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これっきりですか?|アマノ文筆クラブ

親父の蕎麦屋を継いで一年。
ぎりぎりつぶさずに続けられている。

四十年、親父が一人で立ってきた店。
手伝いくらいはしたことがある。
けれど本気で覚えようと思ってはいなかった。
父も無理強いはしなかった。

常連の爺さんが、湯呑みを置いて言う。
「先代のは、もっとこう、香りがあった」

わかっている。わかっているんだ。
思い出せることは、すべてやった。
工夫もしてみた。
粉を変え、水を変え、こね方を変え。
それでも、あの味にならない。

途方に暮れて、親父の兄弟子だという人を訪ねた。
もう八十を超えている。山あいで、まだ一人で蕎麦を打っていた。

打ち方を、見せてもらった。
水を回し、粉をまとめ、練って、延して、切る。
特別な手つきも、隠し味も、何もない。

「秘訣は、何ですか」
私は、すがるように聞いた。
何か一つ、決定的なものがあるはずだと思っていた。

老人は、手を止めずに言った。
「水と粉を、よう合わせる。それだけや」

「……それだけですか?」
拍子抜けした。

「あんたに教えることは何もない」
老人は蕎麦を作り続ける。

あきらめきれずに私は聞いた。
「これっきりですか」

老人は、初めて手を止めて、私を見た。
「これっきりや」

そして、また蕎麦に向き直った。
「その繰り返しやで」

帰りの電車で、窓の外を見ていた。
親父は、死ぬまで、それだけをやっていたのか。

翌朝、いつもより早く店に立った。

これっきりを、あと三十九年。

水を回す。粉をまとめる。





甘野充さんの、アマノ文筆クラブに参加します。



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