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【小説】偽りなき偽善 #13

 まもなく終業式という日、私は数日前にうっかり忘れてすっぽかしてしまった学校へ出向いた。佑香が学校へ完全に行かなくなったのが五月末、そこからすでに一ヶ月半が経っていた。もう少し早く相談に来るべきだったのかもしれない。

 カウンセラー室に、若い女性担任教諭と、私より少し年上と思われるスクールカウンセラーの先生。二人と向き合う形で私はソファに腰かけた。担任教諭が口を開く。

「佑香さんは一学期の定期テストを受けられなかったので、それまでに受けた小テストや提出物から成績をつけることになります」

 佑香が四月から五月中旬くらいまで登校していたことが遠い昔のことのように思えた。
「はい、そうしていただけるなら、ありがたいです」
「ただですね……佑香さんはそれらの結果は良かったのですが、学校へ来られていない、リモートも受けられていないということで、佑香さんより小テストや課題の点数が低い生徒よりも、内申点が下がってしまうことはご了承いただきたいんです」
「……はい」
 どうにもやるせないけれど、仕方ない。成績が今一つでも前向きな姿勢を見せることで挽回の余地があることは、人によっては救いやモチベーションになるだろう。ふと、もう思い出したくもないのに、大樹の顔が浮かぶ。

「……はい、理解しています。ありがとうございます」
「佑香さんとも会って話したいと思っているんです。夏休み中でもよければ、なんとかその機会をいただきたいと思っています」
「あの、先生。成績のことも大事なんですけど……」
 私は、ずっと気になって心の中で何度も反芻していた言葉をついに外へ出した。
「あの子、学校でお友達がいないんじゃないでしょうか。ずっと仲良かった朱里ちゃん、クラス離れてからも、最初は遊びに来てくれていたみたいですけど、前回こちらに伺った時は、佑香が一人でいることが多いって……」
 萬波と佑香が重なった。朱里ちゃんに相手にされなくなった佑香。きっと口数の少ない佑香がつまらなくなったんだろう。朱里ちゃんには、他の仲良しができたに違いない。あるいは、好きな人か──

「あ、河野こうの朱里さんですよね」
今度は、スクールカウンセラーの先生が、口を開いた。
「実は、佑香さんが学校へ来なくなった理由が何かわかればと、小学生からのお友達だと聞いて、河野さんには何度かヒアリングをさせていただいたんです」
 そんなことまでしてくれていたとは。私は身を乗り出した。
「そうなんですか……それで?」
「河野さん、佑香さんとは毎日連絡してるみたいですね」
「え? 連絡なんて来てませんけど」
「学校から貸与しているパソコンあるじゃないですか。あれでチャットしているみたいですよ」
「チャット? そうなんですか?」
 知らなかった。小学校高学年の頃、クラスの女の子たちとチャットをしていたのを見かけたことはあったが、今は朱里ちゃんと二人でチャットしていたとは。自室にこもる最近の佑香の行動を私は何も知らないんだな、と胸がズキリと痛む。

「それで、佑香がなんで学校へ行かないか、朱里ちゃん何か言ってましたか?」
「あの、結論から言うとですね……」
「はい」
「河野さんにもよくわからない、ということなんです」

 帰り道、私は歩きながら考えていた。
 朱里ちゃんが「よくわからない」というのは一体どういうことなんだろう。本当にやりとりしているなら、少しはわかりそうなものだが―—

 帰宅すると、佑香がリビングのソファで、本を読んでいた。
 彼女は私に気づかず、袖口で顔を拭いている。泣いているのだと気づき、私は静かに彼女に近づいた。本にはブックカバーがしてあり、何の本かはわからなかったが、先日真司が買ってあげた、あの本のようだった。
「佑香、何を読んでいるの」
 佑香は私に気づいた途端、急いで本を閉じ、逃げるように二階へ行こうとした。その態度に言いようのない怒りがこみ上げ、思わず大声を上げた。

「何よそれ! なんでお母さんに見せてくれないのよ!」
「……お母さんはきっと気に入らない本だから」
「そんな、読む前から言わないでよ」
「……コーチャンフォーで、前にこの本を見つけて、気になるって言った。そのときお母さん、なんて言ったか覚えてる?」
「え……」
 全く思い出せなかった。
「ごめん、覚えてない」
「お母さんは、『全国区じゃない本をわざわざ選ばなくても』って言った」
「あ……」
 うっすらと思い出す。春休みに佑香とふたりでコーチャンフォーへ行ったのだ。そのとき、佑香は「地域限定本」の特設コーナーから、白っぽいトーンで装丁された本を手に取ったのだ。
「お母さんは、自分の気に入った本しか買いたがらない。違うものを選べば不満そうにする」
「……私、いつもそんなだった?」
 愕然とした。自分はそんな管理的な人間だっただろうか。苦しい沈黙が流れ、とっさに話題を変えた。
「そうだ。さっき学校へ行ってきたよ。成績の話を聞いてきた」
「いいよ、そんなの……」
 佑香は心底うんざりしたような顔をした。
「あ、佑香。お母さん、さっき聞いたの。朱里ちゃんがあなたと連絡取り合ってるって先生に言ったらしいわ。本当にそんな連絡、来てる? 実は来てないんじゃないの?」
 私は乱れた呼吸を必死に整えながら、佑香の返事を待った。

「……朱里ちゃんとは毎晩クロームブックでチャットしてるよ」
「えっ、そうなの? 仲.......悪くなったわけじゃない?」
 拍子抜けして、私は佑香の顔をまじまじと見つめた。嘘をついているようには見えない。
「てっきり私は、佑香が朱里ちゃんとうまくいかなくなったんじゃないかって──」
「誰かがそんなこと言った?」
「言ってないけど……でも……」
 佑香はわけが分からないと言った面持ちで、呆れたように私を見ている。   
 その表情を見て、自分の中の何かがプツンと切れた音がした。

「え、じゃあ、なんで学校行かないの? 塾だって。彼女があなたを無視とかするようになったんじゃないの」
「失礼なこと言わないで。朱里ちゃんはそんなことしないよ。私は──」
「えっ! じゃあどうして学校を休んでいるのよ? 塾も行かなくなって!勉強もしないで! これから一体どうするつもりなのよっ!」

 頭が割れそうだった。この一ヶ月半ほど、言わないように、訊かないように、必死に抑えていたものが一気に崩れていく。腫物にさわるように接していた佑香へのもどかしさ、憤り。もう我慢などしてやるものか、と思ったその時、佑香が私に負けないくらいの大声を出した。

「馬鹿馬鹿しくなったの! 二年になってからみんな内申点、内申点って。演技してるみたいな子たちが嫌になったの!」
「えっ……内申点?」
 耳を疑い、思わず聞き返す。
「作り笑顔とか、無駄にうなずいたりとか、授業中に演技する子が増えたの。もう私、それが気持ち悪くて仕方ない」
「でも……内申点ってそういうものでしょう。少しでも成績が良くなるように、態度良くうまく立ち回る、お母さんも頑張ってきたけどな」
「……お父さんは、わかってくれたよ。嫌だよな、って」
「え……」
あんな感情のない、我が家の「金銭的機能」でしかないような人が──?

「お母さん、なんで私が人間関係で落ち込んでるって思ってたの? そんなんで休んでるわけじゃない」
「いや、だって、まさか内申点がとか、演技だとか。そんなの思いもしないじゃない。それにまだ十四歳だもん。人間関係がやっぱり学校生活に」
「お母さんは、自分がこうだから相手もそうだろう、そうすべきってことばっか。聞きもしないで決めつけないで。私のためにって思ってるなら、すごい偽善だよ!」

 殴られたような衝撃が脳天に走る。
 自分がこうだから相手もそうだろう──

 萬波、飯田くん、千鶴さん、恭子、大樹――
 私は舞台の上で、彼らの衣装を着て、都合よく自分との関係を演出していた。嫉妬しているだろう、まだ私を好きだろう、恨んでいるだろう、憎んでいるだろう……それは私の願望、自意識でしかないのに。
 大樹のことを言えた義理か。自分の一人舞台を持とうとしているだけ彼の方がよっぽどマシだ。私は全員を登場させながら、そのセリフは私のキャラのまま、独りよがりで誰にも届かない。もちろん観客はゼロ。 


 プルルルルルルルルルル

 電話だ! 私は転がるように階段を下り、受話器に飛びついた。
 変質者の無言電話でもいい。面白がってるんでもいい。私を必要としてくれるならもう誰だって──

 私はどこまでも、空っぽだった。もうそんな自分を見ていられない。大樹と連絡を取ってしまい、彼の肥大化した自意識にぶたれ、娘からも容赦ない言葉を浴びせられて。愚かな人間。もうダメだ。誰も私を必要としていない。消えてしまいたい。

 私は受話器にしがみついて子どものように泣いた。




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