高校生短歌/角川短歌
この出版不況の御時世、あおりを受けているのは文学だけにとどまらず、数多の雑誌にも及ぶ。
私の行きつけの図書館では鉄道雑誌が消え、登山雑誌が消え育児雑誌が消えた。じきに「雑誌」という言葉は死語になるかもしれない。
その御時世に本屋で雑誌を立ち読みするのは非常に心が痛むが、何しろ牛乳が250円で卵が268円である。世も末だ。本など買う余地がどこにある。
ということで角川の短歌雑誌に載った高校生短歌を本屋で読んだ。良かったものを独断と偏見で紹介する。
願わくばあの陽だまりでもう一度優しく背中を撫でてほしくて
素直な歌である。人工的な技巧はなく、詠まれた際の気持ちがこちらの胸にすっと入ってくる。
音漏れを聞く限り失恋している人に新宿まで寄り添った
おそらく電車(あるいは地下鉄)の風景だろう。
普通は人目(耳?)に晒されることのない他者の心中が、音漏れというアクシデントで図らずも外に零れたのを冷笑せず「新宿まで寄り添」うところに、柔らかな抒情が宿っている。
ねるねるねる地球ねるねる覆うねるまでねるねるする約束してね
真面目に解説するのも野暮ったい、谷川俊太郎のナンセンス詩を思わせるユーモラスな歌である。
月面も今宵は風が強かろうひとり頬張る蜜柑やわらか
蜜柑の丸さから月へと連想が導かれたか。上句の非日常性が「ひとり頬張る蜜柑」に繋がる点に素敵なユーモアがある。
風の強く寒さの堪える一日の終わり、コタツで安らぎつつ月面へ思いを馳せる、少しロマンチスト気質な若者の姿が思い浮かぶ。
箱庭の世界になかった戦争が我らによって現代にある
河合隼雄の心理療法に箱庭療法というものがあるが、そうした人間の想像力を越えた暴力を、私たちの世界は生み出してきてしまった。
もはや箱庭を作り得ない「現代」を生きる私たちに、為すすべは残っているだろうか。
焼きそばは濃い味付けが好きなんだ君の言葉で好みが変わる
ひどくいじましい歌である。ぜひ青のりだらけの歯でキスできる誰かに出逢ってほしい。
商品の名前で文句を言うんじゃねえじゃこもしらすも同じ味だろ
その通りである。大葉とシソもこれに倣え。
冷奴 冷やし中華に冷や汁 冷やしてしまえばなんでも美味い
その確信の強さがうらやましい。この方なら冷やし牛丼も冷やしピザも冷やし肉まんも美味しく食べそうな気がする。
てのひらの「人」を飲んでた十二歳戦争劇の幕が開く前
戦争の渦中にある人々が「てのひらの「人」を飲」む余裕はないだろう。
戦争劇と自らの小さな自意識によって、「十二歳」は二重に本当の戦争から隔てられている。
こうした批評歌として読んだが、しかし本当の戦争もまた、人間の拙い自意識と三文芝居の先にあるのかもしれない。
玉留めのできぬ私と君にだけ見える廊下の世界があった
家庭科の居残り組を詠った歌だろう。
「玉留めのできぬ」という負の事実が、「廊下の世界」―(おそらく)人気の絶えた夕暮れの―に転換される一瞬のエネルギーに、他者の経験と代替不能な人間の生の燦めきが宿っている。
皆さんも興味があればぜひ読んでほしい。
