『シビル・ウォー アメリカ最後の日(監督:アレックス・ガーランド)』を見ました
WARFAREよりも先に見るつもりでマイリス登録していたが、何となく後回しになっていたのをようやく見ることができた。
取り扱われるテーマについては今更自分が言及するまでもないが、やはり現実がフィクションに近づいていると感じてしまうのは恐ろしいことだと思う。
分断主義の加速が行き着く先が、アメリカ内戦で留まるのか、はたまた世界を巻き込んだ熱戦になるかの判断は難しい。
本来なら、ジャーナリズムの力で民衆のひとりひとりが真に目指すべき平和な世界を希求するように啓蒙することが理想的なのだろう。
しかし、報道の力も万能ではない。
むしろ公平中立であろうとする姿勢そのものが無意味であるようにも感じてしまう。
D.Cを目指したリーたちの旅は過酷だった。現実の戦場カメラマンも同じだと思う。
彼らの撮影した写真は何を伝えるのだろう。
写真そのものに価値があるのではなく、見る者の解釈に価値が生まれるのだとしたら、報道もまた分断と暴力に加担することになるではないだろうか。かと言って、全く報道が存在しない世界を信じられるほどに人間の善性は信頼されていないことも想像できる。
この矛盾にもがき、考え続けることを促すことが唯一にして絶対の「意味」である。
映像、特にラストのホワイトハウスに進軍するシーンは、アメリカの都市のど真ん中で(自国の)戦車と兵士が行き交い、ミサイルと戦闘ヘリが飛び交って戦うという衝撃も相まってとても印象的だった。
極致的には、ブラックホーク・ダウンの市街戦を超える「都市戦」のリアルを写した映像になっているようにも思える。
もちろん映画的な誇張もあるが、その塩梅が絶妙だった。
音楽についてはA24のお家芸なのだろうか、終始映像とは不似合い(だと筆者は思う)なものが流れていた印象だ。
明るいシーンで暗い曲、残酷なシーンでポップな曲、カタルシスのないエンディング。
良い悪いではなく、見ている最中に気持ち悪くなるような選曲だ。
それだけこだわり抜かれたチョイスが、正解のない映画のテーマの伝達に成功していると思う。
捉え方によっては夢のように映像を曖昧にしている印象もあるが、残念ながら現実の方がこの映画に近い。
誰も未来のことはわからない。
映画の中で内戦から意図的に距離を置く人々が何度か登場する。
客観的に見れば彼らの行いは生存という意味では正解に思える。しかし、当事者からはまた違って見えるものがあるのだろう。リーやジェシーが自ら戦場に飛び込むことを選んだように傍観することをやめるものだっている。
大切なのは尊重だ。
「人は人、我は我」という無関心の精神の裏側には互いを尊重するという意味も含まれている。
私は痛みは嫌いだが、良い意味で互いが無関心でも生きられる世界を願ってやまない。
ジャーナリズムが滅亡するとき、人の悪性もまた淘汰されることを強く祈っている。
