暴政株式会社/ソーラブ・アマーリーと反メリトクラシー/ジョー・リトラーの書評/早稲田大学教授 中澤達哉氏...aaltoのちょほほ日記@2026.06.24
この書評を読んで漸く、新自由主義、リベラル(左派)、保守(右派)の違いとその新たな関係を理解した..ちょほほ。
結論を端的に書くと以下になる。
人間を市場原理主義のちっぽけな商品か部品にしか見ない新自由主義に対して、両者が最大限の包囲網を敷いているということではないか。リベラルと保守が市場の暴走を止めようと共闘する…以下略
これは、6/20の朝日新聞の書評 中澤達哉(早稲田大学教授 中・東欧史)で、次の二冊についてその、共通点を中心に論じている。。
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『暴政株式会社』 ソーラブ・アマーリ〈著〉 会田弘継・解説 寺下滝郎訳 東洋経済新報社 2860円
『反メリトクラシー 新自由主義と平等の神話』 ジョー・リトラー〈著〉 河野真太郎訳 人文書院 4180円
残念ながらこの2冊、隣町の図書館にありません。amazonで試し読みを始めましたが、内容は読み応えはあります。
「暴政株式会社」の冒頭は、そのamazonで如何に非人間的な職場環境で監視されて働いているか暴露されてます。
私たちは「政府による暴政」には敏感だが、生活の大半を過ごす職場や市場で、巨大企業が振るう「私的暴政」に対しては驚くほど無防備である。
トイレ休憩さえ秒単位で監視されるアマゾンの倉庫。転職や発言の自由を奪う不合理な雇用契約。利益のために破壊される地方紙や救急サービス。そして、法の抜け穴を使い、被害者への賠償から逃れる億万長者たち。
これらは一部の悪徳企業による暴走ではなく、新自由主義が政治を無力化し、市場を「無法地帯」に変えた結果生じた、構造的な必然である。
以下は中澤達哉氏の書評の引用です。
「リベラル」と「保守」は近現代を代表する対立的なイデオロギーである。急進的な社会変革を目指す自由派や革命派に対して、伝統や慣習の破壊を危惧する伝統派。両者は19~20世紀にそれぞれ、リベラル派・保守派として名指されるようになる。
時は流れて現在。新自由主義という共通の「敵」を前にして、図らずも両者が似た地平に立っている。この2冊を並べて読む醍醐(だいご)味はまさにここにある。現代の混沌(こんとん)とした思想状況や歴史認識を読み解く際の重要なポイントになるだろう。
両者の共通点は二つある。一つは、新自由主義が掲げる「頑張れば成功できる(メリトクラシー=能力主義)」や「労使は対等なパートナー(契約の自由)」という前提を茶番として一刀両断する点だ。『暴政株式会社』を著した保守派のアマーリによれば、現代の労働契約は対等ではない。それは、大企業や資本家が労働者を圧迫し、強制的に従わせる「私的暴政」に他ならない。一方、『反メリトクラシー』を執筆したリベラルのリトラーによれば、メリトクラシーは、構造的な不平等(階級、人種、ジェンダー)を隠蔽(いんぺい)し、敗者に自業自得と思わせるためのイデオロギー。新自由主義は、勝ち組の成功を「実力」と呼び、負け組には残酷にも「自己責任」のレッテルを貼り続ける。つまり両著とも、新自由主義の本質を、強者が弱者を支配するための偽装に過ぎないと喝破するのだ。
第2の共通点は、双方が新自由主義による人格的搾取を拒絶する点である。前者は、企業が自由な契約という名のもとに、家庭や休息を侵食し、伝統的な生活基盤が破壊されると危惧する。他方で後者は、新自由主義は、人びとに、自分自身が常に商品であることを強いるという。リベラルが警告する人間個人の市場化・商品化が、保守が懸念する家庭・生活の破壊と見事に符合しているのかもしれない。
本来、家父長制の解体を求めるリトラーの主張と、伝統的家族の保護を求めるアマーリの主張は交わるはずがない。だが、上記の共鳴からは、両者が経済効率などより、人間の尊厳に重きを置いていることが一目瞭然だ。
両者が同じ結論に至る背景には、まさにこの視点が存在する。つまり、人間を市場原理主義のちっぽけな商品か部品にしか見ない新自由主義に対して、両者が最大限の包囲網を敷いているということではないか。リベラルと保守が市場の暴走を止めようと共闘するほど、私たちは、深刻な時代に生きているのかもしれない。
