書店にて|恋が始まる7つのレシピ①
大学の帰りにいつもの書店に寄る。
ここは哲学科の私には嬉しい本がたくさんあるのが気に入っている。
店に入ると走ってきた子どもにぶつかりそうになった。声を荒げたいのを必死にこらえ、周囲を見るが親らしい姿は見当たらない。
しかたなく私は腰を落とし、その子に言い聞かせた。思わず子どもの腕を握る手に力が入る。
(今日はツイテない)
哲学書のコーナーには、先客がいた。
背が高い男性。離れていても分かる。少し愁いを含んだ横顔で、真剣な表情でページをめくっている。でも時々、困ったような顔をするのがかわいらしい。
私は隣の棚までそっと近づいた。もう少し間近で彼の横顔を眺めていたくなった。
(きっと、深く物事を考える人なのだろう。朝はコーヒーを飲みながら新聞を読み、休日は美術館を巡ったりするのかもしれない)
私に気づいたのか、彼がふとこちらを見た。目が合ってしまう。
「あの、すみません」
彼が声をかけてきた。
「これって、どう読むんですか?」
え?
彼が手にしていたのは『ツァラトゥストラはかく語りき』。
「つぁら...とぅすとら、です」と私。
「ありがとうございます。実は、昨日恋人に振られて」
彼は苦笑いを浮かべた。
「?」
「『あなたって薄っぺらい』って言われちゃって。それで、哲学書でも読んでみようかと思ったんですが、やっぱりよくわからなくて」
「そうですね、ニーチェは確かに...」
私は思わず微笑んでしまった。
「あの、よろしければコーヒーでも飲みませんか?もう少し教えてもらえると嬉しいです」
カフェで向かい合って座ると、彼は恥ずかしそうに話し始めた。
「本当は、本なんてほとんど読まないんです。マンガばっかりで」
「マンガも立派な文化ですよ」
「でも『ONE PIECE』とか『鬼滅の刃』とか、そんなのばっかりです」
彼の目が輝く。ルフィの話、炭治郎の話。声が弾んでいる。
やがて私は気づいた。この人は確かに哲学者ではない。でも、人の心の痛みを理解しようとする優しさがある。人の話に真剣に耳を傾け、自分を変えようと努力する誠実さがある。
「あの、ちょっと聞いてもいいですか」
彼が遠慮がちに言った。
「なんで僕の方を見ていたんですか?」
私の頬が熱くなった。
なんて答えよう。『あなたが哲学書を読む知的な人だと勘違いしたから』なんて言えるわけがない。
「なんとなく、です」
「なんとなく、か」
彼は嬉しそうに微笑んだ。
「僕も、なんとなくあなたが気になってました。入り口で子どもと話す姿が素敵でした。でも、その場で声をかける勇気はなくて」
え?
「哲学書のコーナーで時々見かけたことがあったので、実は先回りしていたんです」
今度は私が、本当に真っ赤になった。
私を優しいと思った彼。彼を知的だと思い込んだ私。
でも、誤解があったからこそ、私たちは話すきっかけを得られたのかもしれない。
「今度は、マンガでも読んでみようかな」
照れ隠しに私がそう言うと、彼の顔がぱっと明るくなった。
「本当ですか?じゃあ、もう一度書店に行きましょう。お勧めを教えますよ」
私は数冊の漫画を買った。
彼はニーチェを買っていた。
「せっかくだから」
そう言いながら照れ笑いする彼を見て思った。
(こんな出会いも、悪くない)
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