栞|片想い文芸部
落とし物に気づいた僕は、図書館の返却ポストの前で立ち止まった。
足元に落ちている小さな栞。薄紫色の、手作りらしい栞。
拾い上げると、かすかに石鹸のような香りがした。
僕には、見覚えがあった。それは彼女が使っていた栞だった。
毎週火曜日の三限後、僕は図書館に向かう。彼女は、同じ時間に同じ場所にいる。窓際の席で、文学書を読んでいる。
栞を挟むときの、丁寧な仕草。ページをめくるときの、静かな集中。
僕は三つ隣の席で、勉強するふりをしながら、いつもその横顔を盗み見ていた。
栞を返そうと思った。
「これ、落とされませんでしたか?」
声をかける理由ができた。初めて話しかける、完璧な口実。
けれど次の火曜日、図書館に行くと、彼女はいなかった。
それから火曜日が来るたびに、僕は栞を握りしめて図書館に向かった。
でも、彼女はもう現れなかった。
引っ越しでもしたのか、時間帯が変わったのか、理由はわからない。
栞だけが手元に残った。
三週間が過ぎた頃、僕は気がついた。
僕に必要だったのは、きっかけではなく、彼女に話しかける勇気だったのかもしれない。
栞があっても、彼女が現れても、多分僕は声をかけられなかっただろう。
春が終わろうとしている。
僕は栞を本に挟んで、いつもの席に座る。彼女がいた窓際の席ではなく、三つ隣の席に。
今度は誰かを盗み見るためではなく、本当に本を読むために。
薄紫色の栞が、ページの間で揺れている。
新しい持ち主との出会いを喜ぶかのように。
これは拾った落とし物ではなく、僕のためのもの。
「話しかけるのに、理由なんていらない」というメッセージ。
ナルさんの「片想い文芸部」に参加させていただきます。
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2025/06/30 追記:
Trgr / カラストラガラさんが、「匠の言葉たち:トラガラの私設note図書館」に、この「栞」という小品を収録してくださいました。
Trgr / カラストラガラさん、ありがとうございます。
