見出し画像

【小説】偽りなき偽善 #8

 あと一ヶ月で冬休みという頃、私は生徒会室に入り浸るようになっていた。放課後、いつも誰かが鍵を開けて過ごしていて、会議のない日も、自然と足が向いた。

 萬波のことは、朝迎えに行く日もあれば、行かない日もあった。もはや、私にとってそれは「パフォーマンス」でしかなくなっていた。誘ったって、どうせ行かないだろう。そんな諦めの上に重ねた形式的な誘いであることを、萬波にはとっくに見抜かれている気がした。そして、その答え合わせをするのが怖くて、ますます足が遠のいた。もし、先生やおばさんに「最近迎えに行ってる?」「どうして迎えに来てくれないの」などと訊かれたら、
「ちょっと朝、ギリギリになっちゃって」
「迎えに行っても負担に思わせると思って」などの言い訳を、心の中で用意していた。

 教室での私は、絢子たちのグループからは完全に浮き上がっていた。クラス内でまともに言葉を交わせるのは、萬波が休み出す前からの友人である宏美くらいのものだった。教室という場所そのものが、私にはもう、ひどく居心地の悪いものになっていた。

 生徒会室には、変なノリや笑いの強要がない。相手をおもんぱかるのが当たり前の雰囲気。私が求めていたのはこんな場所だったのだ。一人になりたい、と思わないでいられる空間を、やっと見つけた。

 生徒会室で気になる男子がいた。
 中一から放送委員で、存在だけは知っていた松岡大樹まつおかだいき。私と同様、そのまま委員長になった彼は、給食時間に変わった曲を流すことで有名だった。懐メロなのか、最新曲なのか、私にはわからなかった。また、一人ボソボソとつぶやくようなアナウンスに、皆なぜか吹き出してしまう。
「松岡ウケるんだけど。変な曲やめて、SPEEDか朋ちゃん流してほしいよね」
 絢子は取り巻きたちとそう笑っていた。
 ただ、前年度の女性の放送委員長と大樹は「デキている」という噂があった。彼は、当時学年に二、三人いた、いわゆる「モテるタイプ」とは一線を画しながら、不思議なオーラで人を惹きつける深海生物のようだった。

 ある日生徒会が終わって、恭子と二人で帰っていると、
「私、松岡くん好きかもしれない」
恭子がそう言ったとき、私には「先を越された」といった感覚はなく、「小学生の頃からの友人が、ついにティーン文庫から離れてリアルな恋に目覚めた」と、どこか遠い町の新聞記事の見出しのような言葉がぼんやりと浮かんだだけだった。

 気づけば彼女はよく大樹と話していた。大樹が変なことを言って、恭子が爆笑している。
 その光景が目に入ったとき、私は初めて、
「あ、自分も大樹を好きなのかもしれない」と気づいた。恭子に取られたくない。しかし、大樹は先輩と付き合っているようだし、どのみち我々の思いは届かないだろう。どこか切なくもそう安心していた。自宅の方角が同じだった私たちは、三人で帰宅することも増えたが、私が塾で途中から別方向になるときは、恭子と大樹がふたりになる。そのたびに私は、塾を休みたい衝動に駆られた。

「馨、聞いて。私、松岡くんに告っちゃった」
 ある日の帰り道、恭子から聞かされた言葉に、私は立ち尽くした。
「え、だって彼は先輩と付き合ってるんじゃないの」
「先輩に好きな人できたんだって。松岡くん、めっちゃ落ち込んでて、私……もうあれは言うしかなかった」
 頬を赤くしながら、照れて笑う恭子。いつも笑顔で、前向きで、後ろ暗さのない恭子がまぶしかった。そしてその明るさが、アンニュイな大樹の雰囲気とは不釣り合いだとも──

「全然お似合いじゃない。フラれてほしい」
 そう念じていたのに、恭子の恋は実ってしまった。

 生徒会室は、私の居場所ではなくなってしまった。

 夜、勉強しているふりをしながら、イヤホンで華原朋美のアルバムをずっと聴いていた。恋人プロデューサーとの甘美な歌詞とメロディ。幸せそうな歌声に泣けた。切なさで押しつぶされそうなこの胸に与えるショック療法のようだった。

 そんなある日、昼休みに階段でばったり会った飯田くんから声をかけられた。
「逢見、ちょっとお願いがあって」
「お願い? 何?」
「今日、四時に北階段の三階に来てくれないかな」
「いいけど……生徒会室じゃだめなの?」
「うん、他の人のいないところがいい」
「……うん、わかった」
なんで階段? これじゃまるで告白される流れみたい、と「りぼん」でよく見たような展開を想像したが、あの飯田くんに限ってそれはないわ、と打ち消した。

 北階段の三階というのは校舎の端っこで、一部倉庫化し、柔道のマットなどが置いてある。広報委員と会計に関係のある話で、他の人に知られてはいけない件なんてあっただろうかと思いながら、私は北階段の三階へ向かった。

 ほこりっぽい匂いの中、飯田くんは柔道マットの上に腰を下ろしていた。
「あ、ごめん、遅くなって」
「いや……あのさ、逢見にお願いがあるんだけど」
彼は立ち上がり、こちらに近づいた。思い詰めたような表情に私は一瞬たじろぐ。
「俺、逢見のことが好きなんだよね」
「えっ?」

 スキナンダヨネ──
 音と意味が結びつかない。鼓動が急に静まり、喉の粘膜が内側に張り付いたように固まって、カラカラだ。声が出ない。飯田くんが、私を?

 そのあとも何かを言われたけれど、あまり記憶がない。覚えているのは、なぜ彼が生徒会に立候補したのか、という話だった。
 ひとつは、内申点のため。
 もうひとつは、逢見が広報部の委員長になるんじゃないかって思っていたから──

「逢見はさ……松岡のこと好きなの?」
 私はのぼせきって乾いたミイラのようにその場に立ち尽くした。バレてる。そんなにわかりやすかったのか……?
「いや、うん、好き、なのかな。でも、よくわかんない」
喉から絞り出すように言った。嘘をつかないほうがいい、という正直さと、本当のことを言っていいのかという遠慮が脳内で忙しなく交錯していた。
「とりあえず、ごめん、じゃあ……」
それだけを何とか口にして、私は逃げるようにその場を後にすることしかできなかった。

 その日、私はやっぱり大樹のことが好きなのだとはっきり自覚した。でも、同時にそれは決定的な失恋でもあった。泥水に色水をバシャッとかけられたみたいに、もう何がなんだかわからない。 帰宅してベッドに潜り込み、大泣きした。一体、何がこんなに悲しいのかもわからないまま。

 気づくと私は夢を見ていた。夜の学校で、ずっと誰かに追いかけられている。どこかに隠れないと。ずっと何かを期待され、強要されているような──それに応えないと許されない気がした。見つからないように、学校内を逃げ回り、隠れ続けている。追い詰められて、トイレの個室に逃げ込むと、誰かがノックしながら少しずつ迫ってくる。闇と湿気。悪臭。恐怖で気を失うと同時に、私は目覚めた。

 放心状態の私に、水産物加工のパートから帰宅した母が着替えながら声をかけた。
「あんた、制服のまま寝ちゃったの。着替えなさいよ。さっきね、萬波ちゃんのお母さんとバッタリ会ったんだけど」
「夢か……あぁ、よかった」
 私が現実の世界になかなか戻れずにいる中、母はお構いなしにまくし立てる。
「萬波ちゃん、学校で書いた詩が札幌市のコンクールで選ばれたらしいよ。すごいわね。全然パッとしない子なのにね、そんな特技があったとは」
 やれやれ、と言った感じの芝居がかった口調。この人は、誰かを褒める時、刺しながら褒める癖がある。そうしなければ、何かのバランスが崩れるとでも思っているかのように。
 私は相変わらず狭い六畳間を母と使っていた。一人部屋が欲しい。萬波は今でも両親の間で眠っているだろうか。
 この萬波の栄誉は、予想外に私の心をひっかいた。
 国語の成績は私が学年トップなのだ。広報委員長で、毎月発行している校内紙の校了だって、私がやっている。言葉のセンスは私の方があるはずなのに。あんな時計が止まったくらいで泣き出すポエマー気取りがなんで──

 会議で生徒会室へ行かなければならない日は学校への足取りが重かった。行きたくないのに、それでも自らおもりをつけて、結局生徒会室の海に飛び込み、深く沈んでいく私。 
 自分に自信が持てない私にとって、成績優秀な飯田くんが私を好いているという事実が心の支えになっているのは確かだった。誰にも知られたくはないのに、みんなに言いふらしたい。優秀な人が私を好きだということは、私という人間は自分でも気づいていないほど、とんでもなく素晴らしい人間であることの証明であるような気がした。その考えがどれほど恥ずかしく、おかしいとわかっていても、そう思ってしまうことをやめられなかった。
 ただ心から残念なことに、私は飯田くんのことを好きだと思えない。好きでいてもらえることは嬉しいのに、その想いに応えられない自分がこんなにももどかしいなんて。

 明日が終業式という日の放課後、私は空からしんしんと舞う雪を、生徒会室の窓から黙って見ていた。どんなに海水が沁みても、あの教室よりはまだ泳ぎやすいここから、私は離れられない。
 私は恭子と大樹とは少し距離を置いていたし、飯田くんの顔もまともに見られないほどぎこちなかった。生徒会顧問の勝山先生から、「逢見、お前最近大丈夫か?」と声をかけられるほどには。

 その日も塾があり、一人歩いていると、後ろから誰かが追いかけてくるのを感じた。
 誰? 振り返ると、飯田くんだった。私はどうしてよいかわからなくなり逃げた。積もりかけた雪道で転ばないように──
「逢見、待って」
 ペースを上げた彼にあっという間に追いつかれてしまった。彼は正面から私を見据えて言った。
「逢見、俺は……いつになったら返事もらえるの?」
 告白されてから一ヶ月が経とうしていた。私は、なぜ飯田くんの告白を放置してしまうんだろう。「断るのがもったいない」と思っているのだ。でもこれ以上引き延ばすのはさすがにひどい──
「ごめん、飯田くんのこと、私、考えられない」
「そっか……逢見、松岡と付き合うの?」
「え……それは無理だけど……」
 大樹が恭子と付き合っていることを飯田くんは知らないんだ。心にしまいきれてなかったものが私の目から次々と溢れる。飯田くんに悪いとか、そんなことを考える余裕もなかった。飯田くんから手渡された、綺麗にアイロンのかかったハンカチを私は遠慮なく濡らし続けた。
 誰にも相手にされない私に優しくしてくれるこの人を、手放したくなかった。
 これを「キープ」と呼ぶのだとは、このときは知らなくて。

 冬休み明け、飯田くんは、植物の光合成についてまとめた資料のコピーをくれた。
「俺の勉強の内容でよければ、逢見にも渡すよ。一緒にがんばろう」
飯田くんは札幌でトップの公立校を目指しているらしかった。私とは頭の出来も違うのに、彼は私を見下すことなど一切ない。その態度がありがたくて、どうしても飯田くんに冷たくできない自分がいた。


 プルルルルルルルルルル

 あぁ、ついに三回目だ。このタイミングで来るとは。
明日は佑香の中学校へ行く日で、夕飯後、シャツにアイロンを当てていた。
前回の電話から二週間が経っていた。

 ──飯田くん。
 寂しさを紛らわせたかっただけのずるい私を、今でも恨んでいるんじゃないのか。あの日の萬波との再会ですっかり忘れていたが、耳元でささやいてきたあの言葉、「あの頃にはない色気がある」──
 思い出し、身震いした。大事な受験期に振り回された恨みを、結婚前に晴らしてやろうと飯田くんがかけてきたってことはないか。私は息を飲んで、受話器を取った。


いいなと思ったら応援しよう!

長橋 知子 いただいたサポートは、「生きててよかった」と思えることに使わせていただきます!