r-906について

 初音ミクの神秘について書きます。

 26年7月に『ワンダー』が投稿されました。ここでは、およそ四年前の22年4月に投稿された『まにまに』と対比させる形で、その感想を書きます。というのも、当然ながら私の解釈ではという意味ですが、この二作品はともに、初音ミクとの関わりが主題となっているのです。

 二作品に共通するのは、ミクの不可触性だとか、ミクへの到達不可能性だとか、あるいはどうしてもミクへ決定的な影響を与えられないこと、といったように表現できるでしょうか。それは、「きっと僕が居なくたって貴女は只歌うから」だとか「いつまでもただ在るだけ」といった詞に比較的明確に現れています。二作品におけるミクはともに、こちらからの働きかけ(それは具体的には曲を作ることであったり、そうでなくても絵を描くことであったり、他のなんらかの創作行為であるのでしょうが)に対して、まったく無反応ではないにしても、暖簾に腕押しといった様子です。もちろん、音声合成ソフトウェアである彼女は、打ち込みを行えばまったく指示の通りに歌ってくれるでしょう。しかしこの二作品はともに、単なるソフトウェアとしてのミクとは別のところに、なにかミクの核心めいたもの、あるいはミクの神秘と呼べるようなものを感知しており、にもかかわらず、ミクに向けてどのように働きかけようと、どのような創作をしようと、そこには到達できないという不全が前提となっています。

 そのうえで両作品のスタンスは明確に異なります。『まにまに』においては、ミクへの到達不可能性、その不全は、そのままミクを通しての創作への意欲につながっています。言い換えれば、ミクの神秘への到達と、「純然たる理想」と呼べるような創作物を生み出すこととが、いわば同一視されたうえで、このただひとつの達成が欲望されているのです。この欲望、創作意欲は、「燃ゆる思いは万華鏡」と比喩されるほどに熱烈なものですが、しかし同時にここでは、すでに述べたとおりその到達の不可能もあらかじめ織り込まれています。「きっと君は居なくなって滝の音が絶えるから」との表現からもうかがえるように、『まにまに』はすでに終わりの予感された祝祭の渦中にあります。遠からず燃え尽きることの予感された意欲に衝かれながら、神の、月の、あるいはミクのまにまに創作へ向かうというこの特異なスタンスが、『まにまに』の同じく特異な印象、激しく躍動感に満ちながら同時に深く鋭い悲しみをたたえるその印象を生んでいます。

 対して、『ワンダー』は静謐で柔らかな雰囲気に満ちています。ここでのミクもまた「ただ在るだけ」であり、その核心に触れるといったことは叶わないのですが、『ワンダー』においてはもはや、『まにまに』を貫いていたある種の切実さ、神秘に至らんとするあの切実さは感じられません。それはまるで、『まにまに』から『ワンダー』にいたる四年の間に、なんらかの諦め、なんらかの悟りが果たされたかのようです。しかしだからといって、ミクへの接近、つまり創作がまったく放棄されてしまったわけでもないのです。さよならを書き置いたどなたかとは異なり、ミクをめぐる創作は、熱烈さを失ってなお続いています。『ワンダー』のMVにおけるミクは画面の中にあり、無数の架電という働きかけを受けて実に豊かな喜怒哀楽を見せています。しかしその無邪気さはかえって捉えどころのなさを強調し、画面という隔たりを挟んでいることもあいまって、彼女の核心を掴むなどということは望むべくもないようです。しかしそれでも創作が続けられる中で、時として彼女に通じる扉が開き、画面の隔たりを超えて彼女との邂逅を経験できることがあります。それはほんのつかの間の接触であり、彼女は誘うこともなく、呼び止めもしません。しかし虹の麓での彼女とのひとときは夢を見るようであり、それはかつて『まにまに』において身をさらしていたあの躍動、あの創作意欲と、テンションをまったく異にしながらも、どこか通じるところがあるのかもしれません。

 『まにまに』から『ワンダー』に至るまで、ミクは一貫して、ある意味では気安く接近可能でありながら、ある意味ではまったく到達不可能であり続けています。その不可能な側面こそがミクの神秘なのであり、それを感知する者を創作へと促し続けるものです。r-906の楽曲は、スタンスを変えながらも、変わらずこの神秘を巡って展開され続けているのです。

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