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「はじめての」「さいごの」晴れ舞台

半世紀以上生きて、近頃は来し方を振り返る機会も増えてきた。人生を総括するにはまだ早過ぎるとは思うけれど、自分の歩みを確かめるために、そしてそれをあらためて記憶に刻みつけるために、ふり返りをすることが増えた気がする。
今年は特に、自分の仕事について考えることが多いが、このお題と出会って、子どもの頃からなりたかった職業について書いてみたくなった。その理由、すなわちその職業とこのお題「はじめての」「さいごの」がどう関係があるのかは、最後まで読んでもらえればわかるので何卒。

橋渡し

初めて外国語に興味を持ったのは、小学校高学年の頃。英語の学習教材のセールスマンが我が家にやってきた。十数万円もする教材のデモンストレーションにすっかり心奪われた私。今思えば3人子どもがいて家のローンもあり、教育費のやりくりが大変だったであろう状況で、よく買ってくれたなと思う。
その教材はかなり使ったと記憶しているが、その後中学校で初めて英語を教科として学んだときの先生が良かった。大学を卒業したばかりの新任の先生で、ノート整理の仕方も合理的でとにかくわかりやすく、面白いほどに理解できる授業だった。英語を「楽しいもの」だと捉えた私は、中学を卒業する頃までに英語を使った職業に就きたいと漠然と思うようになっていた。
だから高校で進路を決める時も迷わず外国語学部を選んでいた。英語学科は偏差値が足りず、別の言語科を選ばざるを得なかったが、外国語や文化になんらかの形で関わりたいと思っていた。二十歳の成人の記念に「日本と外国の橋渡しをしたい」というような抱負を何かのインタビューで語った記憶がある。

まわり道

就職活動先は、ホテル業界から始めた。当時のバイト先がホテルで、究極のサービスについて考える機会もあったのと、やはり外国からのゲスト対応に心惹かれたからだ。しかし、自分が心を砕いて提供するおもてなしに見合うだけの報酬が期待できないことがわかると、この業界を選ぶことに躊躇を感じていた。
そのうちに小売業界の会社説明会が始まり、卒論のテーマに小売経済を選んでいた流れで数社の面接を受けた。バブル経済の最後の年、とんとん拍子に採用が決まった。これが今思えばまわり道だったかもしれない。

新卒で就職した企業では海外進出のプロジェクトへの参加を夢見ていたが、もちろん社会人1年目のペーペーにそんな仕事が回ってくるはずもなく、まずは小売の最前線、即ち店頭での販売から修行が始まった。若気の至りでその修行の先が見えず、待てなかった私は3年目に諦めて自ら外国に出るための準備を始め、丸3年で退職して米国へ。日本文化の紹介をしつつ大学の語学研修にも参加し帰国。半年では大した語学力も身に付かなかったけど、そのささやかな力を失いたくなくて語学学校に通い始め、ここで具体的に目指したい道がはっきりした。それが通訳だった。

黒子の忍者

衛星放送などで同時通訳を見る機会があると思うが、あれは本当に人間技ではない。いや、勿論あれをやってのける人がいるのだから人間技なのだが、並大抵の技ではなく、忍者のような離れ業に思える。話し手の発した情報を脳内にキープするリテンション力、話し手の言わんとすることを一瞬で把握する理解力、出された言葉に最も相応しい訳語を選び出す語彙力、しかもそれを瞬時に出す瞬発力、聞きながら話すことができる同時処理能力…他にもまだまだあると思うが、これらの力を全て生まれつき備えている人はそうそういない。体育会系のトレーニングが必要なのだ。
私が通い始めた語学学校には通訳養成コースがあり(というかこっちがメインだった)、途中でこちらにコース替えした。帰国後すぐに派遣会社に登録し半年ほどで未経験ながら翻訳の仕事に就いたのだが、翻訳の仕事をしながら通訳学校に通っていた。
養成コースのクラスが進級していき、卒業する頃にとある期間限定の大型プロジェクトの仕事が運良く決まった。このプロジェクトではとにかく多くの通訳人材を必要としていたため、駆け出しにも関わらず採用してもらえたのはラッキーだったと思う。ここで初めて通訳として様々な経験を積ませてもらうことになった。
当然のことだが、会議などで通訳者は自分の意見を言うことはできない。発言者の発した言葉だけを相手に伝える。とは言え直訳すればよいということではなく、コミュニケーションが円滑に進むかどうかは通訳の技量に負うところもかなりある。経験の浅い通訳にはこの当たりの匙加減が難しいのだが、通訳が「黒子」と言われる所以はここにあると思う。

円形脱毛症とキャリアチェンジ

プロジェクトでの通訳業務は多岐に渡ったが、駆け出しの自分にはかなり荷が重いものもあり、業務が終わってあまりにも出来が悪く、自分の能力の至らなさに泣きながら帰ったこともあった。聞き取れない、把握できない、単語を知らない時にうまく対処する能力(ある意味ハッタリ)が通訳者には必要と言われることもあるが、ばか正直な私はこれが特に苦手で、しかも出来ない自分にいつまでも囚われる後ろ向きさ、気持ちの切り替えの不器用さも相まって、通訳には全く不向きな性格だった。そのせいか、ある日気がつくと10円玉ぐらいのハゲが頭頂部近くに出来ていた。同時期に毎朝のように腹痛と下痢に悩まされていたため、これはもう無理だと判断し、折しも当時募集のあったコーディネーター職に鞍替えしたのだった。
通訳の職務を全うすることができなかった私は、少なからず敗北感を抱えながら、その後プロジェクト終了まで仕事することになった。

最初で最後の大舞台

この大型プロジェクトが終わってからは、インハウスの通訳をすることはなかったが、それでも単発の仕事はお声がかかっていた。今思えばよく引き受けていたと思うが、やはり諦めきれなかったのだろうと思う。もう少し頑張ってみようか、そんな気持ちで受けていたのかもしれない。
そこへ舞い込んだのが、とある講演とパネルディスカッションの同時通訳の仕事。
今までやってきたのは逐次通訳だけで、同時通訳は訓練はしたことはあっても仕事としてやったことはなかった。初めての自分に務まるのか?とエージェントに確かめたが、ペアを組む相手(同時通訳は通常ペアまたはそれ以上の複数人でチームとして行う)が先生級のベテランとのこと。胸を借りるつもりで引き受けてみた。
この仕事の依頼から本番まで数ヶ月時間があったので、用語調べなどかなり長い期間準備作業ができた。頂いた報酬を準備時間で割ると、時給数百円ぐらいにしかならないほど準備には念を入れた。
迎えた当日。講演の方は原稿もあり、比較的滞りなくペアのプロともスムーズに仕事ができた。パネルディスカッションの方はやはりペアの方にかなり頼ることになった。
休憩時間中にこの先生級の方に通訳の仕事について色々とお話を聞かせていただいた。最後には励ましのお言葉まで頂いたと記憶している。結局その言葉に報いることなく、同時通訳の仕事はこれが最初で最後になった。
今は通訳の仕事から随分と離れてしまい、仕事で英語を使うことすら少なくなってしまった。けれど言葉や文化の壁は超えずとも、人と人の間を取り持つこと、人に何かを伝えることは、仕事として今も続けている。
人と人との橋渡し役として、言葉を駆使してコミュニケーションがスムーズに行くように働きかけ、上手くいった結末を見るのが私の喜びなのだと思いながら、これからもこの仕事を続けていこう。

(了)

地中海性気候さんの企画に参加させて頂きました。

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