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偽月の檸檬🍋第0話 苦いレモンの記憶(プロローグ)

あらすじ
18年前、月灯り祭の夜に消えた姉。
現場に残された「片方の赤い靴」と、血まみれで立ち尽くす初恋の少年。

時が止まったまま香水ブランドの社長となった早乙女澪の前に、刑事となったあの日の少年・九条怜司が再び現れます。
再会の舞台は、華やかな新作発表会で起きた転落死事件。現場には、あの日と同じ赤い靴が落ちていた。

「逮捕じゃない。逃がす」

互いを犯人と疑いながら、守るために「偽証」を重ねる二人の逃亡劇。
甘すぎるレモンの香りの裏に隠された、残酷で切ない真実とは?
白い嘘が読者を翻弄する、予想不能のサスペンスラブストーリー。

「甘さで隠せば、真実まで腐る」
あなたは、この苦い真実を飲み込めますか?

月ヶ浦の夜は、レモンの匂いがした。

海から上がってくる潮の匂い。

屋台の焼きとうもろこしの匂い。

金魚すくいの水の匂い。

そして、岬の上に広がるレモン畑から、青くて少し苦い匂いが降りてくる。

18年前。

月灯り祭の夜。

14歳の早乙女澪は、人混みの中で姉の背中を追いかけていた。

「姉ちゃん、待って」

澪が呼ぶと、葵は振り返った。

提灯の光が、葵の頬を淡く照らす。

葵は笑っていた。

「澪が遅いんやん」

「姉ちゃんが早いの」

「祭りの日は、少しぐらい走らな損やで」

葵はそう言って、また駆け出した。

浴衣の裾がひらりと揺れる。

足元には、赤い靴。

祭りの夜の中で、その赤だけがやけにはっきり見えた。

人の足。
屋台の影。
提灯の光。
砂利道。

その間を、葵の赤い靴が浮かんでは消える。

浮かんでは消える。

まるで、夜がその靴だけを覚えておけと言っているみたいだった。

澪は息を切らしながら、葵を追った。

「姉ちゃん、どこ行くの」

「灯台」

「また?」

「月灯り祭の日に灯台へ行かんでどうするん」

葵は振り返って、いたずらっぽく笑った。

「灯台の光が消える時に願いごとをすると、叶うんやって」

「ほんま?」

「ウソかもしれん」

「またウソ」

「でも、楽しいウソならええやん」

葵は屋台の前で足を止めた。

古い木の屋台。

そこには、小さなレモン飴が並んでいた。

黄色く澄んだ飴。

丸いもの。
月の形をしたもの。
犬の顔みたいに少し崩れたもの。

葵は月の形の飴を2つ買い、1つを澪へ渡した。

「はい」

澪は受け取る。

「ありがとう」

「ちゃんと味わって食べや」

「飴くらい味わうよ」

葵は笑った。

そして、少しだけ真面目な声で言った。

「甘さで隠したら、真実まで腐るんやで」

澪は首をかしげた。

「何それ」

「覚えとき」

「レモン飴の話?」

「レモン飴の話でもあるし、そうじゃない話でもある」

「姉ちゃん、たまに変なこと言う」

「たまにやない。いつも賢いこと言うてる」

葵は自分の飴を口に入れた。

澪もまねして、レモン飴を口に入れた。

甘い。

最初はそう思った。

けれどすぐに、酸っぱさが舌に刺さった。

目がきゅっと細くなるほど酸っぱい。

その奥に、もっと深い味があった。

苦い。

逃げ場のない苦み。

けれど、不思議と吐き出したくはなかった。

澪は飴を口の中で転がしながら言った。

「苦い」

葵は満足そうに笑った。

「それが本物の味」

「甘いだけの方がおいしい」

「澪はまだ子どもやな」

「14歳です」

「14歳は、まだまだレモンの皮を知らん年や」

「何それ」

葵は答えず、澪の頭をぽんと軽く叩いた。

その手は温かかった。

澪は、その手の温度を覚えている。

それが、最後になるとは思わなかった。

祭りの太鼓が鳴っていた。

ドン。

ドン。

ドン。

人々の笑い声。

屋台のおじさんの呼び声。

子どもたちの走る足音。

遠くで犬が吠える声。

それらの音が、灯台へ向かう坂道に入ると、少しずつ遠くなった。

灯台の方は暗かった。

提灯の数も減り、海風が強くなる。

月ヶ浦の海は黒く、白い波だけが岩に砕けていた。

灯台の光がゆっくり回る。

白い光が坂道をなで、次の瞬間には闇が戻る。

光。

闇。

光。

闇。

そのたびに、葵の赤い靴が見えたり、消えたりした。

澪は不安になった。

「姉ちゃん、もう戻ろう」

葵は足を止めなかった。

「もう少しだけ」

「なんで」

葵は答えなかった。

その横顔は、祭りで笑っていた姉とは少し違った。

何かを決めている顔だった。

澪は、その顔が嫌だった。

姉は時々、大人より大人の顔をする。

澪が知らないことを、ひとりで背負っているような顔をする。

「姉ちゃん」

呼びかけた時、風が強く吹いた。

灯台の下へ続く石段に、何かが落ちていた。

赤いもの。

澪は足を止めた。

片方だけの赤い靴だった。

葵の靴。

さっきまで姉の足にあった靴。

「姉ちゃん?」

返事はない。

祭りの音が、遠い。

灯台の光が回る。

白い光の中で、赤い靴だけが石段に浮かび上がる。

澪の口の中で、レモン飴が小さく割れた。

苦みが、舌いっぱいに広がった。

澪は石段を上がった。

1段。

2段。

3段。

足が震えていた。

海風が強い。

灯台の扉が半分開いている。

中から、甘すぎるレモンの匂いがした。

祭りの屋台のレモン飴とは違う。

レモン畑の青い匂いとも違う。

甘い。

甘すぎる。

作りものみたいなレモン。

その匂いを吸った瞬間、澪の頭の中が白く曇った。

「姉ちゃん」

声がかすれる。

灯台の中には、古い時計があった。

壁にかかった丸い時計。

針は、8時47分を指していた。

その時だけ、妙にはっきり見えた。

8時47分。

秒針は動いていない。

澪は時計を見つめた。

どうして止まっているのか。

いつから止まっているのか。

わからない。

けれど、その時刻が、胸の中へ釘のように打ち込まれた。

8時47分。

澪の時間が止まった音がした。

灯台の奥で、物音がした。

ガラスが砕けるような音。

男の低い声。

誰かの息をのむ声。

澪は足を進めた。

「姉ちゃん?」

白い光が回る。

その中に、少年が立っていた。

黒瀬ユウリ。

澪の初恋の少年。

同じ学校ではない。

けれど、月灯り祭のたびに会った。

レモン飴を酸っぱそうに食べる顔を、澪はこっそり好きだった。

無口で、少しぶっきらぼうで、それでも困っている子を放っておけない少年。

そのユウリが、灯台の中に立っていた。

両手が、赤かった。

血で濡れていた。

指の間から、血が落ちている。

足元には、砕けたガラス瓶が散らばっていた。

透明な破片。

黄色い液体。

甘すぎるレモンの匂い。

ユウリは澪を見た。

その顔は真っ青だった。

泣きそうなのに、泣けない顔。

何かを言おうとしているのに、言葉が出ない顔。

澪は動けなかった。

血。

瓶。

赤い靴。

消えた葵。

血まみれのユウリ。

全部が、ひとつの答えに見えた。

「ユウリ」

澪の声は震えていた。

ユウリは一歩近づこうとした。

澪は後ずさった。

「来ないで」

ユウリの顔が、傷ついたように歪んだ。

その時、澪の視界の端に、白い影が揺れた気がした。

白い服。

誰かの手。

灯台の外へ走る足音。

赤い靴ではない、小さな靴音。

でも、その記憶はすぐに白く濁った。

甘すぎるレモンの匂いが、頭の中へ入ってくる。

澪は口元を押さえた。

息が苦しい。

ユウリが何か叫んでいる。

「澪」

そう呼んだのかもしれない。

「逃げろ」

そう言ったのかもしれない。

「飲むな」

そう言ったのかもしれない。

でも、澪にはもう聞き取れなかった。

灯台の光が回る。

白い光。

闇。

白い光。

闇。

そのたびに、ユウリの血まみれの手が見える。

消える。

見える。

消える。

澪の中で、その手は犯人の手になった。

姉を奪った手。

葵を消した手。

澪の初恋を、恐怖に変えた手。

「姉ちゃんを」

澪は声にならない声で言った。

「姉ちゃんを、返して」

ユウリの顔が、白い光の中で壊れた。

次の瞬間、澪の記憶は落ちた。

水の中へ沈むように。

甘いレモンの匂いと、血の赤と、8時47分の時計だけを残して。

その夜から、葵はいなくなった。

遺体は見つからなかった。

靴は、片方だけが残った。

警察は何度も海を捜した。

灯台の周りも、岬の下も、レモン畑の井戸も調べた。

けれど、葵は見つからなかった。

死んだと言い切ることもできない。

生きていると信じ切ることもできない。

早乙女家には、不在だけが残った。

葵の部屋は、そのままになった。

机の上の本。

窓辺の白い花。

途中まで編みかけのマフラー。

青いカップ。

母は毎朝、その部屋の扉を少しだけ開けた。

「葵、起きなさい」

そう言いかけて、口を閉じる。

父は、食卓で新聞を開いたまま、何も読んでいなかった。

味噌汁は冷める。

焼き魚は箸をつけられない。

誰かが何かを言えば、葵がいないことが部屋の真ん中に落ちてくる。

だから、誰も話さなくなった。

早乙女家の食卓から、会話が消えた。

醤油を取る音。

椅子を引く音。

皿に箸が当たる音。

それだけが、家の中に響く。

澪は、自分の茶碗を見つめていた。

白いご飯。

味噌汁。

焼き魚。

母の手は震えている。

父の目は、澪を見ない。

見たら、葵がいないことを思い出すから。

そう思った。

いや、違う。

父も母も、澪を見るたびに、こう思っているのではないか。

どうして葵ではなく、この子が帰ってきたのだろう。

誰もそんなことは言わなかった。

一度も言わなかった。

それでも澪は、毎日そう聞いていた。

自分の息の中に。

母の沈黙の中に。

父の背中の中に。

生き残ったのが自分で、ごめんなさい。

その言葉が、澪の胸に根を張った。

レモンの木の根みたいに、細く、深く、抜けない形で。

ナギが澪を月灯り堂へ連れていくようになったのは、そのころだった。

「澪、店においで」

ナギはそう言った。

「うちで宿題し。パイ焼くから」

月灯り堂は、古い木の匂いがした。

紅茶。

バター。

レモンの皮。

窓辺の青いカップ。

ナギは澪に、いつも何かを食べさせた。

「食べ」

「いらない」

「いらんでも食べ」

「苦い」

「苦いもんも食べ」

「甘いのがいい」

ナギは黙って、レモンパイを少しだけ澪の皿に置いた。

「甘いだけのもんは、あとでしんどくなる」

その言葉に、澪は葵を思い出した。

甘さで隠したら、真実まで腐るんやで。

澪はパイを食べた。

甘くて、酸っぱくて、最後に少し苦かった。

その苦みを飲み込むたび、澪は泣きそうになった。

でも、月灯り堂では泣かなかった。

泣くと、ナギが困った顔をする。

ナギが困ると、葵がもういないことがまた大きくなる。

だから澪は、泣かずに食べた。

父と母は、少しずつ別々の場所に壊れていった。

母は、葵の部屋を毎日掃除した。

誰も使わない机を拭き、誰も眠らないベッドのシーツを替え、窓辺の花を絶やさなかった。

父は、葵の話をしなくなった。

葵の写真を見なくなった。

でも夜中に、廊下で立ち尽くしていることがあった。

澪が声をかけると、父はいつも言った。

「何でもない」

何でもない、という言葉が、早乙女家で一番重い言葉になった。

澪は高校を卒業すると、東京へ出ると決めた。

母は止めなかった。

父も止めなかった。

ナギだけが言った。

「ほんまに行くんか」

澪はうなずいた。

「うん」

「逃げるんか」

澪は答えられなかった。

ナギはため息をついた。

「逃げてもええ。でも、自分を置いていったらあかんで」

その言葉の意味は、当時の澪にはわからなかった。

澪は東京へ出た。

月ヶ浦の匂いから離れるため。

葵のいない家から離れるため。

父と母の視界から、自分という悲しみの象徴を消すため。

そして、血まみれのユウリの記憶から逃げるため。

でも、逃げ切れなかった。

澪はやがて、香りを作る仕事を選んだ。

なぜその道を選んだのか、自分でもよくわからなかった。

ただ、最初に作った香りは、月ヶ浦のレモンだった。

甘いだけではない香り。

酸っぱくて、最後に少し苦い香り。

その苦みを消そうとするたび、どこかで葵の声がした。

甘さで隠したら、真実まで腐るんやで。

澪は苦みを残した。

それがLUNEの始まりだった。

それが成功の始まりだった。

それが、18年前に姉が残した真実への、長い遠回りの始まりだった。

けれど澪は、まだ何も知らなかった。

ただ、あの夜の灯台だけを覚えていた。

赤い靴。

止まった時計。

甘すぎるレモンの匂い。

砕けたガラス瓶。

血まみれの少年。

そして、消えた姉。

その記憶を、澪は18年間、真実だと思って生きた。

苦いレモン飴を、ずっと舌の奥に残したまま。