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成瀬巳喜男の空間設計における「非同期の並行回路」に関する力学的考察:チンドン屋の蛇行が要請する、劇的意味の解体とコミュニケーションの不全機構3

第二章:空間と時間の力学——「速度の遅い蛇行」の機能

前章において、成瀬巳喜男の映画空間に挿入されるチンドン屋の行進を、物語的因果律から切断された「非同期の並行回路」として規定した。

本章では、この回路が画面内においていかなる物理的運動として現前し、作品の空間および時間構造にいかなる力学的干渉を及ぼしているかを検証していく。

分析の焦点は、彼らに与えられた独自の運動法則である「速度の遅い蛇行」に絞られる。

2-1. ベクトルの無効化と空間の走査(スキャニング)

映画において「被写体の移動」とは、原則として物語上の要請に基づく目的論的な運動である。

成瀬作品の主人公たち——とりわけ経済的困窮や人間関係の破綻に直面する女性たち——の「歩行」は、その最たる例であろう。

彼女たちの歩行は、借金の工面先へ向かう、あるいは因習的な関係から逃走するといった明確な目的地と切実な動機に裏打ちされている。

物理学の概念をアナロジーとして援用するならば、主人公の移動は、始点と終点、そして方向性を持った「ベクトル(有向線分)」として画面を規定する。

これに対し、チンドン屋の運動は構造的に異なる力学によって駆動している。

彼らには画面内において到達すべき目的地が存在しない。

彼らの目的は、特定の地点へ移動することではなく、路地という限られた空間に音響と視覚のノイズを「充満させる」ことにある。

それゆえに、彼らの運動は直線ではなく、右へ左へと振幅を繰り返す「蛇行」となる。

方向性を喪失し、ただ空間を埋め尽くすためのこの運動は、ベクトルに対する「スカラー(大きさのみを持つ量)」への変質を意味する[注1]。

この「蛇行」は、単なる演出上のアクセントではない。

成瀬の構築するセット、すなわち見通しが悪く、歪み、迷宮的な路地(トポロジー)の空間的制約が要請する物理的応答である。

チンドン屋は、意志を持った人間というよりはむしろ、地形の勾配に従って流れる「川」、あるいは地面の凹凸をなぞりながら進む「蛇」のような、低エネルギーの流体として機能している。

彼らがゆっくりと蛇行する時、その軌跡は路地の横幅と奥行きを物理的になぞり、観客に対してその空間がいかに狭隘で閉鎖的な領域(ドメイン)であるかを立体的に証明する。

すなわち、この蛇行は、空間の限界を測量し、隠された環境の構造を抽出する「走査(スキャニング)」のプロセスに他ならない。

主人公がどれほど強い意志(ベクトル)を持って歩行しようとも、このチンドン屋による力学的な空間の走査が並行して実行されることによって、「この停滞した環境(フィールド)からは決して抜け出せない」という空間的閉塞感が、台詞に頼ることなく論理的必然性をもって提示されるのである。

2-2. 時間の粘度:ドラマの加速に対する定数としての「遅さ」

空間の走査と同時に、チンドン屋の「遅い蛇行」は、映画の時間構造に対しても力学的な干渉を行う。

ここでは、主観的な「劇的時間」と、客観的な「物理的時間」の衝突が問題となる。

ドラマツルギーにおいて、映画の場面転換やシークエンスの導入部は、通常、次の劇的展開に向けて物語の推進力を再起動させるための助走期間として機能する。

観客の意識もまた、新たな展開を予期して没入を深める。

しかし成瀬は、情動の極点においてではなく、まさにこうした劇的起伏の乏しい場面の移行や、日常的な時間が接続される結節点において、路地を通過するチンドン屋をごく自然に配置する。

ここで重要なのは、彼らの運動が相対的に「遅い」という事実である。

この「遅さ」は、劇的展開を求める主観的渇望の変数に対する、変更不可能な「定数(Constant)」として作用する。

素早く通り過ぎる直線的な移動であれば、それは場面転換の単なる句読点として処理され、ドラマの進行は維持される。

しかしながら、彼らはゆっくりと蛇行を繰り返すため、そのノイズは画面内に停滞的に持続し、上映時間を無目的に消費し続ける。

この処理時間の意図的な浪費は、映画全体のテンポに対する強力な摩擦(ドラッグ)となり、時間の流れに持続的な「粘度」を発生させる[注2]。

「個人の人生にどれほどの劇的な悲劇が起きようとも、生存と経済活動を基盤とする日常の時間は、決してそれに同調して加速したり止まったりはしない。

それは常に鈍く、重く、無関心に持続する」——成瀬は、この熱力学的なエントロピーの法則とも呼ぶべき不可逆な現実を、単なる世界観としてではなく、チンドン屋の「遅さ」という物理的パラメーターによって画面に強制適用しているのだ(ここで用いるエントロピーとは、あくまで物語的エネルギーの均質化プロセスを記述するための構造的メタファーとして機能する)。

観客は、この遅い蛇行を見せられることで、ドラマへの情緒的同調から強制的に引き剥がされ、現実世界の自律的な時間の持続へと直面させられる。

2-3. 小津システムとの構造的非互換性

成瀬巳喜男の構築したこの「非同期の並行回路」の特質をより正確に輪郭づけるためには、同時代において対極の空間設計を確立していた小津安二郎のシステムとの比較検討が極めて有効である。

結論から言えば、小津の映画システムにおいて、チンドン屋というモジュールをコンパイル(配置)することは、幾何学的にも時間論的にも困難であろう。

小津の画面構成は、一貫したローアングルと、消失点に向かって収束する厳格な透視図法、そして被写体をカメラに対して正面あるいは直角に配置する「垂直・水平・直線」のユークリッド幾何学によって統制されている[注3]。

小津の空間において、移動とは常に計算し尽くされた直線的なベクトルである。

この高度に純化された静的均衡の中へ、横方向への不規則な振幅を伴う「蛇行」を導入することは、システムそのものの幾何学的な崩壊を意味する。

また時間・音響の側面においても、両者の非互換性は明白である。

小津の映画は、時計の秒針や一定のテンポを刻む劇伴などに象徴されるように、メトロノームのように厳密に管理された「同期的なリズム(拍節)」によって進行する。

小津が作品内でパチンコ屋からの音響として『軍艦マーチ』をしばしば導入する事実は、この非互換性の反証となるどころか、むしろ理論の強力な裏付けとして機能するであろう。

軍隊行進曲という極めて規則的で数学的な拍節を持つ音響は、小津の空間において混沌としたノイズではなく、彼が志向する幾何学的な時間の秩序を強固に下支えする「同期されたパルス」に他ならない。

小津にとって音響とは、いかに世俗的な事象に由来しようとも、空間の秩序を維持するための厳格な句読点でなければならないのである。

対して、チンドン屋が発する音は、管楽器と打楽器が不規則に混ざり合い、切れ目なく空間に充満する持続音(ドローン)に近い[注4]。

この無機質で非同期的なノイズは、小津が設計した規則的な時間を構造的に阻害する「異物」として作用する。

小津安二郎は、画面からノイズ(不純物や無意味な蛇行)を排除し、形式の純度を高めることによって、高度な形式的完結性へと到達する「クローズド・システム(閉鎖系)」を構築した。

それとは対照的に、成瀬巳喜男は、非劇的な運動を、その不規則な蛇行とノイズを保ったまま、ドラマの中心へと並置する「オープン・システム(開放系)」を選択したのである。

小津のシステムが「意味を純化するための排除」を要請したとすれば、成瀬のシステムは「意味の優位性を解体するためのノイズの受容」を要請している。

次章では、この画面内に許容されたノイズが、登場人物たち——とりわけ大人と子供——によってどのように受信され、あるいはフィルタリングされているかという「観測の非対称性」の構造を解き明かしていく。


【第二章 脚注】

  • [注1] スカラーは「温度」や「質量」のように方向を持たず大きさのみで規定される物理量であり、ベクトルは「速度」や「力」のように方向性を持つ。劇的推進力(ベクトル)が、路地という空間においてチンドン屋の無目的なノイズ(スカラー)へと変換される事態を指す。

  • [注2] 流体力学における粘度(Viscosity)のアナロジー。流体が移動する際に生じる内部摩擦であり、ここでは「ドラマの進行」という流れに対する、環境ノイズが引き起こす時間的抵抗を意味する。

  • [注3] 小津安二郎の画面構成における幾何学的統制について。もちろん小津の画面において運動要素が皆無なわけではない。例えば『麦秋』(1951年)において、しばしば静止していると誤認・言及される犬が、実際には画面内で明確な運動(移動)を見せているように、微視的な運動は存在する。しかし、それらの運動もまたフレームの厳格な幾何学のリズムと同期するよう高度に従属させられており、成瀬のような「非同期の蛇行」とは決定的に性質を異にする。

  • [注4] 音楽理論・音響学において、楽曲の進行に関わらず、持続的に鳴り続ける単一の音階や和音(Drone)。変化するメロディ(ドラマ)の基底において、変化しない音響空間を形成する。

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