのだ。

小津が『麦秋』において提示した構造的帰結は、環境の解放によって普遍的法則が作動し、旧来の大家族という共同体形態が内側から静かに自然解体していくという、客観的な必然の描写であるに違いあるまい。


【第三章 脚注】
*1 一般的な家族構造における「娘の自立」:『麦秋』における紀子は会社に勤務しており、経済的にもある程度の自立を果たしている点において、『晩春』の紀子(家事手伝い)とは客観的な社会的ポジションが異なる。この設定の差異も、彼女の選択の能動性を構造的に裏付ける要素となっている。

*2 たみという「他者の母」:杉村春子が演じる矢部の母。間宮家の洗練されたブルジョワジーの生活様式とは対照的に、より庶民的で生活実感を持った存在として描写されており、紀子を外部へ引き出す機能的役割を担う。

*3 新民法がもたらした新たな価値基準:1947年(昭和22年)に施行された改正民法により、家督相続や戸主の権限といった家制度は法的に廃止され、婚姻における当事者間の合意が尊重されるようになった。映画の制作時期は、この法改正に伴う社会的価値観の移行期と重なっている。

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