【雑談】「命売ります」を北野武が監督したら―「どこか」を求める人々についての鼻につく考察―
※性的な話と性暴力の話を含みます
「命売ります」は三島由紀夫の作品だが、彼のイメージは令和7年現在どんな感じだろう。
あれか、右翼の筋肉バカとでも思われているのか?
まあ、確かにバカではある。ただ、どちらかと言うとあれは「秀才バカ」である。
ややこしい前置きを抜きにすると、三島由紀夫は人生の後半、常に死にたかった作家だったように思う。
例えば「潮騒」なんかは、
「好きな子の着替えに出くわしてラッキー!」
など、わりかし俗っぽいエロ(三島は自然の中で生きる人間の素朴な生命礼賛とか何とかゴチャゴチャ言うだろうが)も含まれていて、さほど死にたくなさそうだが、「美しい星」や「午後の曳航」や「憂国」や「英霊の聲」まで来ると、週末の回転寿司を待ち望む子どものように死への憧れは隠しがたく滲んでいる。
それは「命売ります」も同じで、この話はタイトル通り、「自分の命」という掛け値なし(と建前はされているが実際は二束三文だな)のものを売る青年の話で、活劇あり、ミステリーあり(人参を使った理科の実験みたいなもの)、三文詩あり怪奇趣味ありと確かに面白い。
しかしその背後に「命を売ってさえ死ぬことができない世界」、ひいては人間の死に場所を欠いた「戦後」という時代に対する絶望がある―とこの記事の執筆者は思っている(注:独自研究)。
三島由紀夫という作家のジレンマは死にたいのに死ねないことにあった。もう少し正確に言うなら「尊厳を保って死ぬ」ことが。体中にタコ足配線のごとく栄養管を繋がれ、胃ろうまでして生きるなら散り桜のように美しく死にたい……その考えは私もある程度共感できる。
まあ、その「美しい死」という発想には各方面から批判がなされ続けている。
大江健三郎というおじいちゃんの小説はこの「美しい死」を拒む「ありふれた生」への祈りみたいなところがあって面白いが今日は割愛。
北野武監督の映画は、三島由紀夫に対して「だからどうした?」と言ってるような作品である。
「その男、凶暴につき」から「アウトレイジ」に至るまで、人間の死がどこまでも卑小な値札を貼られ死神に叩き売られていくような清々しい暴力の溢れた映画で私は大好きだが、「HANA-BI」や「Dolls」は昔のように人がポンポン死ななくなって(それなりに意味を持って死ぬ)、美しいカットはあるが人間の生が美しいはずもないし、私はポンポン死ぬ北野武のほうが好きである。
しかし、不思議なのは「なぜ三島由紀夫は死ねず、北野武は死ねるのか」ということだ。
「美しい星」にしろ「午後の曳航」にしろ「憂国」にしろ登場人物が死ぬのは最後も最後で、挙げ句「憂国」(美しい夫婦が自決する一夜を書いた短編)は誰だか(大岡昇平だっけ)に、「この状況で妻がおめおめ死ぬはずもない」とまで言われた(要は女は図太く生き残ると。ひどい話だ)。
極端なことを言うのは私の悪癖だが治りそうもないので話すと、三島由紀夫と北野武は実によく似ている。
例えば「首」にはほとんど誰も望んでいない男色シーンが出てきたが、思えば昔から彼の映画には男性同士の愛が滲んでいたし、三島は言うまでもない。
死への傾倒も前に述べた通り相似形である。
ではなぜ、三島由紀夫が「命売ります」ですら死ねない「戦後」で、北野武は死ねるのか。
……それはおそらく、北野武が「戦後」を生きていないからである、と私なら答える。もう少し言うなら、北野武の表現は―ひどい言い方になるが―割としっかり「表現」の範疇に収まる。作品内の突拍子もない死は強い印象を残す反面、「蝶と戦車」のように、「現実」の即物性を切り取ったものとして、ある程度まで消費できる(富野由悠季監督の「ガンダム」や「Zガンダム」の戦争描写のように、だから「∀ガンダム」作っちゃったのかな)。
一方の三島由紀夫は、「表現」から言葉が零れてしまう。もう少し言えば、自らの「表現」を最後の最後まで信じきれない。
結末がひどい作家と言えば谷崎潤一郎は外せないが(それは男がヤルことをヤッた女の眠るベッドから起き上がる荒々しさに似ている)、三島由紀夫の結末も同じ程度に褒められない。
実際「豊饒の海」のラストは行き詰まった作家のヤケクソにしか思えないし、「美しい星」の後半は壺井栄の「二十四の瞳」といい勝負だ。
だから今、私は考えていた。北野武監督は無意味に死んでいく人間を何度も撮り続けたが、「死ねない人間」「死から拒まれた人間」を撮ったことはあるだろうか、と。
私は「菊次郎の夏」や「アキレスと亀」などは見ていないので、北野監督のすべてを知ったように書くのは批評のルール違反だが、おそらく、ないのではないか。
【追記:「アキレスと亀」見た。思ったよりずっとよかった。世間から認められない芸術家の話。自分がバンクシーみたいに描いた絵を自分で消す場面の惨めさが記憶に残った。】
北野監督の描く死は悲惨だが、三島由紀夫にガンで死ぬのとどちらがいいか尋ねたら、彼は迷いなく前者を選ぶだろう。
あの人、元々糞尿汲み取り人など社会のはぐれ者の悲惨が好きだし、映画にもちょくちょく出てる。
もし北野監督のチンピラヤクザ役として死ねたら、彼も自衛隊駐屯地まで押しかけて死ななかったかもしれない。
だが、三島由紀夫は死ねなかった。というより、自らを含む現実が決して死なないことを理解していた。
要するに三島由紀夫が腹掻っ捌いて死のうと日本人はあいも変わらずノラクラで、「二十四の瞳」から「永遠の0」に至るまで安上がりの情緒という酒に悪酔いする習性は治らないのである。
いや、私だって薄幸の美少女がなすすべなく死んでいくのは好物だが、癪にさわるのはその死に必ず「生に役立つ意味」が、「トクトク・クーポン!」か何かのように紐づいていることにある。
「世界の中心で、愛をさけぶ」にしろ「きみの膵臓をたべたい」にしろ、なぜ美少女の死を男たちの生の励ましとして消費するのか?
美しいものが、何の意味もなく滅びることこそ美しい。
三島由紀夫が闘ったのはこの戦線である。そして見るも無残に敗北した。当たり前である、多くの人間にとって死とは永久に訪れないマラソンのゴールテープのようなものだ。
北野武監督はほとんどおとぎ話のように単純な「アウトレイジ」でヤクザをぶち殺し続けたが、蓮實っち(蓮實重彦氏)の言葉を雑に借りれば、この映画は「私たちの生きる今、ここ」ではない「どこか」の物語である。
それが悪いのではない。
ただ、三島由紀夫の「命売ります」は「どこか」の奪われた「アウトレイジ」である。羽仁男という名の大友には敵も部下もなく、青ざめた死神の憩う画面で無意味に死ぬことすら赦されない―警官に笑い者にされるだけである。
(なお「憂国」「英霊の聲」「蘭陵王」「豊饒の海」あたりは、三島が必死こいて「どこか」を書こうとした作品群だが、「憂国」の奇跡的成功を除けば、順番に
1.チープなオカルトへの頽落
2.過度なルポルタージュ志向によるフィクションとしての説得力の喪失
3.「転生者」というフィクションの過剰に伴うリアリティの喪失
とすべてオケラである)
で、もし三島由紀夫が「アウトレイジ」を書いたらどうなるか考えてみた。
中上健次の壮大な失敗作にして傑作の「奇蹟」という、被差別部落のチンピラヤク中ヤクザをあまりにも美しく書いた長編小説があって、私は極めて好きだがあんな感じになるかな。
(中上健次は紀州熊野という「どこか」が喪われた後に、世界じゅうを歩き回って「どこか」を探したが見つからなかった大変な作家なのだが、この人もやっぱり死にたそうでいい)
ちょっと話が迷走してるので纏めると、つくづく三島由紀夫は「どこか」のない作家だったと思う。
今の作家だと羽田圭介氏とか今村夏子氏(私は勝手に日本のラース・フォン・トリアーと思っている)とか割と「どこか」のない世界を受け入れている―だから私はどちらも苦手だ―人々はいるが、三島の不幸は「どこか」への希求性を手放せなかったことにある。
今思えば、政治の世界を書いた「宴のあと」や労働争議を書いた「絹と明察」など、箸にも棒にもかからない上に資料の文言を一部変えて写すなど(ちなみに昭和の作家ではそこまで珍しくない)、作家としての最低ラインまで破ったようなヘボ小説は、三島由紀夫なりの「どこか」からの逃走劇だったのかもしれない。
思えば「金閣寺」の時点で三島由紀夫の「どこか」に対する憎悪は深く激しいものだった。
北野武監督で人間がポンポン死のうと、現実世界で人間はポンポン死なない。私はこれまで錆びたギロチンで七日かけて殺されるべき人間のカスども(私も含む)を見てきたが、この世は「ソナチネ」ほど青くもなければ「アウトレイジ」ほど単純な暴力が支配してもいない。
永井陽子という不思議な魅力のある短歌を作った歌人がいるが、彼女の歌にこんなものがある。
たましひを奪はれてなほ生き継げる老人がこの朝に鞠つく
魂を顧みられることもなく殺された第二次世界大戦の大勢の死者たちは、確かに果てしない悲劇である。だが今日、私たちは「たましひを奪われてなほ生き継げる」―生き続けられてしまう。これは悲劇ではないのか。
そんな三島由紀夫の絶望を、この歌は一語で見事に示している。この老人にはデモも、革命も、誰かを愛することも殺めることもできないだろう。死までのほんの僅かな間、彼にはただ子どものように「鞠つく」ことだけが許されている。
しかし、それは私たちも同じではないか。大義からほど遠く、鞠つきよりは幾らか面白い小説や映画の評論もどきを私のように書く自由はあるにせよ、そこに魂はあるのか。
申し訳ないことに私にはあるが、薬草の値上がりを気にしながら始まりの街で息絶えるRPGを誰もやりたがらないように、私たちは「鞠つく」以上の生をどこかで求めている。
この前、あの極右カルト政党こと参政党のコマーシャルを見て、よくできていると感心した。
いや、本当によくできていた。皮肉でも何でもない。立憲民主党のリベラル特有の体臭がうっとうしいコマーシャルに比べ、粗野なほど単純な価値観が露店売りのようにずらずら並べられている。
すなわち、「子どもたちの暮らす国を守りたい」「安心安全な日本を守りたい」。
もちろんその背後には差別と排除の冷たさが暗くわだかまっているが、陽の光のキラキラに満ちた画面からは、大きな価値と共に生きる人間の素直な歓びを感じ取るほかなかった。
私は阿弥陀仏のご誓願を信じ、かろうじて生きているが、もしこうして出逢わせて頂けなかったら、私も参政党支持者になっていたかもしれない。
自分の命が価値ある「大義」と結びついていることほど人間の今日を慰めるものはない。それは人が生きるためどうしても必要なものだ。
しかし、我々日本民族はこの手の「大義」をうまく作ってこれず、できたのは「天皇教」というカトリックを腐らせ接ぎ木した神道までダメにしたヘボ宗教もどきだけである。
参政党の「新日本憲法」はこのヘボ天皇教を鵜呑みにした憲法もどきだが、私はこの類の代物(曽野綾子のエッセイなど)を読むたび、三島由紀夫を思い出す。
彼らの言葉に共通するのは「ここではないどこか」への、抑えがたい呼び求めである。
この憲法が示す日本は、「国全体が家族のように助け合って暮らす」理想郷である。もちろんそんなものが成り立つはずもない。人間は狡く醜く、孤独なままに群れては他者を脅す、弱く愚かな存在である。
けれど人は実に厄介なことに、何かを「信じる」ことができる。
信仰とは突如として視界のすべてが奪われるように、大きな暴力と限りなく近い。暴力にすり替わりもする。
人間の信の危うさは、「どこか」を信じるあまりに「今ここ」を見喪うことにある。
昔から弥勒菩薩信仰に伴う「ミロクの世」の呼び求めを始め、理想郷を求めるのは人の常だが、そこでは「今ここ」を地道に改善しようとする試みや、「今ここ」の複雑さを無視する暴力が隣り合わせになってもいる。
例えば私の信じる浄土という「どこか」とて、女子小学生をレイプした犯人も大量殺人鬼も、もしアイヒマンが念仏を唱えたらアイヒマンすら仏になるのだが、それは「今ここ」の暴力を見続けた方々にとっては、手ひどい暴力に見えるはずだ。
そしてそれは正しいと私は思う。理想郷は一つである必要はなく、また必ずそこから拒まれる人間がいる(イワン・カラマーゾフのように)。
私は参政党は大方自民党が作った票割れ用のヘボ政党だと思っているが、「参政党的なるもの」を信じる人間を馬鹿にはできない。
夏目漱石の「行人」という、最後の章を除いては死ぬほどつまらない長編に、二人の男たち(「私」と一郎)による神をめぐる論争が出てくる。
「君のいうような不安は、人間全体の不安で、何も君一人が苦しんでいるのじゃないと覚ればそれまでじゃないか。つまりそう流転して行くのが我々の運命なんだから。」
けれど「私」にこう言われても、一郎は納得できないし不安は決して消えない。「羊をめぐる冒険」風に言えば、一般論はここでは役に立たない。
ドストエフスキーなら一郎は無残なピストル自殺を遂げるか神に出逢うか白黒ついたが、ここは天皇という偽りの神が鎮座する明治日本である。
一郎の灰色の苦悩は決して片付かない。というか、「こころ」「道草」「明暗」と、この後の漱石の作品では苦しみが解消された試しがない。
「私」と一郎の論争はドストエフスキーから神を抜いたように発展しない。ヘーゲル的弁証法が保証する、世界が大きな物語として発展していくというファンタジーは酷たらしく死んでいる(さながら民主主義と資本主義のお得セットが広まれば世界は良くなるという幻想の物語がずっと昔に死に絶えたように)。
「行人」の頃から、我々はさほど変わっていない。相変わらずこの国に神はおらず、偽りの神こと天皇は勝手に人間に化け、その後はマルクス言うところの「物神」が神の代理としてのさばり、私たちはお腹の空いた大学生のように3分で食える「国家と民族」という栄養に乏しいフィクションを大慌てで貪り食っている。
私はなぜか阿弥陀仏に出逢わせて頂いたが、今から日本国民がブツブツ念仏を唱える未来が来るとも思えない(そうなったら嬉しいけどさ)。
三島由紀夫において、神話はずっと昔に滅び、平たく伸びた戦後という「今ここ」が世界を呑みこんでいる―ゆるんだゴムのような、資本主義の外に出られない私たちと同じように。
それに比べると北野武監督の「アウトレイジ」は、私には一種の理想郷にすら思えるのだ。人間がこれほど容易く死ねる世界は、少なくともコンビニエンスストアが二十四時間営業であることを疑わない今日より、ずっと美しい。
人間は神のいない世界で「死」を忘れ、あまつさえ「死」をコントロールしようと試みる。
江戸時代、井原西鶴は神など中年になってから考えればいいとほざき、本居宣長は死をひたすら嘆けとほざき、そして現代では「終活」という言葉まで生まれたが、この調子だと、私たちは死のその間際まで働き続けねばならないらしい。
参政党の―むしろ国家神道の―「物語」には、確かに人間の生をイキイキさせる力がある。それは否定できない。リベラルの地道な現状改善論より、神話の非論理的な説得力ははるかに人間を動かす。
私とて仏を信じる身である、人間にとって信じ得る何かを持つことがどれほど嬉しいか、よく知っているつもりだ。
しかし彼らの言葉は人間の死を忘却している。人間の生のみを讃える神話は、いつか死によって暗く復讐される。
人間の死を取り込めない限り、神話は死を脅しに使う。以下はそのサンプル会話である。
「あんな迷惑な外国人なんて、いっそ殺しちゃえばいいんじゃない?」
「それは言いすぎでしょ〜、確かに迷惑だけどさ」
やがて神話をまつろわぬ者は暴力的に排除され、曖昧な「民意」によって殺されていく。ちょうどトランプ政権下の移民たちのように。
そのとき、例えば人間の死を含む大きな物語を語ろうとする「ソナチネ」や「アウトレイジ」、神の不在を見つめる「行人」「命売ります」、これらの作品群は熱狂に加わることなく佇んでいる。
私もまた、人間の死に応える神を持たないこの国に生まれ、魂を欠いた人間を何人も見てきた。あるいは私とてそうかもしれない。現代日本における「参政党的なるもの」への傾倒を、私はその反動として受け止めている。
しかし偽りの神話は偽りの魂しか与えない。
「国家と民族」という神話は、私とあなたの小さな死の間際に応える力を持つか。終わりのない闇が背中まで這い寄ってくるその日、日本国旗と君が代は護ってくれるのか。護ってくれるの?ならいいけどさ。
私は確かな意味(絶対者)と生きようとする人間が好きだ。だからこそ、その願いが国家神道という―少なくとも私の目には―致死的な欠落を抱えている神話に取り込まれていくのが悲しい。
それだけの話を長々書いたものだ。
それはそれとして、北野監督には一度三島の「命売ります」を現代風にリメイクして、映画化してほしい。死に得ない人間の悲惨をきっと見事に示すだろう。
そう、私たちは死に得ないのだ。どこにも死に場所がないのだ。困ったもんだ。いっそどこか田舎の僻地でも買い取って、飛び降り専用ビルでも作ろうか。痛そうだな。どうせなら世界一美しい銀色の観覧車からでも飛び降りたい。

