【小説】偽りなき偽善 #10
大樹から贈られたのは、表紙の真ん中が一輪の薔薇の写真で飾られた、小ぶりなアートブックだった。何度も読み返し、しばらくお守りのように持ち歩いたっけ。
長い間取っておいたけれど、確か、札幌から旭川へ引っ越す際に処分した。今でも売っているのだろうか。ネットで調べてみると、絶版になっている。もう売っていないのかと思うと、途端に恋しくなる。同じ本はなくとも、似たようなアートブックがないか探してみたい。ふとコーチャンフォーへ行こうと思いたち、佑香の部屋のドアの外から声をかけてみた。
「佑香、お母さんコーチャンフォーへ行こうと思うんだけど、一緒に行かない?」
「……いや、いい」
お父さんとは行ったのに、私とは行かないの。そんな虚しさが襲う。延期してもらった面談で、このこともカウンセラーさんに相談して良いだろうか、と思ったそのとき、佑香が部屋から出てきた。
「お母さん」
「はい! 何?」
娘が出てきてくれた。思わず声のボリュームが上がる。そんな私を気にする様子もなく、佑香は淡々と言った。
「あのさ、図書券届いてない?」
「図書券? なんの?」
「こないだ買ってもらった本で、感想送って抽選で図書券当たるってやつにウェブで申し込んで。六月三十日しめきりだったから、そろそろかなって」
「まだ七月十二日でしょ、しめきりからあまり経ってないじゃない。当選してたとしても一ヶ月くらいはかかると思うけど」
「そっか。じゃあ、いい」
そう言って佑香はドアを閉めた。
佑香にはお小遣いを月に二千円を渡しているし、本なら、言えばいくらでも買ってあげるのに、それでも図書券も欲しいとは。でも、読書好きな子に育ってくれたことは誇らしかった。小さい頃から、絵本を読んでとせがまれれば、どんなに疲れていても読み聞かせていたから──
大樹と私は受験勉強の合間を縫うようにして、土日のどちらかを必ず二人の時間に充てた。 薄暗い映画館、少し遠い科学館。人気のない図書館では、誰の目もないのを確かめて、棚の陰でこっそりと唇を重ねる。それだけで、現実から切り離された二人の聖域になった。小学生の頃、恭子と純粋に本を読み漁ったその場所で、私は大樹と求め合う。そのスリルと、頭をもたげるほどの罪悪感は、始まったばかりの恋を燃え上がらせるのに十分だった。
遊園地のような派手な場所へ行かずとも、スーパーのたわし売り場でも、雑然とした古着屋でも、大樹が隣にいるだけで世界は満ち足りた。他人の視線も、未来への不安も、すべてをシャットアウトできる。私こそ、もう大樹なしでは生きていけない中毒患者のようになった。
どうにかこのまま二人きりの世界へ逃げられないかと、別れ際はいつも耐え難かった。
もう生徒会の任期は終了したから、生徒会室へ行くことはない。それでも、恭子に言わなければ、と思う日が何度もあった。しかし、わざわざ彼女の家まで行って報告することがどうしてもできなかった。
「馨、嘘でしょ、ひどい」
そう目の前で取り乱されるのが怖かった。かつて図書館巡りという趣味で同じ時間をともにした友人。大切だと思っていたはずなのに、好きな異性を前にした途端、彼女のことなどどうでもよくなってしまう自分の薄情さからも目を背けたかった。
ある日曜日、大樹は、誰もいないからと言って彼の家に私を招いた。私はある予感を胸に秘め、シャワーで念入りに体を洗い、脇に制汗剤のスプレーをかけて、家を出た。
初めて入る大樹の家。彼の匂いで充満している彼の一人部屋。胸がいっぱいで、立っているのもやっとだった私は、思わずベッドに腰を下ろした。
「ここに来たのは、お前が初めて」
彼を見つめる。呼吸がうまくできない。大樹はそんな私を見つめ返し、抱きしめた。そして、そのままキスをした。頭のなかがじーんとしびれていく。溶けそうだった。このまま皮膚の線が消え、ドロドロに溶け合えたらいいのに。
大樹は私のスカートの中へ手を伸ばしてきた。そして許可を求めるように私を見た。大樹はトランクス姿になり、私は、スカートを脱ぐ。だけど、ブラウスを脱ぐことができない。大樹が心外そうに言う。
「なんか、ダメだった?」
「私……なんか寝不足だったり緊張したりすると……汗の匂いが気になることがあって、今は大丈夫かな……ごめん、こんな体質……」
「……全部、委ねて」
大樹は私の耳元でそうささやき、私は目を閉じた。
会うほどに彼のことを好きになっていく。
味わったこともないこの感覚に、心と身体がついていかない。彼のいない毎日は考えられず、勉強をしていても、集中できない。お互いに目指す高校は別だったから、受験勉強を頑張れば頑張るほど、離れるための努力をしているようで、その矛盾に耐えられずに泣いてしまう夜もあった。
十二月のある日、私は風邪を引いてしまった。
「大事な時期なのに何やってんのよ」
母から小言を言われながら、近くの小児科へ連れられて行くと、待合室でバッタリ萬波と会った。
「……萬波ちゃん」
「馨ちゃん……」
私は、以前萬波に対して抱いていた「重荷」という感覚が和らいでいることに気づいた。おそらく、大樹という強力な味方ができたことが大きいだろう。世界が違って見え、全てのものに感謝が溢れ、心に余裕ができている。 なんだかゲンキンな気もしたが、偽らざる本音だった。
「萬波ちゃん、最近どうしてるの? 私……」
迎えに行かなくなったことに言い訳のしようもなく、言葉に詰まると、萬波が言った。
「馨ちゃん、受験勉強で忙しいんでしょう。元気だった?」
「……うん、元気だよ。萬波ちゃんも受験勉強してるんでしょ?」
「あ、私は定時制高校に行くつもりなの。面接と作文だけで合格できるみたいだから、そんなに勉強はしてない」
「そうなの? どこの定時制?」
聞けば、私が受験する全日制の高校よりもランク上の高校だった。定時制の夜間部とは言え、なんとなく気分のいいものではなかった。
「馨ちゃん、受験勉強で忙しいと思うけどさ、お互い風邪が治ったら、うちでまた漫画でも読もうよ、息抜きに」
萬波の好意に甘え、私は翌週末、萬波の家に遊びに行った。ちょうと大樹も法事があるというので時間が空いたのだ。
「いやぁ、ここに来るのも久しぶりだよね」
萬波は、リビングの一角にある「萬波の部屋」で、最近ハマっているという編み物の作品を見せてくれた。
「へぇ! 上手だね。さすがだねぇ」
モチーフ編みのマフラーやバッグ。小さい頃から可愛らしいものが好きな萬波。それを自分の手で生み出せる彼女の特技に心から感心した。照れたように微笑む顔を見て、私は思い出して付け足す。
「あ、もう一年くらい前になるけど……詩のコンクールで入賞したんだよね。すごいよね。おめでとう」
「ありがとう。嬉しい」
会わない間に積もった気まずさが、少しずつ溶けるようだった。萬波が、私の顔を覗き込む。
「ねぇ、馨ちゃん、なんか綺麗になってない? なんかいいことあった?」
「えっ……本当に……?」
おばさんが寝室へ行ったタイミングを見計らい、私は顔を火照らせながら、この一年ほどの間に体験した大樹に関するすべてを萬波に話した。
「へぇぇ……そっかぁ、そんなことがあったの。馨ちゃんもやっと大人になったかぁ」
遠くを見つめながら萬波がそう言った。なぜだか、少し鼻につく。どことなく上から目線な物言い。萬波は続けた。
「実は私もね、高校生の彼氏がいるの」
「えっ、萬波ちゃんにそんな人が? どこで出会ったの?」
学校に行かずに引きこもっている萬波に、どうしてそんな出会いがあるのだろうと不思議で、訊かずにはおれない。
萬波はフフフ、と笑いながら、引き出しから、男性四人が映っている写真を取り出した。
「この人は、萬波ちゃんのお兄ちゃんだよね」
四人のうち、一人は萬波の三歳年上のお兄ちゃんで、どうやら友達同士で集まっている写真のようだ。
「この中に彼氏がいるの?」
「うん、この人」
四人のなかで私が一番かっこいいと思った、ビジュアル系バンドのボーカルのような風貌の男性を萬波が指さした。
「……へぇ」
なんとなく信じられない。体はもう十分大人だが、実際は中三の、垢抜けない萬波をこの人が好きになるだろうか?
「名前はなんていうの?」
私は意地悪な気持ちで尋ねた。答えられるのだろうか。
「しっ! お母さんに聞こえる!……紙に書くね」
先ほどから同じ声のトーンで話しているのに、急に静かにするように言われ、妙に思った。
「井上快彦」
「いのうえ……これ、なんて読むの?」
本当にわからなかった。当時、見かけない日はないほどテレビに出ていた、「V6の井ノ原快彦」の名に似ているなと思ったが、「イノッチ」と呼ばれていたため、下の名前の読み方を私は知らなかった。ここでついでに教えてもらえるな、と思った。
萬波は少しうつむき、小さな声で言った。
「いのうえ………かつひこ」
「かつひこ……そうなんだ。高校生の彼氏なんて、すごいね」
そう言いながら、ふと「快っていう字は『かつ』と読むのかな」という疑問が浮かぶ。そして次の瞬間、
「……あれ、『快活』っていう言葉の『快』を『かつ』って読み間違えたりしてないよね……?」
という疑惑が浮かび、頭から離れなくなった。
もしかして彼氏っていうのも嘘なんじゃ──
一度疑ってしまったら、もう戻れなかった。私の表情はぎこちなく、目は泳いでいたのだろう。萬波は気まずそうに私から目をそらした。
冬休み前、私はアイドルに詳しいクラスメイトから「イノッチは、よしひこって読むんだよ」と教わった。
もう「花とゆめ」を読んで、ときめいていた頃の私はいない。本当の恋を知った私は、当時「花とゆめ」を気前よく貸してくれてお姉ちゃんのようだった萬波に、もう二度と恋バナはしないと決めた。
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