【小説】偽りなき偽善 #4
旭川へ戻るため、今度は「特急カムイ」に乗った私はシートにぐったりともたれ、萬波との二十五年ぶりの再会を反芻していた。
「萬波ちゃん……久しぶり。びっくりだよ、若いね、四十歳には見えないよ」
私はバツが悪いのをこらえ、必死に懐かしそうな表情を作りながら、当たり障りのないコメントで時間を繋いだ。自分でも信じられないことだが、彼女が中学の同級生だったという情報が私の脳みそからスコンと抜けていて、あの場で会うことなど一ミリも想像していなかったのだ。
「会いたかったよぉ。馨ちゃん、どうしてるかなって、母ともときどき話してたの」
萬波が目を細める。
「……本当に? おばさんも元気?」
「うん、元気だよ。あ、ちなみに父も元気だよ」
萬波とは小学校へ上がる前から同じ団地でずっと一緒に過ごしてきた。昭和五十年代後半に次々と建てられた公団住宅は「夢の賃貸住宅」と呼ばれ、入居倍率は数十倍、当選したことはちょっとしたステータスだったと母から聞かされたことがある。低収入という条件に合致して叶った入居なのに、ステータスも減ったくれもあるか、と高校生の頃には白けた目を母に向けていた。
全く同じ形をしたクリーム色の団地十棟にぐるっと取り囲まれた公園で、未就学児でも一人で遊べていた時代。萬波と私は、気づけばそこで友達になっていた。
「そっかぁ、おじさんも。きっと変わらないんだろうなぁ」
「うん、相変わらず。でもさすがに年は取ったよ」
萬波のお父さんは大工で、麻雀と海釣りを愛し、まるで漫画から飛び出してきたかのような「親父さん」の風貌をしていた。それで「萬」と「波」で「萬波」と名付けられたのだと教えてもらったのは何年生の頃だったか。
しかし萬波は、そんな豪快に名付けられた名前にもかかわらず、とても繊細で内気な子だった。
萬波が今どんな暮らしをしているのか、結婚しているのかなど訊いてみたかったが、なんとなくやめておこうと、違う話題を探していると、
「馨ちゃん、結婚してるの」
私の左手の薬指を見て萬波は言った。
「あぁ、うん、まぁ」
彼女は指輪をしていたが、ファッションリングのようだった。彼女のふっくらとした女性らしい指に良く似合うデザインの。
「今はなんていう苗字なの?」
「今は、塩沼っていう苗字。普通の塩に沼」
「へぇぇ、塩沼さんか、珍しい。じゃあもう逢見さんじゃないのね。私好きだったんだ、逢見っていう苗字。あぁ、もらいたいくらいだよ、その苗字」
萬波が少しおどけて言った。
ガタゴトと揺れる特急カムイのシートで、私は彼女の声を耳の奥に蘇らせていた。あの時、私は話題を無難に終わらせたくて、こう返した。
「それなら、うちの弟と結婚してもらえばよかったね」
このままだと心にもないことを口走り続けなくてはいけなくなる。お開きを待たずに、ここを離れようと決心したタイミングだった。
「私、そろそろ帰らなくちゃ」
「あっ、そうなの? 馨ちゃん、近々また会えない?」
「私、今旭川に住んでてね。近いのになかなか帰ってなくて……」
「そうなんだ。お子さんはいるの?」
「うん、娘が一人。今中二なんだ」
萬波と私が徐々に疎遠になっていったのも中二。その頃の記憶に二人で潜りたくなどないのに、うっかり娘の学年まで伝えていた。
「そっかぁ……多感な時期だよね」
「……そうだね。じゃ、電車の時間もあるし、そろそろ行くね。会えてよかった、ありがとう」
心にもないことをまた口走っていた。
「馨ちゃん、LINE交換してくれる?」
「あ、うん、もちろん……」
うまく笑えていただろうか。私は心の中で顔をひきつらせたまま、形式的に連絡先交換を終えた。
暗い夜の底を走る列車の窓ガラスに、うまく笑えていなかったであろう自分の疲れた顔が映っている。本当は、電車の時間など決まってはおらず、夜十時の最終にさえ間に合えばよかった。二十一時のお開き後に喫茶店に行く時間だってあったのだ。
今、旭川へ戻る列車の中で初めて思う。私は今、札幌に住んでいなくて良かったかも、と。
萬波の私に対する感情は、あまりにも複雑な成分を含んでいたから。
小学六年生の頃、萬波はすでに身長が一メートル七十センチ近くあった。一方の私は一メートルと三十二センチしかなく、学年一大きい女子と小さい女子の二人組だった。
二人で学校へ向かう時、帰る時、心ない言葉をかけてくる子どもたちがいた。
「すんごいでこぼこコンビ」
「ゾウとネズミだな」
そう言われると萬波は毎回顔を真っ赤にして下を向く。泣くのをこらえているときもあった。それを見て、「私より萬波ちゃんの方が嫌な気持ちなんだな」と感じていた。背の低い私といると萬波は目立ってしまうゆえ、なんとなく私と一緒にいないほうがいいのではないかと思うこともあった。
しかし、あまりにも毎回泣き顔になるので、イライラする日もあった。そんな顔をするから余計言われちゃうんだよ、と。帰宅後は何事もなかったかのように、どちらかの家で雑誌や漫画を持ち寄って読むのが常だった。
二人きりの空間では私は萬波の妹のようだったと思う。体の大きな彼女にもたれかかり、甘えるような態度を取った。それを萬波も喜んでいる節があり、余計にそうしていた気がする。
私は少女漫画の月刊誌「りぼん」を一冊買ってもらうだけで精一杯だったが、彼女は「りぼん」のほかに「花とゆめ」も買ってもらっていた。「花とゆめ」は「りぼん」よりはお姉さん向けで、キスシーン以上の描写もあった。萬波は気前よく私にも貸してくれて、私は時間を忘れて夢中になって読んだ。
「萬波ちゃん、なんか恥ずかしくない? それ買ってもらうの……おばさんダメって言わない?」
「うちはお母さんも読むから、全然大丈夫」
私は心底驚いた。私の家ではありえないことだ。小学生のうちは、二十一時以降のテレビドラマは見せてもらえなかったし、仮にキスシーンが画面に映れば何も言わずにチャンネルを変えられた。「性」が完全にタブーだった我が家。
「萬波ちゃんちは、なんかいいなぁ」
いろんな「家」や「母娘関係」があることを最初に教えてくれたのは萬波だったように思う。
羨ましいのはそれだけじゃなかった。
萬波と私が住む団地は、別棟ではあったが間取りは同じ二LDKで、十二畳のLDKと六畳の居室が二つ。我が家の居室は男女別だった。父と四歳下の弟で一部屋、母と私で一部屋。そういうものだと思っていたら、萬波の家は三つ上の兄に一部屋、両親で一部屋、萬波はリビングの片隅に仕切られた空間を作ってもらい、そこを一人部屋のように使っていた。夜は両親の部屋で一緒に寝ているという。
「見掛け倒しの背広を着て」
「甲斐性のない男」
我が家には、そう言ってなじる母と、まるで聞こえていないかのように黙っている父がいた。そんな両親が六畳の同室で過ごすことなど一切想像できなかったので、萬波の家の部屋割りは私にとって新鮮だった。彼女の家を思い出すと、どこかオレンジ色の光がふわふわと漂う柔らかい春のような光景が浮かぶ。
萬波のことを、大人になってからは特に思い返すことなどなかったのに、一つエピソードを思い出すだけで、湯がいたアサリのように次々と記憶の貝殻が開いていくようだ。
あっという間に旭川駅に着き、時計を見ると最終バスはもうないことに気づく。札幌を出る頃に羽織ったカーディガンでは震えてしまい、フリースが欲しいほどだった。真司が転職後にローンを組んで買った家は駅から歩いて帰れる距離ではなく、タクシーに乗るしかない。こんなとき、普通の夫婦なら夫に迎えを頼むのだろうか。私たちにはそんなお願いができるほどの親密さはすでになかった。
帰宅すると、どの部屋も明かりが消えていたので、私はそっと佑香の部屋を覗いた。娘の眠っている顔を見て、ホッとして自室へ戻った。
翌日日曜日、私は溜まっていた洗濯物を洗い、朝ごはんの用意をしながら、新聞を読んでいる夫に礼を述べた。
「昨日はありがとう。佑香とどこへ行ったの」
「夕方早めにトリトンに行って、そのあとコーチャンフォーに行ってきた」
「へぇ、お寿司の後に本屋さんなんて最高のコース。佑香、良かったね」
テレビを観ていた佑香は、こちらを振り返ることもなくうなずいた。
「何か本買ってもらったの」
佑香が答えない代わりに、真司が答えた。
「道内出身の作家特集っていうコーナーで、佑香が気に入ったのがあったから一冊だけ」
「そうなんだ。佑香、よかったらお母さんにも見せてね」
「……うん」
佑香の無口っぷりが加速している気がした。反抗期に入ってしまったのだろうか。昨日、佑香を連れ出してくれたことには感謝するが、一緒に楽しい時間を過ごしただろう真司に、不覚にも嫉妬している自分がいる。それに夫も娘も、「同窓会は楽しかった?」の一言もないことも虚しい。訊かれたところで返答に困るだけか、と思い直したその時、家の電話が鳴った。
固定電話にかかってくるのは今時、学校か、セールスか、詐欺くらいなものだ。あるいは、私の母親か。
「はい、もしもし」
最近はこちらから「塩沼です」と名乗らないようにしている。
「…………」
「あの、もしもし。どちら様でしょうか」
「…………」
間違い電話なら早く切ればいいのに。黙ったままの相手に私は苛立ち、電話を切った。
この日をきっかけに、私の日常が崩れていくなんて思いもせずに。
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