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『揺さぶられる正義』/正義の言葉が足りなかった(映画感想文)

SBS(揺さぶられっ子症候群)とは、上半身を前後に激しく揺さぶることで乳幼児の脳の中などに損傷が生じる現象のことをいう。死亡や重傷を負うまで乳幼児を激しく揺さぶる、この常軌を逸した行為を突き詰めるていくと子どもに対する虐待の疑いが浮かび上がってくる。
2010年代、このSBSを根拠に、子どもの親などが幼児虐待の疑いで逮捕される事件が相次いだ。2000年以降に訴追の可否を問われた保護者は判明しているだけで151人。
だがのちにその発症プロセスに疑問が生じる。揺さぶりなどの外因がなくとも同様の損傷が起こる可能性がある、といわれたのだ。であれば、乳幼児を激しく揺さぶる行為などなかったのではないか。親たちは虐待などしてはいなかったのではないか。一面的な判断が多くの冤罪を生んでいた可能性がある
『揺さぶられる正義』(25)はその事件を報道してきたメディアの立場から検証、四つの事件に取材したドキュメンタリー映画だ。そのうち子どもを虐待死させたと義父が逮捕された一件は、二審で無罪判決が出たが現在も検察が上告中である。

監督は上田大輔。関西テレビの企業内弁護士から、記者となった変わり種の人物で、もともと企業内弁護士になったのも、99.8%という日本の刑事事件の有罪率に絶望したからだという。
彼が18年から関わった〈検証・揺さぶられっ子症候群〉のテレビドキュメンタリーは23年までに三作作られ、映画はこのシリーズが元になっている。

厚生労働省の「子ども虐待対応の手引き」(13年改訂)の中に、
「受傷機転不明で硬膜下血腫を負った乳幼児が受診した場合は、必ずSBSを第一に考えなければならない」
との表記がある。そのもとになったのはさらに遡ること二年前に医師らによって作成された「子ども虐待対応・医学診断ガイド」で、そこには「硬膜下血腫、眼底出血、脳浮腫の3兆候があればSBSの可能性が極めて高い」と書かれている。執筆に関わった医師の話では、一秒間に三往復するほどに揺さぶられないと発症しない。この症状が出ればそれは故意に激しく揺さぶられたもの=大人に因る虐待、ということになる。
この医師本人も映画の中ではインタビューを受けている。彼は「もしかしたらなかには虐待でない原因で起こったものもあるかも知れない。だが、その可能性で多くの虐待を見逃してしまうのなら、自分としては虐待されている子どもの側に立って物事を判断したい」といった内容のことを述べている。医師には医師なりの、守りたい相手と信念があることがここでは語られる。
「虐待される立場の弱い子どもを守る」正義「ひとつでも冤罪を生んではならない」という正義のせめぎ合いだ。

この二つの正義のどちらを優先して考えるか(どちらが正しいとはいえない)、というところから映画は始まるのだが、物語が進むにつれて問題の焦点がズレていく
「事件を警察発表に基づき広く報道することで再犯・再発を防ごうとするメディア」の正義「思い込みを誘導するメディアによって、確定していない罪をあたかも犯したかのように報道されてしまう一個人」の大変弱くて脆い正義の対立に変わって行く。
多分きっかけは制作の過程において、監督の上田がポレポレ東中野の支配人大槻氏にいわれた言葉だろう。公開の相談にむかったところで、上田は支配人から、
「メディアの悪、自分たちの悪について向き合っていない」
と指摘されたというのだ。

ここで扱われている四つの事件のうち、先にも書いたがひとつは現在も検察が上告中だ。その被告だった今西氏は、二歳四か月の義理の娘を亡くしている。心肺停止状態で緊急搬送された娘は七日後に死亡。その際の診断で硬膜下血腫、くも膜下出血、眼底出血が確認された。外傷はなかったが虐待を疑われ、殺人容疑で逮捕、傷害致死罪で起訴されている。逮捕後に検察は、義父も気付いていなかった娘の外からは見えない部分の傷や、以前の骨折の痕跡を見つけ出し、強制わいせつや傷害で追起訴する。
もちろん、監督の上田の所属する関西テレビのニュースでもこの事件は扱っている。
そのときのニュース映像を見れば、なるほど、ポレポレ東中野の大槻氏のいわれていることに納得がいく。物事の核心を突いているといっていい。
そのニュース報道の仕方が、いかにも「こいつが悪いヤツです」「義父の今西という男がやっています」というように編集されているのだ。確かに、当時の今西さんは髪も染め、やや関西弁の口調もけっして印象がいいとはいえない。だが、その画角の切り取り方や言動の編集の仕方で観る人の印象は大きく変わる。報道する部分・内容の量でもそれは変わる。撮られている側の事実とは別に、撮影し、編集し、流す者の意識によって、見る側へ何らかの印象を与えることは可能だと、プロの記者、長年報道に携わってきたテレビ局なら判っている筈なのだ。
同時に、裁判で判決が出るまでは公平でなければならず、偏向をもって伝えてはならないと重々理解している筈なのだが。
映画の中で、SBSを根拠に逮捕された人たちが「冤罪」ではなかったか、と弁護士たちは奔走する。上田の立場も、逮捕された人たちの無罪判決を勝ち取る側だ。だが、彼らが逮捕されたときに、あたかも「この人たちは子どもを虐待した人たちですよ。罰せられてしかるべき人たちですよ」と(事件とは直接関係のない)大衆にも思い込ませるような報道をしていたのは、上田の属するテレビ局である。

先に「子ども」か「冤罪」かといった相反する正義の対立から、「メディア」か「一個人」か、といった正義に焦点がズレていく、と書いたが本当はそうではない。
前者については二つの正義によって人びとは揺れる。だが、二つめの対立のなかでは、「個人」を守る正義はあれ、「メディア」の側には正義はないのだ。事件を報道することで今後起こるかもしれない多くの同様の事件の発生を防ぐ、という正義がメディアにはある、というのであれば、それは「無罪かも知れない人物を悪人らしく仕立てあげて見せ晒上げる」行為に近く、その姿勢は「子どもの虐待を見つけて虐待者を罰するために、少数の冤罪が生まれることは仕方がない」という医師のそれと何ら変わりがない。それはメディアが理念をもって行う正義なのだろうか。

映画の結末で、上田は今西さんに向き合おうと、当時のニュース映像を見せる(今西さんは逮捕されていたので報道はほとんど見たことがなく、彼の与り知らないところで、世間の印象は作り上げられていっていた。ニュース番組のために)のだが、そこで今西さんから放たれる「別にこんな動画を流さなくても、静止画でニュースとして知らせてもいいじゃないですか」という一言に、上田はいいわけのような言葉しか吐けずに終わる。
この場面を映画の中に入れ、こういった切り取り方で観客に見せることを誠実だと思っているのなら、監督は相当今西さんという人を、この人の受けた痛みを軽く考えていると思う
もう少しでも、今西さんに対して真面目に向き合う言葉を用意していき、たとえ局の内側にいる人間であっても、ひとりの人として血の流れる想いを吐き出してほしかった
もしこれで自分たちの悪に向き合ったと思っているのなら、なんとも情けない話だ。
真摯な立場で映画を作ってきたと信じて鑑賞していたが、結局は、今西さんを含め他の苦しまれている家族の人たちの気持ちなど何ら理解出来ていなかったのではないか、と思ってしまう。
もちろん、この事件のことを世間に周知させるだけの意義がこの映画にはある。
だが、劇中で多くの人(医師や検察の人たち)の矛盾を突いて真実を模索し続けていながら、最後になってメディアの人間が何の哲学も言葉も持たなかったことが露呈した印象が残った。残念だった。
あの人びとが流した涙は何だったのか
その涙を流させる一因(以上)に、メディアはなっていなかったといえるのか。


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