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【小説】偽りなき偽善 #9

 自分の手が意外と震えていないことに気づく。あの頃に比べて私もずいぶんと図太くなったものだ。
「もしもし」
 飯田くんなの? と心の中で呼びかける。相手は息をひそめて、電話の向こうで何かを考えているような気配がした。これは間違い電話などではない。「意図的に」無言電話をかけている。直感的にそう思った。
 相手を突き止めたくてしょうがない。気味の悪さよりも、知りたい気持ちが止められない。今日は、私から切るようなことはしない。

──飯田くん、結婚するんでしょ、エリートの彼女と。もう私に用なんてないはずだよ。おめでとう。
──いや、逢見が一番なんだよ。今だって本当は……

そんな会話を脳内に繰り広げ、ニヤニヤしている自分がいた。
「相手が自分をまだ想っている妄想」はなんと愉しいのだろう。

 あるいは、飯田くんじゃなくて。
──あんたのせいで、私の婚期が遅れたわ。圭太郎はずっとあんたを忘れられなかったのよ。
──千鶴さん、それは誤解です。あなたのような素敵な人がいて、私なんて……
──白々しい。彼をもてあそんだくせに。彼はずっとあなたに執着してる。アレの最中にあなたの名を呼んだことだって……
──逃げても逃げても彼が私を追ってくるの。あなたも彼を追わせてみたら? エリートなのにそんなこともできないの。

……バシン!

 意志の強い目尻を吊り上げ、漆黒のロングヘアを振り乱した千鶴に平手打ちされる映像が浮かんだ。私は目をギュッと閉じる。
 電話は無言のままだ。

 これから結婚する二人。東京で高尚な仕事をこなす二人。旭川にいる私にわざわざ電話なんてしてくるわけない……か。
 利己でパンパンに膨らませた妄想の風船を自らの手で割るように、私はつぶやいた。

「そんな暇なわけ、ないか……」

 そう言うと、電話の向こうでヒュッと息を吸い込む音がして、ブツッと切れた。
 私は、しばらく電話機の前で考え込んでいた。


 中二の冬休み。まだ正月気分の抜けきらないある日、家でひとりぼんやりとテレビを観ていると、電話のベルが鳴った。
「馨……今からちょっと話せない?」
 涙声の恭子。ただ事ではない様子に、あろうことか私は心が浮き立つ。笑みで崩れそうな顔を必死で真顔に矯正しながら、互いの家の間にある公園へ向かった。

「馨……」
「恭子、どうしたの」
 泣き晴らした彼女の顔を見て、私は予感が当たっていることを確信した。

「松岡くんにね、フラれた」
「なんで……」
 さも心外そうに私は言った。
「わかんない。お前のこと好きかどうかよくわかんないって。まだ二ヶ月だよ。これからだったのに。私たち……まだキスもしてなかったんだよ」
 ゴーンと頭を殴られたような衝撃が走る。キスもしてない……間一髪、彼の唇が恭子に奪われずに済んだ安堵と焦りに、体がぐにゃりと曲がりそう。
「そっかぁ……」
私はそれきり何も言えず、ただ、さめざめと泣き続ける恭子の横で、大樹のことをずっと考えていた。


プルルルルルルルルルル 

 午前中、電話が鳴った。昨日の夜かかってきてから、まだ一日も経っていない。時計を見たら十一時十一分だった。

「はい」
「あ、塩沼さんですか? あれ、今日十一時から、学校で話す予定だった件ですが、ご都合は……」
「あっ!」
 何をしていたのか。学校へ行って、佑香の担任とスクールカウンセラーと話す予定だったのに。そのために昨日、シャツにアイロンをかけていたのに。
 電話機の前で、私は何度も体を折り曲げ、佑香の担任教諭へ謝罪した。

 何をやっているんだろう。だいぶぼんやりしている。しかも一瞬でも、飯田くんかな、と思った自分がひどく滑稽だった。その可能性は限りなく低いだろう。だって彼は、いつだって正攻法で私に向かって来た。コソコソするような真似は一切せず、驚くほどストレートに追いかけてきた人なのだ。
 仮に、彼がまだ私を想っていたとしても、こんな無言電話なんて方法は取らないだろう。私が旭川に住んでいることすら知らないはずだし、彼女の千鶴がかけてくるなんてもってのほかだ――

 無言電話は、同窓生の誰でもなく、ただランダムにかけてきた変質者かもしれない。そう思い始めていた。ただ、一度回り始めてしまった回想の映写機は、次から次へと私の中にその映像を映し続けていた。


 恭子が大樹と別れたと聞いたからと言って、私はすぐに彼に接近するようなことはできなかった。それは、一度転覆して浮かび上がったボートがまたひっくり返るのを恐れる気持ちに似ていたと思う。今にも溢れだしそうな慕情を何重にも包み、私は粛々と大人しく生徒会活動をこなした。

 私たちは三年生になった。いよいよ受験生としてのプレッシャーも加わって、緊張の糸のうっすら張った日々がスタートした。

 私は萬波の家にはもう行かなくなっていた。二年生の二学期末のテストで保健室で会ったきり。詩のコンクールに入賞したと母親経由で聞かされてしまったせいで、次に会ったときは祝福の言葉を述べなきゃいけない。それが余計に鬱陶しかった。朝、迎えに行ったほうがいいと思いながらも行かない日々に、知らず知らず、罪悪感が積もっていった。
「もう迎えに行かなくていいよ」と卒業するまで誰も言ってくれないのだと、途方に暮れた。

 五月末の修学旅行では秋田、青森へ青函トンネルで渡った。正直私はこの旅行で見たもの、食べたものをほとんど覚えていない。記憶にあるのは、大樹の姿をどこにいても探していたこと。なかなか見つけられなくて、大樹と同じクラスの女子を羨ましく思ったことだけ──

 夏休み前からは、九月の学校祭に向けた話し合いが始まった。生徒会の最後の大仕事。これが終わると、任期交代。悔いなく楽しもうと決め、私は大樹への想いを鈍らせる努力した。そのうち、少しずつ、コントロールができるようになっていった。誰が見ても、普通に仲の良い同級生。冗談を言う男子に、いちいち笑う女子。誰の目から見てもありふれた光景になろうとした。
 帰り時間が一緒になりそうな時、私は忘れ物をしたふりをして教室へ戻り、二人きりにならないようにした。想いが止められなくなるのが怖かった。それでも、彼も玄関で誰かと喋っていて、成り行きで二人で帰ることになってしまったときは、さすがに平常心を保つのに苦労した。

 ある日、生徒会室で二人きりになった恭子から訊かれた。
「馨さ、松岡くんと付き合ってるとかないよね? なんか一緒にいるところを見た人がいて」
「あ、たまたま一緒に帰ることはあるけど……」 
「ねぇ、馨悪いんだけど」
 彼女は言うか言うまいか心底悩んだ表情を見せ、ついに思い切った様子で言った。
「松岡くんと二人で帰らないで」
「……なんでそんなこと」
 勝手なことを言う恭子にふつふつと怒りが湧いてくる。でもこれ以上反論してしまったら私は──
「だって私、今こんな状況で全然何も手につかないんだよ! ……私、まだ諦められない」
 初めて恭子がここまでの感情をあらわにした。彼女はいつも笑顔で、前向きで、快活で……
「でも、松岡くんと喋るの楽しいし……私」
「いや、だから、気を使ってほしいってお願いしてるの」

 待って。私も彼を好きだと言えばいいの? 恭子に言っていいの? わからない。言わなくちゃいけないような、言っちゃいけないような、何が正解なの。こういう判断がうまくできないのは、私が「いいヤツ」じゃないからだ、と気づいていた。「いい子」になるのは簡単なのに。「いい子」は周りが自分に何を期待しているか察して動けばいいだけだから。「いいヤツ」は、周りの期待と関係なく、ときに相手の期待を裏切ってでも自分で選び取った行動から滲み出る善良さ。私に欠落しているもの。痛いほどわかっていた。

 ついに、学校祭の当日。
 三年五組の大樹は、その年に流行したSHAZNAのIZAMに扮し、ヒット曲を熱唱して大ウケしていた。ごつくて全く美しくない彼にみんなが笑う中、私は彼の姿の神々しさに感動して涙ぐんでいた。
 八組の飯田くんは、劇の脚本を書いて、演出兼役者として舞台に立っていた。「バック・トゥ・ザ・フューチャー」をオマージュした内容らしかったが、私には難しくてよくわからなかった。

 明日で生徒会の任期が終わるという日、枯れ葉を踏みながら、一人学校から塾へ向かっていると、先に帰っていたはずの大樹が立ってこちらを見ていた。

「な、何?」
「逢見」

 彼は、小さな本を一冊私へ寄越した。そのタイトルを見て、私はその場に座り込んだ。

「あなたなしでは生きていけない」

 それまでの十五年間の人生の中で、いや、この後の人生の中で最も忘れられないほど、この世のあらゆるもの全てに感謝した日だった。


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