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泥と上澄み――小津安二郎における運命の受容と映画の倫理

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序章

日本映画史において独自の様式美を確立した小津安二郎は、同時代を代表する映画監督である溝口健二の『祇園の姉妹』(1936年)および成瀬巳喜男の『浮雲』(1955年)について、「俺には撮れない(出来ない)」という趣旨の評価を下したと伝えられている。

小津作品が国際的にも極めて高い芸術的評価を確立している今日において、彼が両者の作品に対して示したこの独自の言説は、単なる技術的な限界の告白や個人的な嗜好の相違として片付けるべきではない。それは、映画という表現媒体を通じて人間と世界をいかに認識するかという、根源的な差異を示す言葉として受け止める必要がある。

この言説の背景を読み解く上で、一つの重要な歴史的指標となるのが、1953年度の「キネマ旬報ベスト・テン」における評価の分水嶺である。日本映画の活況期にあたるこの年、第1位を獲得したのは今井正監督の『にごりえ』であった。樋口一葉の短編を基にした同作は、明治期における市井の人々の貧困や、社会構造の底辺で生きる女性の過酷な運命、そして人間の内面に渦巻く情念を、リアリズムの手法を用いて克明に描き出した作品である。
一方、現在では小津の代表作として国際的に評価が定着している『東京物語』(1953年)は第2位、そして溝口健二の『雨月物語』が第3位に続いている。

当時の批評界が『にごりえ』に第一位の評価を与えた事実は、その頃の映画芸術に対して「社会の矛盾や人間の直接的な感情(本論ではこれを比喩的に「泥」と定義する)をいかに鋭く告発し、表現するか」という点が強く求められていたことを示唆している。
溝口が『祇園の姉妹』で描いた花街の搾取構造や、成瀬が『浮雲』で描いた人間同士の逃れられない情欲もまた、この「泥」に属する主題である。
彼らは人間の自由意志や感情の摩擦がもたらす悲劇を、カメラの流動的な移動や人物の写実的な身体表現を通じてフィルムに定着させた。

対照的に小津は、『東京物語』において家族の解体や老いという普遍的な主題を扱いながらも、登場人物たちに感情を直接的に表出させることはなく、極めて抑制された台詞回しと固定されたカメラワークによって、それらを静謐な諦観へと昇華させている。他監督が映画の推進力としていた直接的な情念や社会的な「泥」を、自身の作品世界から意図的かつ周到に排除しているのである。

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