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遠野語り 其のニ

  夜訪
(前回までのあらすじ)
高校一年の僕は、青春18きっぷを使って、憧れの遠野にたどり着いた。
宿泊先は、東北の伝統家屋・曲家をほぼそのまま宿にした古い民宿だった。座敷わらしが出るという噂まで含めて絵に描いたような、純度の高い静けさの中にあった。
https://note.com/acchu62/n/n75c3a04a925c

昼間、部屋の中のあまりの静けさに小難しいことを考えたせいか、僕はちょっと熱っぽくなってしばらく寝た。知恵熱だろうか。宿泊客は何人ぐらいいるのかと考えていたら、夕飯の時間になった。全部で6、7人だ。軽く全員が自己紹介と会釈をして、いよいよ夜の帷が降りた。
夕食が終わると、囲炉裏端はそのまま夜の談笑の場になった。
当時の民宿や公共の宿では、そういう時間がごく自然にあった。知らない者同士が、どこから来た、どこへ行く、何を見た、と話しながら、いつの間にか一つの輪になる。


囲炉裏を挟んで正面には、三十過ぎくらいの筋肉質なポロシャツの男。左手には、千葉から来たという小柄なOL。往年の竹内まりやを思わせる美人だったが、身長はかなり低かった。少し離れたところには、前額部の寂しげな四十手前のサラリーマン風の男がいて、その横に高校生の女の子が一人。そして僕がいた。…あと1人いたっけ? まあいいや…
どうやらみんな一人旅らしかった。

そのうち、常連らしい大人たちが、当然のように台所から一升瓶を持ってきた。宿の主人もいつの間にか顔を出し、輪の外でにこにこ笑っている。昼間の陰鬱な気配は微塵もない。不思議な人だ。

OLこれで酔ってない


「少年! 私が許す! 飲め!」

千葉から来たOLが、妙に晴れやかな声で叫んだ。

僕の正面、囲炉裏の火の向こう側にいた筋肉質のポロシャツが、大笑いしながらうなずいた。
一升瓶のラベルには「浜千鳥」とあった。

「この酒はな、甘口でも辛口でもないんだ」

前額部の寂しいサラリーマンが、すでにかなり怪しい口調で言った。

「日本でただ一つ、重口と言ってな。ご飯を食べなくても、お腹いっぱいになるん……だぉぅ」

語尾がもう、酒の中に沈みかけていた。

僕は日本酒など飲み慣れていない。勧められるままに恐る恐る二口、三口とやっているうちに、顔がみるみる熱くなってきた。熱い。
耳まで赤くなっているのが、自分でもわかる。なるほどこれが重口か。
後日談になるが、最近調べてみたところ浜千鳥はむしろ爽やかな辛口だ。おそらく飲み慣れてない僕が濃すぎる人物どもの中で感じた重さは、お酒の重さではなかったのだろう。

その向こうで、高校生の女の子がこちらを見ていた。

あの子、結構きれいじゃん。

いや、いかん。いかん。
こちら男三人兄弟の長男、中学では柔道部、高校は男子校、恋愛経験ゼロである。女性への免疫耐性ゼロだぞ文句あっか。
顔が熱いのは、酒のせいなのか、煩悩のせいなのか、もうよくわからなかった。

「では! 毎度恒例の花火、花火だよっ。みんなぁ外ぉ〜」

誰かがしきってる。誰 前額後退マンか? ポロマッチョ?   っていやおい「恒例」て。辞書引いたら多分な、「ある集団が時期や場所をほぼ同一にして、定期的に開催される常套的な行為を形容する」とか書いてあると思うぞふざけんなあんたらとは初対面なんだよ寧ろこの場合突発的がふs…とか喚いてたら誰かに持ち上げられて気がつけばコップ持ったまま外にいた。

命中であります


酔いと調子に乗った気分と、遠野の夜の妙な浮遊感に背中を押され(これは後追いの理屈。この時点ではむしろ自発的だっただろう)、同じく無理矢理連れてこられたと思われる女の子を壁にくっついている状態から何とか引っ張り出して最前列に置いた。置いたと言うのが正しいだろう。彼女はそのまま突っ立っていた。それからの僕の活躍は目を覆うばかりで目覚ましく、打ち上げ花火を手に持ったまま打ち上げてはコップを干し、手持ち花火を手に持ったまま振り回して空中に字を書いてはIKKIに応え、なぜかとてつもない義務感に駆られて、ロケット花火を一本、藁屋根に向かって撃ち込んだ。
その後の記憶が希薄だ。ただOLが顔の3センチ前で「あんたこの家がもし燃えていたら、全員に袋だたきに遭ってたからね」と凄んだのは覚えている。一方で、誰かの「ロケットランチャー! 敵軍枢密は屋根右舷38度、仰角43度。距離6.5!」「屋根右舷38度 仰角43度 距離6.5 敵軍枢密視認にても確認完了」「はずすなよお、ウテエェーッ」という声に誠実に答えただけという気もする。
何はともあれみんな気が済んだのかバラバラと部屋に戻った。どうやらその時OLさんに明日盛岡にわんこそばを食べに行く約束をしたらしいが、記憶にないしその話はまたしよう。そして、寝た。
今思えば、あれはメインイベントではなかった。
せいぜい前座試合だった。
本当の事件は、そのあとに来た。火薬の匂いが消え、笑い声が廊下の奥へ吸い込まれ、客たちがそれぞれの部屋へ戻ったあと。
座敷わらしが出るという民宿の夜は、そこからようやく幕を開けたのである。

その夜、夢は見なかった。ただ、行き止まりで誰も訪ねてくるはずがない僕の部屋の前まで誰かがやってきて、去っていく足音が聞こえたような気がした。ドアを開けて入ってきたか来なかったかは覚えてないし、そんな事はどうでもいい。

主人が戸を叩いて朝食を告げた。部屋に屋内電話等あるはずもなく、用があれば主人が戸を叩く。顔を洗い、着替えて囲炉裏端に向かう。僕が一番遅かった。空いてるところは…彼女の右隣。狭いので、なるべく体が当たらないように気をつけて座った。
なんか…緩い。昨日の火事寸前の危機を乗り越えた奇妙な連帯感がみんなを包み込んでいた。
みんな緩い。

一人を除いて。
話題も尽き、食事が終わり、1人減り2人去って僕たちだけが残った。そんなタイミングで彼女が話しかけてきたのだ。

「ねえ、Y君」
身体が一瞬ビクッと硬直したと思う。
なんだろうこの緊張感は。
前を向いてそう言ったあと右隣の僕に向き直る。
「昨日 夜 来た?」
小さく尋ねた。
昨夜、やっと寝つけたと思ったら足音がしてドアが開いて、枕元で誰かが彼女を覗き込んでいた、怖かったけど、気づいたら朝になっていて、頭が反対側を向いていたという。

な。

なんだとおう? 来た? 知多? 北? 北酒場? きたーのーおおーさかばどおりに…いや違う長い髪でもちょっとお人好しだろうが帰ってくれ、キタ? 彼女の部屋に? 夜中? なんで? えええええ(妄想が走馬灯的に脳内デスドライブ中)落ち着けていうか餅つけぺったんこ違うぞコラ。
「僕は違う絶対! 夢じゃないの?」と、必死で言い訳していたら

眼科医?


「そりゃあ 座敷童子のイタズラ、枕返しだべ。」
「ヒィ」 英語の授業で初めて第三人称単数主格(男性)を発音したみたいな声を出してしまった。上り框のあたりから声を掛けたのは、お茶を運んできてくれたご主人だった。
「噂は聞いてると思うけど、ここでは座敷わらしの仕業とも思えるいろいろな変なことが起こる。最近だと、裏に小川が流れているんだが、ある時お客が川の向こうで『おーい、おーい』と呼ぶわけさ。なんだろうと思って外に出ると、助けてくれと言う。渡るところ(橋)がそこにあるから渡ればいい、何なら飛び越せばいいじゃないかと言えば、血相変えて怒り出した。『何言ってるんだ。こんなな、大きくて急流の川、渡れるわけないぞ。橋だってほら冠水してるじゃないか』と叫び散らす。めんどくさいから橋を渡って手を引っ張って、『危ない、水がかかる』とか言うのも無視して渡ったら、目をキョトンとして何だったんだ? みたいな顔してるので、話を聞いたら、四つか五つ位の女の子が橋の向こうにいて、危なかろうとそちらに向かったら誰もいなくて、戻ろうと見たら、川がでかくなって足もつかない状態で困っていたらしい。枕返しなんて何回でも聞いてるよ」と言う。

「じゃあ私、座敷わらしに会ったのか。いいこと起こるかな   Y君ごめんね。疑って」
いや、いいってことさ、って。とりあえずとりあえずよかった。よかったと思ったんだわ。その時は何しろ動転していたし。そんなことしてたらOLが呼びに来た。この民宿のボロ車で盛岡まで連れて行ってくれるらしい。その話はまた後日。

で、考えたんだ。車の中で。座敷わらしの出るという噂のある民宿の中で、実際に座敷わらしが出たら。そしてそれが座敷わらしじゃなかったら。つまりその人はいつもこの宿にいる人のはずだ。つまり噂を立て、そして座敷わらしでもある人がいるとすれば。

でもでも、OLや他の人に聞いた話によれば、川向こうで叫んでいた人の話は本当で、常連である。みんなの知り合いの人でもあるらしい。
ということは、今回彼女が遭遇したのは、やっぱり本当の座敷童子?   わかるわけ ないか。

ずっとあとになって、僕は京極夏彦の小説を読んだ。百鬼夜行シリーズに出てくる拝み屋、中禅寺秋彦が、決まってこう言うのだ。

「この世には不思議なことなど何もないのだよ」

あの遠野の朝を、僕は思い出す。