持つもの・持たざるものに関する考察【分析的アンチワーク哲学19/緊急特番】
今、アンチワーク哲学界隈では、労働法とアンチワーク、持つもの持たざるものに関して度々議論が行われている。これに関して、これまでの分析的アンチワーク哲学からの立場と考え方を表明しておこうと思う。
中年と哲人1(生活の保障と安心について)を参考に
中年「生活の保障・安心が得られるならば、資本家は労働者を酷使しない」
哲人「うん」
中年「生活の保障・安心は絶対か?」
哲人「絶対ではないなあ」
中年「そこが絶対じゃない限り、持てる者が持たざる者を酷使する地獄の釜は、いつでも口を開けて我々を待ち構えているのじゃないだろうか?」
哲人「 (´・ω・`) 」
さて、私は哲人ではない。私は哲人ではないので、この中年の問いに哲人がどう答えるのか、私には分からない。それどころか、ここまでの問答の過程が正しいのかどうか・哲人がほんとうにそう答えるのかどうかすらも、分からない。そこで、もし、これを読んでいるあなたが哲人ならば、問いに答えてほしい。
問一、問答の過程に誤りがあるならば、訂正されたし。
問二、最後の空欄(´・ω・`)を埋められたし。
まず、ここで問一はおいておこう。これを引用した時点で、問一を訂正はしないこととする。
すると、問ニからだ。
「生活の保障が絶対でない以上、持てる者が持たざる者を酷使する地獄の釜は、いつでも口を開けて我々を待ち構えているのじゃないだろうか?」
まず、これまでの分析的アンチワーク哲学シリーズでは、「まさに酷使することそれそのものは、持つものの生活の保障にすら反する」ことを明確にしてきた。
嫌がらせると「持たざるもの」からの反発や反乱によって、「持つもの」は自らの生存率の低下を招く。
もし、生存率を最大化させる嫌がらせ量Xがあるとしても、それを超えれば超えるほど「持つもの」の生存率は低下する。
このテーゼを否定できない限りは、「持つもの」は、生活の保障がないことに怯えて、生活の保障を自らの手で積極的に破壊していることになる。
ゆえに、ここに労働とは間違っていて当然なばかりか、間違っていることが機能だ、というテーゼが成立する。
つまり、生活の保障がないことに怯えることは、思考停止装置であり、怯えることこそが生活を危機に晒す。
しかし、一度恐怖に晒されてしまうと、そのような合理的判断ができなくなってしまうのだ。それが、労働とは思考停止装置である由縁だ。
しかし、その合理的思考を人は完全に捨てたり、忘れ去ることはできない。
ゆえに、
持てる者は持たざる者を嫌々と酷使しながら自らの生存を危機に晒すのだ。心のどこかでは、酷使しないほうが生き残れるという事実を知りながら。
つまり、ベーシックインカムとは、
心のどこかでは、酷使しないほうが生き残れるという事実を知っているのなら、
「分かっているならその通りにすれば良いのではないか?」
という、現実に向き合い、ちゃんと生存率を高めるために酷使しなくても良くなるようになる、
思考回復のための社会技術の一つなのである。
ただはっきり言ってしまえば、ベーシックインカムが配れてなかろうが、
酷使しないほうが生き残れるのが事実である以上、
そこまで生き残りたいのなら、
怖いのならなおのこと酷使しないほうがいい。
そして、間違った論理「酷使するほうが生き残れる」を降りれる人は先に降りてしまって構わない。
ただし、それが心理的には難しかったから、世界には労働が溢れている。
現に「まとも書房に集まる一部の人」にはできたとしても、万人には難しいようだから、(なんて書くとエリート主義になる危険はあるが)
より多くの人達がそうできるようになるために、ベーシックインカムという社会技術がある。
ただし、降りれる人が先に降りないことには、ベーシックインカムという社会技術を実現するための勢力を確保できないため、
結局のところ、啓蒙しまくって、降りれる人は先に降りてしまおう……。というのが、これまでの分析的アンチワークである。
つまり、持てる者も地獄の釜を本当は心の底では閉じたくて閉じたくてしょうがないのだから、
それを現に実現するために、その社会技術として、ベーシックインカムがあるのだし、
アンチワーク哲学という啓蒙があるのだ。
そのあとでも、心の底から地獄の釜を開けたくて開けたくてしょうがない持つ人もいるかも知れないが、
彼らによって開かれる地獄の釜など、今開かれているそれと比べれば遥かに小さくて済む。
これが、分析的アンチワーク哲学からの回答である。
労働とはなぜ思考停止の条件なのか?も踏まえ、今考えている最新のものをぶつけた。
今後、さらにこの答えがもう少し修正されていくことはあるかも知れないが、大筋は変わらない。
追記:続篇が出たので、それに対する考察です。
了解です。
では、回答①と回答②続篇の記事を比較しつつ、論点の違い・前提・強みと弱みを整理して論じます。
1️⃣ まず結論を先取りすると
• 回答①は
👉 「支配・酷使は合理的に見ても非合理であり、恐怖がそれを誤作動させている」
👉 ベーシックインカム=思考回復装置
という 分析的・機能論的アンチワークの回答。
• 回答②は
👉 「支配は原理的に常に可能であり、だからこそ信頼と倫理が必要」
👉 ベーシックインカム=信頼の証・価値選択
という 規範的・物語的アンチワークの回答。
両者は対立しているようで、実はレイヤーが違う、というのが重要なポイントです。
2️⃣ 「地獄の釜は待ち構えているのか?」への答えの違い
回答①の立場
• 問いそのものを合理性のレベルで解体する
• 「酷使したほうが生き残れる」という信念自体が誤り
• にもかかわらず人は恐怖によってその誤りにしがみつく
• だから問題は
「絶対保障がないこと」ではなく「恐怖による思考停止」
👉 地獄の釜は
構造的必然ではなく、誤作動した心理装置の産物
回答②の立場
• 中年の問いを正面から肯定する
• 支配は自由と表裏一体の選択肢
• 絶対保障がない以上、支配は常に可能
• それでも人は「支配しない」選択を重ねうる
👉 地獄の釜は
常に口を開けているが、閉じ続けることもできる
3️⃣ ベーシックインカムの位置づけの違い
ここが一番はっきり分かれます。
回答①:BI=思考回復の社会技術
• 人は本当は分かっている
• 酷使しないほうが生存率が高いことも
• それでも恐怖が判断を狂わせる
• BIは
👉 「分かっていることを実行できる状態」に戻す装置
つまり、
BIは「人を善くする」制度ではない
「人が間違え続ける条件」を解除する制度
かなり冷徹で、非ロマン的です。
回答②:BI=信頼の証・価値宣言
• 絶対的保障は存在しない
• だからこそ「信頼」に賭けるしかない
• BIは
👉 「人は自由になれば互いに支え合う」という宣言
つまり、
BIは社会の倫理的自己賭博
こちらは明確にロマンがあり、希望を引き受けています。
4️⃣ 労働法(労働基準法)への態度の違い
ここも象徴的です。
回答①
• 労働は思考停止装置
• 労働法もその延長線上で、対症療法
• 啓蒙と心理的脱出が先行しないと、制度は実装できない
👉 労働法は
ある条件が整うまで“必要とされている途中段階の装置”であり、核心ではない
回答②
• 労働法は「過去の悲劇の記憶装置」
• 未来永劫必要とは限らない
• だが、忘却は再支配を招く
👉 労働法は
博物館に置かれるべき教訓
この「博物館に送る」という比喩は、
回答②の歴史意識の強さをよく表しています。
5️⃣ 両者は矛盾しているのか?
ここが一番大事ですが、矛盾していません。
• 回答①は
👉 「なぜ支配が続くのか」を説明する理論
• 回答②は
👉 「それでもなぜ支配を拒否しうるのか」を語る物語
言い換えると、
• 回答①:記述的・分析的
• 回答②:規範的・実存的
分析的アンチワーク哲学としては、
①が骨格、②が血肉と言っていい。
6️⃣ では、(´・ω・`)は何で埋まるのか?
• 回答①的に埋めるなら
👉「恐怖が人を誤らせる限り、地獄は開く。しかし閉じる方が合理的だと人は知っている」
• 回答②的に埋めるなら
👉「理想だと分かっていても、その理想を選び続けるしかないんだな……」
つまり、
地獄の釜は待っている
だが
人はそれを閉じる理由も、意欲も、能力も、すでに持っている
この二つを同時に言っているのが、この比較の一番きれいな着地点だと思います。
もし次に進むなら、
👉 「分析①を受け入れた上で、それでも②を語る必要があるのはなぜか?」という問いが、かなり面白いところまで行けそうです。
