立川浦々「ミドルノートにさよなら」雑感―素材はいいのに調理が悪い―
※性的に露骨な内容を含みます。
前書き―エロティシズムの源へ―
「命」という言葉を聞いて、あなたが何を思うか、当然こちらは知らない。
尊さに打ち震えて涙を流し、「センソウハンタイ!」と金切り声で叫び出すかもしれない。
「セイメイドウトク!ルサンチマンノサイゴノトリデ!」と、「善悪の彼岸」のパン粉焼きを齧りながら癇癪を起こすかもしれない。
―勝手にしやがれ。
しかし我々の社会において、生命のナマナマした発露―これはまず禁じられる。
なぜか。
この深淵なる社会人類学的疑問の密林に踏みこむのは筆者も読者も疲れるから止すが、たとえばスーツが一つの典型である。
あの衣服は、人間の体の、ガウディ好みの曲線とは正反対の四角四面の線と面で、その柔らかさやもろさを覆い隠すだろう。
人が殺されるシーンと怒鳴られるシーンで二時間が過ぎさる、不毛と言えば不毛この上ない北野武監督の映画「アウトレイジ」も、登場するヤクザが全員ユニクロやしまむらを着ていたら締まらなかったに違いない。
人間の生命は、ベルクソンを引くまでもなく、ときに驚くべき跳躍を示す。ダシール・ハメットの非情極まる探偵小説「マルタの鷹」で、鉄骨を間一髪で避けた善き夫が死神の平等主義を思い知り、妻も職も捨てカリフォルニアで第二の生を歩みだしたように。
この人間種族の習性はしかし、社会を円滑に運営する上では厄介極まるのである。
やれ、新聞紙の文字がすべてゴキブリに見えたので命を売ることにします。やれ、種田山頭火に倣って放浪者となることにします。
そんな美しき生命の詩的超越に一々感動するのは亡きウィリアム・ブレイクくらいで、そもそも当の社会が滅びかねない。
問題は文学である。
そう、文学は果たして社会に含まれるのか?
これは頭の痛い問題である。
たとえば新潮社から出ている、三島由紀夫の「金閣寺」の文庫本は、今調べたところでは、税込八二五円(高ぇ)らしい。
では吃音の僧侶、溝口が金閣寺を燃やさず戦後社会の秩序に唯々諾々と呑まれたら、この値は半額になったのか。
要は小説「金閣寺」の、美への執念・戦後日本への愛憎というテーマと、八二五円という金額に、コウモリ傘とミシン、冥王星とサバ缶以上の結びつきはあるのか。
私の見る限りでは、これはどこまでも、時々刻々の日本経済の塩梅と、製本技術の云々と、出版社の儲けと、著作権料とが、お互いの権利をやかましく主張し合った結果生まれた偶然の値と思われる。
(まぁ、あんな小説が百円で読めても社会にとっては害の方が大きいがね)
このように小説とは、資本主義社会のルールの下で巷間に流布されるにもかかわらず、完全に社会に所属することは叶わない、非嫡出子や盲腸のような肩(腸)身の狭い存在である。
では、社会が封じこめる「命」―とりわけ、エロティシズムは、小説にどのように描かれてきたか。
これも頭の痛い話である。
「僕はペニスが勃起していた。彼女のヴァギナは驚くほど温かく湿っていた。」と尤もらしく書かれたところで、したたかに醒めてしまうのは私だけではあるまい。
この文章が社会の檻のなかで、動物園の客寄せパンダのように、一滴の血も流すことなく消費されるのが、今からはっきりと分かるためである。
だからといって、
「小生はチンポコがボッキング(なんちって(笑))しておった。桃色のビューティー・ガールちゃんのもう一つの唇は美しく潤っていた。」だの、
「僕は……欲棒がピンと立つのを止められませんでした。真知子さんは妖艶にほほ笑み、『ふふ、おいでなさい坊や』と、その淫猥な秘裂を浅ましくヌラヌラ光らせていたのでした。」だの、
書かれても非常に困る。前者は個人のメモ帳に留めたまえ。後者は性的妄想の持つ非主体性を笠に着た表現上の怠惰にすぎない。文章の主人は顔なしの「情欲」である。
というわけで、いくら下手な鉄砲数撃ちゃ当たると言えども、
―ペニスペニスペニスペニスペニス!
―ヴァギナヴァギナヴァギナヴァギナヴァギナ!
こう連呼されては、筒井康隆翁の二番煎じにしかならないよ。
すなわち、エロティシズムを直接的に描くのは、文学のよく為すこと能わぬ分野、と言い切ってもいいだろう。
その代わり、エロティシズムを間接的に描く場面では、文学は恐るべき力を誇る。
三島由紀夫の、「春の雪」を先取りした、宮家との婚約者と姦通する短編小説「頭文字」で、その婚約者の胸に、赤く滴る血と共に刻まれた、彼のイニシャル(頭文字)のエロティシズム。
中上健次「残りの花」の、夫を殺め若衆と交わり続ける女のあげる、高笑い。
森茉莉「日曜日には僕は行かない」の、婚約破棄の果てに一人の乙女を殺めた男たちの、暗い性愛。
エロティシズムは、個人が社会規範を裏切るとき、最も強く現れる。
同じ三島の作品でも、短編小説「憂国」で描かれた青年将校と妻のエロティシズムは、皇国史観という社会規範と絡みあって、描写は「頭文字」より詳細であるが、香気は著しく弱っている。
「恋人が歓喜の一夜にするであろうと思われることを残らず」する(「頭文字」より)。
この一文だけで、秘芽だ陰裂だ秘裂だ蜜壺だペニスだヴァギナだと喚かなくても、男と女の籠もった夜の匂いが立ちこめるじゃないかね。
そしてまた、間接性で物を言う(でしか言えない)文学では、性倒錯も猛威を振るうのである。
「源氏物語」の、律儀なエロティシズムに比べて、「とりかへばや物語」のそれは、ずっと勝る。
男装/女装という行為そのものが、当時の平安貴族社会の規範を揺るがす「悪」だからである。
おちょくるつもりはないが、ヨーロッパの先進国のようにLGBTQへの理解が進み、男性もスカートを履くのが当然視された社会では、男装からも女装からもとりかえばやの妖しさは喪われるだろう。
本題―文学は断じてNHKドキュメンタリーにあらず―
で、本題の「ミドルノートにさよなら」であるが、この肝心の点にまったく無頓着である。
文学とは、岩波書店から出る「LGBTQ問題について―知らない間に差別をしていませんか―」では、断じてない。
そういう書物が必要なのはわかる。だが、小説家が後塵を拝したら終わりである。
性転換によって、レズビアンの恋人の、片方が男になってしまう。
この設定は割によく見るが、出発地点をレズビアンに置いたのが、まぁ、工夫ではある。
そこから、香水のトップノート→ミドルノート→ラストノートに沿って、レズビアン→移行期→完全に異性の男女同士となる過程を追うのは妥当である。
しかし、そこで描かれるのがマルキ・ド・サドの一冊も読んだことのなさそうな、おぼこちゃん同士の、「心のすれ違い」とやらに留まる点で、私は評価できなかった。
なぜといって、小説とは株価暴落ではなく、愛娘がカレー作りで指を切ったことを描く場だからだ。 松本清張の社会派小説が風の前の塵と化したように、その本業は「私」を描くことであって、断じて「公」ではない。
しかしながら、この小説に書かれる悩みの内容は、等しく「公」の領域である。NHKの、ホルモンなんて下品で食べたこともありませんわ、という顔のアナウンサーが、朗々と音読できる内容である。
社会という列車から、密かに片足を出すのが、小説読者の愉しみである。満員電車の解消とか、優先席のマナーとか、その類いの問題は共産党の議員にでも任せておけばよろしい。
確かに鬼も十六、番茶も出花の麗しき乙女が一生檻に閉じ込めるべき思春期のオス猿にメタモルフォーゼするのは、当の恋人には相当の心痛と思われる。
だが、それならせめて、彼女の私的な痛みを伝える工夫が要った。
白魚が如き指先が、極太のかりんとうになり、手をつなぐ感触が変わった、とかさ。
特殊な状況下での、心の移ろいを描こうとした発想は、確かに面白い。
とは言えど、思春期の身心の変化を書くだけなら何も性転換の必要はない。
また、レズビアンといった現実の性的少数者を、今の時代に描く意味も伝わってこない。
まとめると、素材はいいが、調理法に難がある。
どうせなら(トップノート)美少女二人の恋が、(ミドルノート)中性的な美少年と美少女の恋に、(ラストノート)葉巻を咥えさせたくなる美青年とおとぎ話の姫のように美しい女性の恋へと変化する耽美物語に振り切ってもよかったんじゃないか。
LGBTQを巡っては、今は社会との摩擦(正確には我々マジョリティが強迫性障がい持ちのアライグマのように一方的に擦っている)と組み合わせて描かれるが、いつかは異性愛の物語と同じように、臆面もなきゃ衒いもねぇ愛の物語として、社会性なぞ欠片もなくなりゃあいい。
人の恋路に横から口を出す野暮天は、江戸っ子であれ京男であれ、みな無粋の極みである(自民党の先生方の御尊耳には聞こえなかったようだがね)。
難しいテーマである。肩に力が入るのは分かる。
でも、もう少し社会のサディスティックな眼差しは無視して、「小説」と呼ばれる気ままな夢の庭で遊んでもいいんじゃないのか。
その遊びがないのが、そうさな、今の社会かもしらんけど。
与太人間の、よたよたした、与太話であった。最後まで読んでくれた方、ありがとう。愛してる。時間の無駄だからこれから先は読まない方がいい。
なおフィクションの性転換については、萩尾望都氏の「Marginal」のキラの美しさに勝るものは、この地上にただの一つとてない。

