見出し画像

【小説】偽りなき偽善 #7

 次の日、私はリビングで、自分の携帯電話から固定電話に電話をかけていた。我が家の電話機の仕様を確認するためだった。

 無言電話は二回続けて来たきり、そのあとはひっそり止んだ。私の動揺を感じて、犯人はいくらか満足したのだろうか。後になってふと、着信の際に、電話機のディスプレイに何も表示がなかったことに私は気づいた。相手が非通知設定でかけてきたのか、それとも、非通知じゃなくても我が家の電話機は相手の番号を表示してくれないのかを知りたい。私は自分のスマートフォンから、「一八四」をつけたパターンと、つけないパターンで一度ずつ発信してみたところ、いずれの場合も、ディスプレイは私の携帯番号を示さなかった。

 本棚から電話機の説明書を引っ張り出して読む。電話機自体はナンバーディスプレイ対応機種であるが、表示させるにはNTTへの申し込みが必要で、有料だと書いてある。ネットで調べると、月額数百円だが、工事費には数千円かかるようだ。そして、対応した場合は、非通知の着信を拒否することができるらしい。
 つまりこのままだと、非通知の電話かそうでないか、わからないまま受け続けることになる。私は思いあぐねていた。もうかかってこないかもしれないけれど、もしかかってきたら、相手を突き止めたい。着信拒否にしてしまえば、未来永劫、誰かはわからないまま──そのほうが気味が悪い。
 我ながら馬鹿馬鹿しい好奇心だと思う。ただ、昨日ひとしきり涙を流したことで、少し憑き物が取れたような感覚があった。私はちょっと疑心暗鬼になりすぎていたのではなかったか、と。私は萬波を傷つけていただろうことを思い出すほど、彼女を疑うことなど許されないような気がした。では一体誰なのか。

 七月に入り、長く続いた旭川の朝夕の寒さも、ようやく何かを羽織れば過ごせるほどになってきた。そうしてストーブにカバーをかけた。

 結局、佑香は一学期の定期テストを受けなかった。そのことについて、夏休み前には学校へまた出向かなければならない。今後の対応を担任と、スクールカウンセラーの二人に相談させてもらう。まずは私だけが行き、状況を見て佑香もカウンセラーの先生と繋がれるようにする、という算段だ。気が滅入りそうな一方で、誰にも相談できずにいた状態から、なんらかの対応の余地があることに、信じられないほど救われていた。この時、「萬波のお母さんもこんな気持ちだったんだろうか」という思いがよぎった。


 青木先生から萬波を朝迎えに行くよう頼まれた私は、それから毎日、別棟の萬波の家のチャイムを鳴らした。
「ごめんね、今日も行かないみたい」
 おばさんが申し訳なさそうに、ドアから顔だけを覗かせて言う。 「わかりました。萬波ちゃんによろしく伝えてください」
 いつしか、それが毎朝の通例行事になっていた。

 そうしているうちに、二学期の期末テストが始まった。私は前日まで塾で居残りをして、わからないところを少しでも減らして挑んだテスト当日。「どうせ行かないだろう。なんでこんな日まで行かなきゃいけないんだろう」と内心やりきれない気持ちで、いつもより少し早く萬波の家のチャイムを鳴らした。するとおばさんが出てきて、明らかにいつもと違う高揚感をまとっている。
「馨ちゃん、今日あの子行くって。保健室でテスト受けられるみたいで、行きは私が送るわ。ありがとうね。あの子のこと、よろしくね」
「えっ、ほんとうですか? 萬波ちゃん、今日は国語と社会、がんばろうね!」
 私は部屋の中にいる萬波に声をかけ、先に出発した。

 嬉しかった。萬波が来るからじゃない。青木先生に、「逢見さんのおかげ」と褒められると思ったから。それだけで私は学校への足取りが軽くなるのを感じた。

 学校へ着き、私は、職員室にいる青木先生に声をかけた。
「先生、森さん今日お母さんと来るみたいですね!」
「あ、逢見さん。そう、保健室でテストを受けられることを伝えたら、じゃあ行こうかな、って思ってくれたみたいで。ありがとうね」
 その言葉だけで、毎朝の義務を果たせたような、報われた思いがした。

 試験が終わり、給食の時間になった。国語は得意なので問題ないが、苦手な社会も、塾で復習した箇所が多く出たので、まずまずの初日だったと胸をなでおろす。ふと気になり、青木先生に、萬波はこのあと帰るのかとと尋ねた。
「保健室でそのまま給食食べるって。あ、よければ、逢見さんが保健室でいっしょに食べてくれたら嬉しいな」
 先生からの思いがけない提案に、「墓穴を掘った」と思わずにいられなかった。
「はい、行ってきますね」
 明るく答え、トレイに給食を乗せて保健室へ向かった。

 保健室には萬波と養護教諭だけがいた。この消毒液の匂いの中で給食を食べるのか、と少々気が滅入る。
「萬波ちゃん」
私は笑顔で声をかけた。
「……馨ちゃん」
 萬波は気まずそうに下を向く。毎朝顔を合わせないことを申し訳なく思っているようだった。
「久しぶりなのに試験受けられるのすごい。家で勉強してたの?」
 私なら、勉強が足りていなければ試験に挑む勇気などなく、本心からそう思った。
「うん、家で結構頑張ったよ」
 萬波は少し恥ずかしそうに、でもきっぱりと言った。
 私は、昨日遅くまで塾で机にかじりついていた自分の姿が脳裏をよぎる。萬波の点数は、一体どの程度なんだろう。ふいにそんなことが気になった。

 ぽつりぽつり、互いの近況を話しながら給食を食べていると、私は保健室の時計が止まっていることに気づいた。

「あれ、時計止まってる。いつから止まっていたんだろう」
 私がそう言うと、萬波の表情がみるみると曇った。そして、驚いたことに──泣きだした。
「この時計の気持ちになったら悲しいね……急に、自分が動かなくなってるんだもん」
 何が言いたいのか。私は萬波の顔を見つめた。
「十一時十分で止まってるけど、これって今朝の十一時十分? それとも昨夜の十一時十分? それとももっと前? いつまで動いていたか、わかってくれてる人はいる? それを知ってる人がいないかもしれないと思うと心細くてたまらない」
「え、萬波ちゃん……泣かないでよ。大丈夫だよ。電池替えてもらおうよ」
「いや、電池だって。自分のせいでごめん、って思いながら旅立ったんだと思う……」
 涙声で途切れ途切れになりながら、萬波は顔の上半分をタオルハンカチで押さえた。

 わかりそうでわからない感覚だった。萬波のそういう繊細過ぎるところ面倒くさい──


いいなと思ったら応援しよう!

長橋 知子 いただいたサポートは、「生きててよかった」と思えることに使わせていただきます!