twitterに投げた映画や本の感想とか―フィリップ・ロス、ドストエフスキー、三島由紀夫など―

つけたハッシュタグで、タイトルから読み取れないものを載せておく。読む際の参考としてほしい。
カート・ヴォネガット―ディストピア、ディストピア小説、風刺
雪風―第二次世界大戦、太平洋戦争、歴史修正、歴史歪曲、駆逐艦
伊坂幸太郎―猪苗代湖、社内恋愛、、異世界、異世界人
三島由紀夫―ナンセンス、ディケンズ、クリスマス・キャロル
おまけ―マルタの鷹、探偵小説


前書き

オデ、ツイッター、カクノ、ニガテ。ミジカクテ、カンガエ、ウマク、マトマラナイ。
ケンカ、オオスギ。ヘイワ、ダイジ。ラブ&ピース。

つーわけで―村上春樹氏御贔屓ごひいきのダンキンドーナツに倣い―twitterで現代思想の最先端として莫大なフォロワーから崇め奉られる私の野望は戦略的撤退strategic retreatを余儀なくされた。
しかし―「たとえるのなら?」「冬のオリオン座のように」―きらめく知性が生んだわが批評を、の暗黒大陸に置き去りにするのも腹立たしい。 
なのでnoteに引き写しつつ適度に増補した。需要があるかは知らない。お嬢ちゃん、世の中には知らないほうが幸せなこともあるんだぜ。
一つ言っておく。
オレに本気で惚れんなよ……ヤケド、するぜ?

フィリップ・ロス「The Conversion of the Jews/ユダヤ人の改宗」感想

https://www.macalester.edu/religious-spiritual-life/wp-content/uploads/sites/417/2013/11/RothConversionoftheJews.pdf

三行でまとめると、ユダヤ教のラビ―宗教的権威―が、Ozzie(Oscar)っちゅーガキンチョに振り回されっちまう愉快な話。
まぁ、黙示録やらキリストと悪魔の誘いやら、何かと聖書から持ちこまれたモチーフが使われてるが、説明も煩雑だし、そも、てめぇらにそんな教養あるとも思えねぇ。よって割愛。

筆者も神社じゃ賽銭を投げねぇんだが、そうした宗教的(?)な態度はしばしば、温めすぎたシュウマイの皮よろしく、パキパキに強張ってしまう。
その強張りを、Ozzieの子どもらしい問いかけが春先の氷柱つららのように解していく。

この短編の争点はマリアの処女懐胎の是非である。
ユダヤ教徒は当然信じない。
それを認めるからにはキリストの神性も認める羽目になりかねず、本当にThe Conversion of the Jewsを招きかねないためである。
しかし、Ozzieは納得できない。神たるもの、全能/Almightyである。
ならば、
"why couldn’t He let a woman have a baby without having intercourse(性行為). "
「なぜ、神様は性行為抜きで子どもを作れるようにしなかったの?」
本邦のコウノトリ論争に、よりにもよって宗教問題が絡まり、事態は混迷を極めていく。

真剣に読んでもいいけど、何しろ乳房になった男を、地獄行きのニクソンを、男女の睦言しか載ってない本を世に送り出したフィリップ・ロスである、この話も―ちょっと下品な物言いを許してほしい―マリアの処女膜の有無が、あれよあれよと大騒動に発展していくドタバタコメディとして笑い飛ばす。
そんな読み方でオッケーだよ。

追記。
今はパレスチナにおけるイスラエルのジェノサイドの影響下で、シオン賢者の議定書も裸足で逃げだすほど世界にユダヤ人への敵意が広まっている。
だが歴史を見れば、ユダヤ人という言葉が指す人間の区分は、権力によって恣意的に定められてきた。
たとえば超正統派のユダヤ教徒がそうだ。彼らは、イスラエルの正統性を認めない。
一方のイスラエルは彼らを無理やり徴兵し、逮捕状まで出している。
イスラエルは、ユダヤ人の国でも、ユダヤ教徒の国でも、ましてや神の国でもない。
帝国主義の遺した血塗れのへその緒を引きずる醜く野蛮な、虐殺者の集団である。

ユダヤ教=イスラエルでも、イスラム教=テロリストでも、日本仏教=オウム真理教でもない。
私たちはどうも、(特に遠い国の)宗教には一面的な見方を押しつけがちである。
でも、本当は信じる人の数だけ、信仰の形がある。

ロスの小説を読むと、ほんと、色んなユダヤ人が出てくる。 
俯瞰の視点からはよく見えない人間の魂の信仰のあり方を、彼の遺した小説は豊かに(毒も含めつつ)教えてくれる。

新解釈・三國志―緊張なき緩和のもたらす地獄絵図―

福田雄一氏の「新解釈・三國志」を見る。下北沢の身内劇団で一生やってろバーカ的な話なのは前から聞いてた。
いやぁ……、予想通りひでぇなぁ(生きる歓び)。

本作はコメディ映画だけどさ、そも諸君、一般に「笑い」とはどのように生まれるか。
たとえば以下の場面を想像してほしい。
君はコンビニの店員である。
そこへ強盗が暴れイノシシのように来店し、君の胸元めがけて銃を突きつける。
「有り金を全部よこせ!」
そこで強盗は威嚇のため天井めがけ発砲する。
銃口から花がポンと出る。
「あれ、れれれれ?」強盗は君と、コスモスの咲いた銃口とを交互に見つめる。
「……リハーサル用と間違えちゃった……」

笑いとは、このように「緊張」と「緩和」によって作られる(エマニュエル・カント理論)。
真面目な校長のヅラが優美な桜の花びらのごとく、春風に舞って飛ぶ。上司が新年のあいさつの真っ最中におならする。
ホッブスなら原因を優越感に帰すのだろうが、私はカント説を推したい。

ところが、福田雄一氏の手にかかるとこうなる。
強盗が来る。
店員A「え、強盗来たんですけど〜」
店員B「やっば〜」
やはり銃は偽物である。
店員A「ええ〜、コスモス咲いたんですけど〜」
店員B「えぇ、なんでコスモス?好きなの〜?」

緊張がねぇんだわ。
高市早苗と取り巻きの経済下愚者でも参考にしたのか、放漫に次ぐ放漫財政、緊縮策がハナから選択肢にない。
たぶん「三国志」という題材に、自然と緊張をもたらす力があると想定したんじゃないかな?
でもテレビのバラエティさながらのチープな映像の連続に、雄大な中国史の迫力は背負えんなぁ。

たとえば同じくユーモアを含む北野武の「首」の、豪奢な画面のもたらす緊張を撒き餌に、抜け抜けと笑いを取る狡猾さとかさ。
その逆に、「アウトレイジ」の緩和のない緊張―笑いを奪われた漫才―の恐ろしい迫力とかね。
それらと観比べると、本作の緩和にもたれっぱなしの工夫のなさが目立つよ。
ここはいっそ行定勲氏らへんと、無理くり合作でもさせたらどうかな。
役者は演技指導の寒暖差で風邪ひきそうだけどね。

シャーク・ド・フランス―フランス映画が真面目にサメを出すな―

いやしくもフランス映画がな、真面目に人喰いザメ出して、真面目に闘ってんじゃねぇぞコラ!
小国のくせに核を保有する見栄はどこ行った。
お前らはなぁ、よぅわからんけど倦怠期の夫婦でも出し、ボードリヤールでも引用しながら五分近く続く長台詞を喋らせ、結局サメの正体はフロイト的なリピドーの抑圧に伴う無意識下のエロスだののたまい、愉快な教養ダンスをクネクネウニウニ踊ってりゃいいんだボケ。

ところどころ小洒落たカット(網目の階段をアオリで撮って足の動きに注目させるなど)があるのも小賢しい。
よくできているが、映画界の不可触賤魚、またの名をサメ映画―見る必要はない。

翔んで埼玉〜琵琶湖より愛をこめて〜―それだけが嫌―

前作のバロック・ロココ的な―装飾的な―同性愛の描写は後景に退き、関西圏の大阪一強ヒエラルキーに挑戦する滋賀県民のスラップスティックコメディとして、手堅い出来を保っている。
しかし、顔芸で笑いを取るのは止めてほしかった。その向こうに観客がいる事実をズケズケ当てにした演出は、必ず作品の品位を貶めるものだ。

カート・ヴォネガット「Harrison Bergeron/ハリソン・ヴァージェロン」―平等という名の皮肉―

レイ・ブラッドベリの「華氏451度」と似た発想のディストピア短編。
最近はアファーマティブ・アクションやら、社会的機会の不均衡の是正やら、何かとややこしい。
そんなに平等が欲しいのか?
なら出る杭を全部打てば円満解決じゃね?
という野蛮な思想の下、この短編では知性ある者の頭に騒音装置がつけられ、踊り子の腰に重荷が括られている。 
そういうものだ。
ちなみに、若かりしレオナルド・ディカプリオが「日本にもこんなイケメンがいたんだ、ワーオ!」と驚いた筆者のような美男子は、

(…)a red rubber ball for a nose, keep his eyebrows shaved off(…)
鼻にトナカイさんのような赤っ鼻をつけ、平安時代の姫君よろしく眉毛を剃り落とすことが義務づけられるのだ。
そういうものだ。

ドストエフスキーの「悪霊」の、

「キケロは舌を抜かれ、コペルニクスは目をえぐられ、シェイクスピアは石で打たれる」「奴隷は平等でなければならない」

っちゅーセリフを思いだした。

玉こんにゃくの美味しい作り方講座

玉こんにゃくは生娘よろしく、一にも二にも他人の色に染められるのを嫌う。
三島由紀夫が自衛隊駐屯地で訴えた遺言のあらましである。
しかし、憂国の叫びはヘリコプターの轟音にかき消された。今日に至るまで、玉こんにゃくは何も変わらず煮られている。
三島先生の御志を継ぐ者として、現代日本の怠惰、目に余るばかりであります。

お前ら聞け、静かにせい、漢一匹が命を賭けて諸君に訴えているのだぞ。
玉こんにゃくを茹でるとき、必ずハサミで十字に切れ込みを入れろ。噛みやすくなり、つゆも染みやすくなる。

まだ、手を緩めてはならない。
かつて西欧列強は、分割統治によって植民地の反乱を未然に抑え込んだ。
我々も玉こんにゃくを、己が食欲の下に切り裂いたとて、油断するには早すぎる。
分割せよ。しかる後に味見せよ。
すなわち、ハサミできやつらの土手っ腹を突く。突く。憎い上司の顔を、意地悪い教師の顔を思い浮かべ、一切の呵責を覚えず突くのであります。
 
しかし手首が大変痛む。ほどほどにね。
憂国の士たるもの、いつも切腹をできるが上等。
手首の痛みで仕損じたとあっては、これはもう、男一代の恥でありますから。

エイリアン・ロムルス―エイリアン、お前も行儀よくなっちまって―

可も不可もカフカも株価もレディー・ガガもない。
確かに、幼体エイリアンの酸でさ、床ぶち抜いて、んで成体エイリアンを突き落とすラストには、手堅いスリルがある。
んでも「エイリアン・コヴェナント」の持つ、人類への抑えがたい悪意。
エイリアンへの絶大な愛情。
すべてを置き去りに流れるワーグナー。
あれか、ナチスの優生思想と、エイリアンによる人類淘汰を重ねたのか―、あのカオス極まる愉しさはない。
やっぱり、リドリー・スコットって変態なんだなと思った。
あんなエイリアン映画、この世で彼(強いて挙げれば次点でギレルモ・デル・トロかな?)しか作れないのに評判が悪すぎる。

まぁ、いいから「エイリアン・コヴェナント」を観てくれ。

雪風 YUKIKAZE―野蛮な入植者が記憶を歪める―

心底飽きた、もう嫌。
「永遠の0」「あの花が咲く丘で(略)」「ゴジラ-1.0」またこの手の映画かよ。
何が「恋人のため、家族のため彼らは死んだ」だ、ダボが。麻薬打たれて無理やり飛ばされたんだ、バカが。特攻隊員の手記も読んだことないのか、カスが。
これは不沈艦と謳われた駆逐艦、雪風の船員たちの映画。大筋はなーんも変わんない。頼むから変えてくれ。もう飽き飽き。
その手のオナニー歴史解釈は人目につかないところでやれってママに教わらなかったのかな?
まぁ、村上春樹に曰く「文化的雪かき」だと思って書くさ。

いつもの通り人情味という砂糖衣で、戦争も暴力も加害性もアメリカもエゴイズムもまとめて包んで呑み干す、志が欠片もないはんなり日本しぐさ。
それが剥き出しなのは先述の通り。
でも、この辺りをつんつくつんつく突っつくのに、こちらも飽きた。
せめて天皇だの、國體思想だの、無理ならアメリカ側の加害性だけでも描けや。
そしたら私も
「この極右思想に汚染されたヘボ映画め!」やら「なかなか胆力があるな」やら、木っ端の批評でも投げられる。
それが、本当に何一つも描けないんだからさ。
雪風、同じ白でもこの映画は"のっぺらぼう"、目も鼻も口もない。
現代を生きる私たちが見たくない一切を画面の外に、お利口に棄ててくれやがって。
イスラエルがパレスチナにおける大虐殺(ナクバ)を、ろくでなしの文科省の慰安婦問題よろしく教科書の記述から削ったようだぜ。

祖先の歴史と記憶を背負う資格などない、野蛮な、無知な、傲慢な「入植者」。
それが、今日の私たちではないか?
しかし気後れやためらいのなかで歴史を継承しようとする試みを、私たちはあまりに長く放棄してきた。
そこから生まれる「私の、僕の、俺の」歴史という発想に寄りかかる、集団記憶を私物化できるという―恥知らずのイスラエル人のような―思い込み。
結果として、この作品は「白人を尊敬する黒人」同様の暴力性を抱えている。
私たちの生きる今日は、過去を引き受ける資格を、もはや、なすすべもなく奪われている。

醜い。
これ以上愚痴に付き合わせらんないので止めるが、この映画に何か述べるなら、これだけ。

わが政治観かく語りき

この前の世界一受けたい授業でスパイ防止法の制定を促す(と受け止められておかしくない)内容が放送された。
政治について人々が話すのはいいこと。三人寄れば文殊の知恵ということわざもあるしね。
しかし、あらゆる政治は有害である。
その有害さを、「バラエティ」に―無害な何かに―見せかける(あのテレビに出ずっぱりの維新の吉村のように)のは、必ず凶々しい暴力を呼びこむ。

私たちは私たちの生が、その上に成り立つ利害調整の手段としての政治が、等しく有害だと自覚しなければならない。
それを抜きに―右翼左翼中道を問わない―政治を語り、自らが無害だと確信すれば、私たちは長く暗い坂道を、このまま降り続けることになる。

伊坂幸太郎「マイクロスパイ・アンサンブル」―異世界人のゲーム実況よき―

相変わらず面白い。
けどディケンズに右ならえの、善き偶然を連発する物語は、二十一世紀も四分の一が終わった今日には部長の生え際並みに信憑性が薄くなったな。
村上春樹の「1Q84」でも同じこと思ったけど、今の時代、偶然の物語を信じんのは難しいんだよ。
ヘミングウェイが「蝶と戦車」を書いてなきゃ話は違ったかも知らんけどさ。

まぁ、猪苗代湖か、Jpopか、社内恋愛か、異世界人のゲーム実況か、どれかに興味があれば楽しめる。
特にスピンオフでいいから、異世界人のゲーム実況は、もっと詳しく聴きたかったよ。

穂村弘の天使

「誕生日、何が欲しい?」(略)
「うろ」と天使は云った。
「?」
「うろ」
「?」
「木のうろだよ。だって大事なものはうろの中に隠すんでしょう?」
「木の、うろに?」
「うん」
「大事なものを?」
「うん、秘密の手紙とか」
「手紙……」
「近所をいろいろ探したんだけど。電柱にはないね、うろ」

「にょっ記」9月21日/欲しいもの

これまで読んだ言葉のなかで、憂國の次に美しい。

ドストエフスキー「The Dream of a Ridiculous Man/おかしな人間の夢」 

https://gustavus.edu/threecrowns/files/The Dream of a Ridiculous Man, Fyodor Dostoevsky.pdf

「白痴」が、近代ロシアにおけるキリストを描く試みなら、こっちゃ「使徒言行録」の使徒。
肉体的にも、霊的にも死にかけた男が、啓示/revelationを受けて蘇る。 
最後の独白が好きなんだ(てめぇら凡愚が読みやすいよう適当に改行した、下のは私訳なのであんまり信用しないで)。

(…)in one day, in one hour everything could be arranged at once!  
たったの一日で、いいや、ただの一時間ぽっちで、この世はたちまち楽園になるかもしらんのだ!

The chief thing is to love others like yourself, that's the chief thing, and that's everything;
肝心なのは他人を自分のように愛することだ。それが一番大切なんだ。そしてそれは全てだ。

nothing else is wanted--you will find out at once how to arrange it all. 
他には何も要らない―ただ他人を愛することだけがこの世に楽園を作りだすのだ。

And yet it's an old truth which has been told and retold a billion times--but it has not formed part of our lives!
それは何度も、何十億回も語られ続けている古い真実だ、なのに、我々はその真実には見向きもせずに生きている!
(…)
If only everyone wants it, it can be arranged at once.
誰もが他人を愛することを望むなら、ただそれだけで、この世は楽園となるのだ。

ムイシュキン公爵は白痴/idiotと軽んじられた。
この語り手も使徒ではなく、おかしな人間/a ridiculous manとしてしか見られないだろう。
こわばった現実が待ち構えている。それでも、彼は二度と迷わないだろう。

I will not and cannot believe that evil is the normal condition of mankind.
人間の本性が悪だと、俺は信じようとは思わない、そもそも信じられるはずがないのだ。

村田沙耶香「丸の内魔法少女ミラクリーナ」―隠れた名作―

村田沙耶香氏の小説は、ときに過剰な寓話性―ってわかるか?鼻につく現代日本版「ガリヴァー旅行記」みてぇなもん―に軟着陸しちまう。
この前の「世界99」とかな。

三島と似てんだよな。「信仰」とか「無」みてぇな宗教性を問う話は、あちらも「英霊の聲」とか「豊饒の海」でやってるだろ?
で二人とも、性的な疎外者のまなざしを持ってる。
ただ、デイヴィッド・ソローの泣き所、その目で我らマジョリティを撃つまではいいが、その廃墟に新秩序を打ち立てるまでコマが進まんのよな。

「魔法少女ミラクリーナ」も、暴力的な男の存在はちっと頭で書いた感じはあるな。
でも、友だちの彼氏と二人で魔法少女(?)業に勤しむ女性社員。この設定だけで読ませる。
ヨソモノを笑うムラ根性を裏返すように、この話は"ウチノモノ"を笑うんだよな。

「ミントスプラッシュ!ミントスプラッシュ!」(友だちのレイコ、初代マジカルレイミー)
「このイカレ女!別れるぞ!」(彼氏の正志、二代目(実は偽の)マジカルレイミー)
「こっちが願い下げよ!もう一切連絡しないで!私の前から消え去れ!」

単行本p52.

この"ウチノモノ"がさ、今の日本は笑えねぇだろ?自民党とか、松本人志とか、高市早苗とかさ。
俺も、高市の頭をドストエフスキーの「カラ兄」で、たんこぶまみれになるまでどつきてぇよ。
その名はマジカルドストエフスキー。
必殺技は五大長編(「罪と罰」「白痴」「悪霊」「未成年」「カラ兄」)をジャグリングしながら投げつけるマジカルブックエッジデストロイ。
悪の組織ジミントウの議員共を、夢と魔法と裏金と新興宗教の国ナガターランドから一匹残らず追い出すその日まで、マジカルドストエフスキーの戦いは終わらないのだ。

三島由紀夫「卵/EGGS」―なぜ訳した―

図書館に"THE SHOWA ANTHOLOGY"という訳書があったので見たら、三島の短編「卵」の英訳があったので、物見遊山がてらに読んだぜ。 

さて、翻訳には大きく分けて「同化」と「異化」の二種類がある(山本司郎氏からの又聞き)。
たとえばディケンズの「クリスマス・キャロル」に
"There's more gravy than of grave about you"
という一節がある。
幽霊を信じたがらない拝金主義者、スクルージの言である。そのため律儀に訳せば、
「お前は墓場グレイヴよりも肉汁グレイヴィに縁がありそうだ」となる。
これが、原文を尊重して訳す「同化翻訳」である。弱点は原文に忠実に過ぎるあまり、ときにかみしもを着たような堅苦しさを伴うこと。

そのため、たとえば
「お前さんは霊魂(レイコン)よりベーコンに近そうだ」
「お前さんは『うらめしや』より『裏の飯屋』の匂いがするぞ」
「あんたは化け物(バケモノ)より、揚げ物(アゲモノ)の匂いがするな」 
(上から井原慶一郎、山本史郎、越前敏弥の翻訳をそれぞれ参照した)
訳を工夫し、原文のニュアンス―おかしみ―を表す。
こちらが「異化翻訳」である。
(神西清訳のドストエフスキー「永遠の夫」に「急がば回れ瀬田の唐橋」ということわざが出てきた。原文では何だったのか、気になる)

確かに異化翻訳の方が華やかで楽しい。だが、行き過ぎれば原文への敬意を損なう恐れもある。
同化が正しい、異化が正しいと二者択一で考えるのではなく―俺バカだから難しいことわかんねぇけどよぉ―臨機応変に、多様な訳のあり様を認めていくのが一番いいんじゃね?

しかし、かつては異化翻訳が優勢であった。
日本に限らず、その国の言葉として馴れた訳が選択される傾向が強かったそうだ。
「EGGS」も、その傾向で訳されている。
結果は惨憺さんたんたるもの。
三島の「卵」は、ただでさえ笑いのセンスが致死的にない。終わってる。「サボテンが何サボってんだ」の方が笑えるんだけど?
にもかかわらず、堅苦しい訳によって、原文の高山に生息する苔のようなユーモアまで削った結果、誰が得をするか分からぬ怪作と成り果てている。

言っとくが訳者にゃ罪はねぇ。
元々、三島のユーモアはエッセイの方面で強く発揮され、小説では抑制されんだわ。
おまけにゃ、原文には慣用句も多い。インターネットもない時代、さぞ苦労されたのではないか。

大筋のストーリーを説明する。
1.卵好きのボート部員たちがいる。
2.当然ながら卵に恨みを買う。
3.卵たちは裁判を起こす。
4.彼らは裁かれかける、しかし辛くも難を逃れて、楽しく人生を送る。
へー、面白ーい!バカか。
こちらの頭が狂ったのではないのが残念だ。本当にこの通りの話である。
もう、まったく欠片も笑えない。
そもそも、
「笑いをこらえるのに大童おおわらわであった。」
「こんな阿呆陀羅経あほだらきょうのような議論に呆れ果てた」
こういうこと書いちゃ駄目でしょ。
笑い話であるにもかかわらず、三島は読者が笑うと信じられない。
何しろ世界解釈の小説「豊饒の海」を、冥土の土産ついでに自らの介錯の解釈にした男である。
要は、他人に自作を身勝手に読まれんのが嫌!
結果として、三島は常に読者の先回り。
マーカーでピカピカ優等生しぐさ、「はい、ここが笑うとこですよ」―印をつける。
五秒に一度「笑って!」とどやされる漫才、士族の商法、インテリのユーモア(ブーメラン)。

で、訳に対する素人の突っ込み。
まず、登場人物の名前が仏教の五戒「不殺生戒」、「不偸盗戒」、「不邪淫戒」、「不妄語戒」、「不飲酒戒」に由来する殺雄、偸吉、邪太郎、妄介、飲五郎なのはいいとして、飲五郎の読み方が"Ingoro"なのはおかしくない?"Nomigoro"じゃないか。

「万年床」が"never to put away the bedding"なのは単に据え置かれたベッドのような印象を与える気がする。
"a futon spread out as if it had been there for ten thousand years, never folded or aired, faintly sour with age"
など、日本語の「万年」の過度な強調を、そのまま活かす(他の選択肢として"permanently"など?)訳の方がおかしみが生まれる気がする。

「目引き袖引き」も"exchanging knowing glances"は綺麗な訳だが、元の語り調子(と微かなユーモア)が反映されないように思う。
"sharing a look, and quietly tugging at each other's sleeves"と、直訳に寄せた方が、妙味が生まれないか。

正味、ここまで来ると「座布団ほどの卵焼き」が"omelettes the size of cushions"/クッションほどのオムレツに化けたことなど、些細な問題に思えてくる。

このアンソロジー、他にも堀辰雄の「燃ゆる頬/LES JOUS EN FEU(ラディゲの詩集のタイトルに倣ったためフランス語になっている)」から中上健次の「不死/Immortal」に至るまで、二十人近い作家の短編が収められている。
暇な方、興味のある方は適当に読んでほしい。

わが文章の心得

私の一ヶ月の精神状態を、一日ごとに漢字一文字で表す。
絶恐死苦緩諦怠凡貪奪棄悔孤怯慢驕死死死忘妬嫉疑狂呆失憎暴悪壊。
阿弥陀仏が間に割って入ってくれて、どうにか今日も生きている。
ここから宗教講話三時間コースに突入しても構わないが、読者がかわいそうである。

阿弥陀仏に出逢う前は、暗い気持ちから戻れない日は、必ずゆっくり実況を見ていた。
四ヶ月病院にいたときも、ずっとマリオカート8の実況を見ていた(音は出せなかったが、面白さは変わりなかった)。
百個近い動画を見たはずなのに、内容は何も覚えてないが、楽しかったのだけは覚えてるぜ。

私も、できたらそんな言葉を書きたい。
一度だけ人を笑わせる。二度とは読まれない。それっきり忘れられる。何となく、楽しかったことだけ思い出せる。
そんな話を書けたらいいんだけどね。

尾道理子「毒母の息子カフェ」―そりゃ反則じゃね―

……結局両親は息子を愛してました!って展開にするのは反則では?
いやいやいや、そりゃ駄目沢駄目子よ。
父母子という社会が要請する家族の形を乗り越える「クィアな」共同体の物語かと思いきや、結局は自民のセンセイが腰をヘコヘコ擦り付ける保守的な家族制度に回帰すんのかい。

というわけで、これ以上私のねじれた性根から出てくるドブ色の感想を垂れ流すと読者の精神まで汚染されるので打ち切る。
今の社会で行き場を奪われた人々の共同体の、ACE(幼少期逆境体験)を経た青年たちの、静かな癒やしの物語を読みたかった。それだけ。

インターネットに突如と現れた正義の味方、その名をアボカドトマトナス

……と肥大した自我の濁流を垂れ流す貯水場に自分の記事を変えたかないので、主にtwitterに生息する、社会問題には何であれ一家言を有するやんごとなき方々のピーチクパーチクさえずり給える議題には、基本つかず離れず―後白河法皇に右ならえ―見守ることを、今日まで久しくわがモットーとしてきた。

しかし、さすがに腹立ちまめだち粒だち給えること限りなき問題が現れたため、やむなく筆を執る。 女子小学生の水着姿が、表現の自由だと抜かし給える痴れ者共が現れた。をこなり。
とりわけ不愉快なのは、彼らの言葉には「庇護」の観点がまるでないこと。
女子小学生なる童、この苛烈極まる現代日本社会における最も弱き者なり。
そのため、当然守られねばならない。
これ天が下の人の道なり。

そのとき、目に見えるものだけ気をつけて「庇護」できるだろうか。
横断歩道を右も左も見ず、男の子が人間魚雷よろしく飛び出す。それを女の子が見ていたら「童、さはなるまじ」と注意すべきだろう。
(しかし男子小学生の脊髄には横断歩道を見たら飛び出すプログラムでも仕込まれているのか?)

成人女性の水着のポスターが、どこかの壁に貼ってあるとき―何でも「職業選択の自由」だとか―、あなたは隣の女子小学生に、
「あのオネエチャンは職業選択の自由と表現の自由の二足のわらじで超自由で素晴らしいねぇ、もへへのへ」と口にするだろうか。
目をふさぎ、その場から遠ざける。それが「庇護」の意味ではないか?

表現の自由をフランス革命の担い手もかくやと喚く彼らは、自分より力の弱い者、無力な者を守るか、せめて守ろうと願ったことが、一度でもあるか。
幼稚で肥大したエゴの奴隷となり「自由」が暴力に置き換わる事実を忘れちゃいないかい?

こんな偉そうに説教してるとゴーマニズム宣言の二の舞を演じそうで今からハラハラしているが、まぁとにかく、もう少し「庇護」という観点から、こうした自由のあり様を問うまなざしがあってもいいんじゃないか。
そんな話。聞いてくれて感謝感激雨あられ。

おまけ 

前に紹介し損ねたマルタの鷹のセリフ。
"And--well, sir, in short--the situation has changed."
「そして―まぁ、ミスター・スペード、手短に話すなら、状況は変わったということです」(十八章)
このピリついた感じがたまらんねぇ。


ようわからん話ばっかで済まんね。読んでくれた方にゃ、感謝のほかない。
少しでも、楽しくさせるユーモアや、明日を怖くなくする知恵を与えられたら素敵なんだけどね。
菩薩でも、阿羅漢でも、地蔵でもない凡夫には荷が重すぎる願いだ。
あなたが、少しでも善きものに照らされますように―そんな急に言われても親戚のおばちゃんの筑前煮みたいで困るよね―、とにかく祈っている。
改めて、ありがとう。
おかげで無駄な与太話を気の済むまで話せた。



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