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【小説】偽りなき偽善 #11

 大樹を私の家に連れてくることは、一度もなかった。
 彼を、母と共用の狭い六畳間に通すなどありえなかったし、生活感丸出しの我が家が恥ずかしくてたまらなかったのだ。デートの場所はいつも、どこかへ出かけるか、大樹の家の二択だった。

 二人で過ごす初めてのクリスマス。私たちは粉雪の舞う大通公園を手を繋いでひたすら歩いた。ファミレスでささやかなディナーを済ませ、帰宅が二十時を過ぎた頃、大樹が家の近くまで送ってくれた。 しかし、最悪なことに、そのタイミングで仕事帰りの母と鉢合わせしてしまった。

「馨、あんたどこ行ってたの」
「あ、お母さん……あ、彼、生徒会で一緒だった松岡くん。図書館に行ってたの」

我ながら見え透いた嘘を。しかし、その時の私には、それ以上の無難な言い訳が思いつかなかった。

「こんばんは、初めまして」
 大樹が一歩前に出て挨拶した。しかし、母はまともに応えようともせず、
「……早く帰んなさいよ」
 ぶっきらぼうにそう言い残し、私たちに背を向け歩き出した。決まりの悪さに身がすくむ。とはいえ、母が先に視界から消えてくれたことにホッとしながら大樹を振り返った瞬間、母を見送る彼の視線に、私はドキリとさせられた。
──氷のように冷たい表情。氷点下の気温のせいだと思いたかった。

「今のがお前のお母さん?」
「あぁ、うん……初めてだよね」
「あんまりお前と似てないね」
「そう……? 確かに私は父に似てるかも」
「じゃあ、お前のお父さん、なまら可愛いな」

そんな甘いやり取りの余韻を残し、お正月明けに会う約束をして私たちは別れた。

 大樹との逢瀬の後の、現実世界への「ただいま」を告げると、母が疲労感と苛立ちを隠さずに言った。
「あんた、あの松岡って子と付き合ってるの? 大丈夫なの?」
「……大丈夫って何が?」
 もしや体の関係について詰め寄られるのではないかと、全身の血の気が引く。
「なんか私は好きになれない感じだわ。口先だけで、不誠実な感じ」
「えっ? そんなことないけど?」
 まさか彼のことをけなされるとは思ってもみず、思わず語気が強くなった。どうしてこの人は、一瞬会っただけの娘の交際相手までこうも容赦なく切り捨てられるのだろう。
「あんたは、お父さんみたいな安月給の人とは結婚しないでよ。ちゃんと将来性のある男と付き合いなさいよ」

 心底、うんざりした。そして同時に、背中に雪を入れられたような気付きがあった。 私が飯田くんの好意をハッキリと拒めずにいたのは、母から長年注がれ続けた、この「呪い」のせいだったのではないか。そんな自分の計算高さにも、ほとほと嫌気がさした。
 受験が終わったら、ちゃんと飯田くんと恭子のそれぞれに、大樹との関係を打ち明けよう。そう心に決めた。

 冬休みが明け、三学期が始まった。ぴりついた空気が漂う教室で、中休みに宏美に声をかけられた。
「馨、ちょっと話があるんだけど」
 廊下に出るよう促され、潜めた声で切り出される。
「馨、松岡くんと付き合ってるの?」

 心臓が跳ね上がった。一緒にいるところを誰かに見られたか。もう隠し通せない。観念して私は小さくうなずいた。
「実はそうなの……。受験が済んだら、ちゃんと恭子には話そうと思ってたんだけど……」
 宏美が恭子と中学一年生からの親友であることを知っていたから、私は先回りしてそう言った。
「ねぇ、ひどいよ。恭子が好きなこと知ってて、どうして?」
 宏美の非難の視線がまっすぐに突き刺さる。
「そうだけど……私……私も好きだったから。松岡くんが恭子と別れた後、彼から告白されて……」
 ありえない、と言わんばかりの顔で、宏美は私を凝視した。
──何がいけなかったのだろう。言い出せなくて困っていただけで、受験が終われば打ち明けるつもりだった。どうしてここまで一方的に責められなければならないのだろう。

「問題はさ、馨が恭子に本音を言ってなかったことだと思うよ」
 呆れ果てたような宏美の言葉に、私はただ、うなだれるしかなかった。

 私の通う塾では、受験対策の集中講義が始まった。文字通りわき目も振らずに、受験当日に一点でも多くの点数を取らなければといよいよスイッチが入った。週に一度、大樹とは固定電話で毎週決まった時間に十分間の電話をすることを決めていたが、電話の向こうの彼は、今までの彼の様子とは異なった。

「お前はいいよ。曲がりなりにも進学校だもん。所詮俺は、お前の高校よりレベルの低い男子校だしさ」
 彼は親の勧めで、商業高校を受験予定だった。それまでは、自分の受験する学校に対して不満を漏らしたりしていなかったのに、受験直前になって弱音を吐くことが増えた。私は、彼の語彙力や面白さは頭の良さから来ていると信じていたが、それが学校の成績とリンクしていないということは、交際してから知った。それでも彼の魅力は変わらない。私は毎回そう伝えて電話を終えていた。二人で、この大変な時期を乗り越えて、春を迎えたかった。

 二月のある日、私の家の郵便受けに切手のない手紙が投かんされていた。差出人は萬波で、淡いハートのデザインの彼女らしいデザインの便せんに、可愛い丸文字が並んでいた。

Dear かおるちゃん

受験勉強はどうですか。きっと大変だと思います。
となりの町に引っ越しすることになりました。
前に会ったときに言いそびれちゃって・・・ごめんね。
自分の部屋ももらえる予定だから、良かったら今度遊びに来て。
春から高校生だね。お互い、楽しもうね。
かおるちゃんとこの団地で仲良くしてもらえて嬉しかったです。
ありがとう。
体に気を付けて、がんばって。

p.s.卒業式はきっと行かないと思うけど、行けたら行くね。

From   まなみ

──萬波ちゃん、この狭い団地からとうとう卒業するんだね。
 私はいくらかの感傷と羨望とともに、手紙を机の引き出しにしまった。


 卒業式に萬波は来なかった。

 「お似合いだよ、おめでとう」
 卒業式では、笑顔で恭子にそう言われ、自分の薄情さに居たたまれなくなった。

「お幸せに。俺を選ばなかったことを後悔させるからね」
 そんな飯田くんの冗談のようなセリフには少し笑ってしまった。
「飯田くん、色々ありがとう」
「こちらこそ」
彼が差し出した手を、私は握った。
間違いなく、恭子も飯田くんも「いいヤツ」なんだろう。私もいつか、そうなれるんだろうか。

 春、大樹も私もそれぞれの志望校に合格し、春休みは感傷的な気分と新天地への期待とがないまぜになった心のまま、彼との蜜月に溺れた。

 しかし、高校生になって新生活に慣れてきた頃、大樹の態度に変化を感じるようになる。
「なぁ、あの学校祭の俺のIZAM、よかったよね?」
「うん、大ウケしてたね。私は感動して泣いちゃったけど」
「だろ? それに比べてさ、飯田の劇、ヤバくなかった?」
「……ヤバいのかは知らないけど、ウケてはいなかったかもね」
「いや、あれは相当サムいって。大コケ?」

 なぜ半年以上前のことを蒸し返して、わざわざけなすのだろう。中学生の頃、大樹が飯田くんと生徒会室でしゃべっているところを見たことはなかったが、ケンカしたところを見たこともない。私に対する飯田くんの態度に気づいてはいたのだろうが、彼が飯田くんを気にする必要などどこにもないのに。不必要に同級生を下げることで、大樹が自分の価値まで下げているみたいで、悲しかった。

 ある日、学校帰りに待ち合わせてデートしている時のこと。
 中学の生徒会で元図書委員長だった女子が、高校で野球部のマネージャーをやることにしたらしい、という話を友人から聞いたので、大樹に話した。すると彼は、鼻で笑いながら、こう言った。
「あぁ、あの人って母子家庭だったよね。いかにも、って感じだね」

 言葉を失った。彼の言わんとすることをなんとなく理解できてしまう自分も嫌だった。しかしそれ以上に、あえてそれを口にし、悪意をむき出しにする彼にショックを受けた。あのIZAMになりきってステージ上で輝いていた彼と、今目の前にいる彼は、同一人物……?
 私の心にはうっすらと失望が積み重なっていった。

 大樹のことは、名前の通り、心も体も大きな人だと思っていた。だけど、私はもしかして彼を買い被りすぎていたのかもしれない。一度そう思ってしまったら、あとは答え合わせをするような出来事で埋められていく。とうとう私は、大樹が色褪せていくのを見過ごせなくなった。
 そうして、夏休み明けには、別れを告げた。

 自信満々に見えていた大樹は、本当は自信がなかったのだろう。自信なんて、私もなかったけれど。だからこそ、彼を必要としたのだ。
 けれど、偏差値というふるいにかけられて、自分の居場所や価値が揺らいでいた大樹はきっと怯えていた。自分を「深海生物」のように見せて思わせぶりなポーズを取り、自分より上のレベルだと認識した人を嘲笑うことでしか自分を守れなかったのだ。

「恋」というのは、その人がどこに所属しているかによって、生きたり死んだりしてしまうのだろうか。どこにいたって変わらない「恋」は存在しないのだろうか。もしも、あのままレベル分けのない、彼が注目される世界──岩南中学校の生徒でずっといられたなら、私は大樹の潰された自尊心や卑屈さを見ることもなく、ずっと一緒いられたのだろうか。
 彼に対する失望に目を瞑ることもできなかったのに、永遠を望んだ大樹との時間が私の人生から忽然と消えてしまった事実に、途方もない喪失感を味わった。


 中学生から高校生にかけてのあの濃密な体験に、二十五年の時を経て、私は思いを馳せていた。
 そのとき、恭子の顔が脳裏に浮かんだ。
 彼女は、大樹のそんな闇の部分に気づかないままお別れしただろう。仮に、もし気づいたとしても、あの明るい性格の彼女なら、彼のことを嫌いにはならなかったかもしれない。
 ──そんなに簡単に別れるくらいなら、私が欲しかったのに。
 ふいに、そんな言葉で彼女から責められる映像が浮かんだ。

 プルルルルルルルルルル

 もしかしたらこの電話は……
 私はある予感を持って、受話器を持ち上げた。



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