沢田聖子『グッバイ・ロンリネス』聴いてみた(ベース弾いてみた)✱艱難辛苦を乗り越えた、"イルカの妹"は今…
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この曲は1986年4月25日に発売された14枚目のシングル曲
「Natural 〜素直に…今〜」
のB面に収録されています。
🎤沢田聖子(さわだ・しょうこ)という人物
1962年3月13日生まれ。中野区出身。
芸能活動はなんと生後11ヶ月から。
一歳上の兄が婦人雑誌のモデルにスカウトされ、カメラの前に立つうちに聖子氏もデビューする事に。
クリクリお目々の聖子氏は、あれよあれよと表紙を飾るようになり、気づけば5歳で渥美清の肩車で"CMデビュー"(胃腸薬「パンシ◯ン」)。

その後「月光仮面」や「鉄腕アトム」などのテレビ史を代表する主題歌を歌い、当時大人気子供番組だった
「ケンちゃん」シリーズの主演・宮脇康之氏のヒロイン役を演じました。

成長と共に子役の仕事が激減した所で持ち前の歌唱力を活かし、「スター誕生」や「ホリプロスカウトキャラバン」などのオーディション番組に片っ端から応募し予選通過はするものの、全て落選。
「審査員をしていた都倉俊◯氏に言われた言葉を、今でも良く覚えています。
"君はねぇ、コーラスの一人の声なんだよ。"
その通りだなぁと思いました。」
📞それは、一本の電話からはじまった…
落選に次ぐ落選で意気消沈していた聖子氏にある日、一本の電話がかかってきます。
「イルカの"妹"になりませんか。」
"なごり雪"のヒットで知られる
イルカ氏が産休の間、夫で事務所社長だった故・神部和夫氏が
「アイドル性のあるシンガーソングライター」
の新人育成の構想を立ち上げ、歌よりルックスを重視、数あるモデル事務所のプロフィールから聖子氏が選ばれ、晴れて"イルカのいる
事務所"へオーディションに向かいました。
しかし、聖子氏が当時所属していた子役事務所からは、
「夢は見るな。イルカのサインでも貰って帰って来い。」
冷たく釘を刺されたと言います。
当日、自慢の喉を披露するも
「まったく使いものにならない。声からビジュアルからすべてダメ」
当時聖子氏は15歳。
何と厳しい言葉でしょうか。
プロの世界では当たり前かも知れませんが、そこに救いの手を差し伸べたのが先の神部氏。
「ピアノが弾けるなら弾き語りはできないの? 来週聴かせてよ」
その後のオーディションも惨憺(さんたん)たるものだったが、神部氏には閃(ひらめ)くものがあったといい、
「きみが本当にデビューしたい気持ちがあるなら、半年後にデビューさせてあげる。練習してできるようになれば弾き語りで、だめならマイクを手に歌えばいい」
デビューに向け“イルカの妹”としてのイメージづくりが始まった。
ワンピースしか着たことのなかった聖子氏は"イルカよろしく"オーバーオールを着用させられ、
「トイレの度に胸ポケットから物を落として、拾うかどうか悩みました(笑)」

半年後の1979年5月、沢田は
『キャンパススケッチ』でデビュー。
スタイリストも付かず髪型も普段通りだった。
年一枚のペースでアルバムを発表。
楽曲提供曲も多かったが、聖子氏自身が作る曲の受けが良く、そこが神部氏の思惑通りだった。
「でも、私はあくまで素材で、神部さんの考える“沢田聖子”が徐々にかたちづくられていきました。私ではない私、虚像に戸惑いも覚えました」
ライブ終わりにはいつも、事細かにダメ出しが書かれたメモと録音テープを渡され、反省させられた。
強いプレッシャーに晒され、観客どころではなかったと言います。
"実力派"と同じステージに立てば、リハーサルの時点で萎縮。
「劣等感が常にありました。名前を知ってもらう為に学園祭にも沢山出ましたが、ヤジばかりで誰も聴いてくれないこともあり、悔しくてよく泣いてました」
これというヒットに恵まれない中、一人の「スーパーアイドル」が
デビューします。
🎤キラ星のように登場したアイドルの名前が…
聖子氏の"一年後"に登場したスーパーアイドル。
その名も
「松田聖子」。
沢田聖子氏が一年"先輩"であるにもかかわらず、
「(松田聖子の)人気にあやかって付けた名前だろう」
笑われたことも数知れず。
「同時期にデビューした人たちが次々にヒットを飛ばし、メジャーになっていくなか、ひとり取り残された気持ちでした。いい曲を書けたと思っても、売れない。もっとプロモーションしてほしいと思っても、認めてもらえない。自信をなくしていきました」
その頃、石川優子や久保田早紀などの"シンガーソングライター"が歌番組を賑わせていました。
ヒットを狙ってレコード会社を移籍して心機一転。
事務所の意向で派手なメイクに派手な衣装を着用する事に。
「これは私じゃない。」
売ろうとすればするほど、素の自分とのギャップに苛まれていきました。
プロモーターとして、当時を知る伊藤ひろみ氏はこう振り返ります。
「本人の意思とは関係なく、かたちを変えればヒットが狙える、もっと大化けするとの思惑がレコード会社にも事務所にもあったのだと思います。芸能界には裏表のある人が少なくありませんが、聖子ちゃんは素直で、地方の小さな町で歌う仕事もいとわずやってくれていました」
移籍後の第一弾である
『ターニング・ポイント』は、
『悲しむ程まだ人生は知らない』という21歳の女性にはいささか重たすぎるタイトル曲で始まる。
「デビューしてから、たくさん悔しい思い、苦しい思いをしてきましたが、悲しむほどまだ人生は知らないよなと考えて作った曲です。私のありのままの気持ちでした」
「彼氏とドライブして、沢田聖子の曲が流れたらその場で別れる」
世間一般も、音楽評論家からも酷評され、その一つ一つに深く傷ついていたといいます。
📚️レコード会社の打合わせで見たものは.…
いまだ悔しさが蘇るという出来事。
ある日、打ち合わせで会議室に行った時にふと目に飛び込んできたノートの文字…
「なぜ沢田聖子は売れないのか」
延々と社内の意見が書かれていた中に、
「スタッフにお茶を出すようでは、アーティストとしてのオーラを感じられない。」
目上の人にはきちんと挨拶する。お茶碗のご飯は1粒残さず食べる。幼少期からしっかりと躾を受けてきた事がまるで間違っているかのように感じられ、
「大人たちはずいぶんくだらないことを考えているんだなとがっかりして、“売れる”ってそもそもなんだろうと考えあぐねてしまいました」
移籍当初は売り出す自信のあったレコード会社も、スタッフが入れ替わるうちに沢田を持て余すようになり、マネージャーにも恵まれないようになります。
最初のマネージャーは恋人の家に入り浸り、仕事現場をすっぽかす事も度々あった。
「ポケットに300円しかないまま電車に飛び乗り、駅で待つ現地スタッフに立て替えてもらうこともありました。お弁当が買えず、おなかをすかせたままでステージに立つことも度々ありました」
「世の中でたったひとり、躓(つまず)いているようで強いコンプレックスを抱いていました。誰も私の良さなんて分からない。自分でもわからない。これ以上続けても仕方がないからすっぱり諦め、ニュージーランドでのんびりファームステイでもしようかと考えていました」
⚫️聖子氏に一大転機が…
「もう売れない」「沢田聖子は終わった」
当時誰からも見放され、絶望の淵にいた時に、救いの手を差し伸べてくれた一人の男性がいました。
唯一の理解者として、彼女の音楽の才能を認め、信じ続けてくれていた人物──
その人物とは、イルカの事務所に当時アルバイトとして在籍していた男性でした。(その後一般企業に就職。)
1988年、2人は結婚。
そこから聖子の父と3人で個人事務所を設立し、今度こそ心機一転、再起を誓います。
(聖子氏が社長を務め、父とその男性が取締役に就く。)
初めて心から信頼できる相手と二人三脚、深呼吸しながら音楽活動ができる。希望に満ちあふれた沢田は再出発のアルバムに『LIFE』と名づけ、幸せな新婚生活を予感させる歌で再スタートをきった…
はずだった…
💔" 救世主"はまさかの…
地道に活動を続けるが、なかなか成果がでない日々が続く。
数年もしないうちに、気づけばマネージャーでもあった夫は、聖子の仕事場に同行しなくなっていました。
「マネージャーを付ける程、お前は売れていない」
会社の金も夫が管理し、レコード会社から受け取った額も知らされず、聖子氏には月20万円だけが渡されていた。
そこから生活費や税金を納めていたといいます。
「お前を売るにはほかで稼ぐ必要があると言われ、夫は新人アイドルの育成などに力を入れていました。どうしてだろう、なぜだろうという小さな疑いがひとつ、またひとつと芽生えていきました」
聖子氏にとって嬉しくも有難いはずのファンクラブも違和感しかなかった。(夫が率先して結成。)
なんて事は無い、ファン心理につけ込んだ金儲けとしか思えない企画で、それが聖子氏にとって、とても嫌だった。
「知らぬ間に会社の登記簿が変えられ、社長が私ではなく、勤めをやめた夫になっていました。ベンツに乗っているかと思ったら、キャンピングカーも増え……。もともと音楽業界の仕事をしたかった夫の踏み台にされたのだと、さすがに気づかされました」
家に帰って来ないのは、忙しいからだと思っていたら、女性の影がいくつも出てきた。
この頃から喧嘩が絶えなくなっていた。
ライブの前日、体調管理の為に体を休めようと思えば
「話はまだ終わっていない!」
と布団を引き剥がされ、本番直前の楽屋でも怒鳴り続け、罵声に怖じ気づいた関係者は誰も近づけなかった。
2000年を過ぎたあたりからのアルバム『祈り』『心は元気ですか』『すべてに、ありがとう』『Peaceful Memories』
いずれも、聖子氏の病んだ心を如実に反映したタイトルだった。
泥沼の最後の3年間を経て、2009年、21年にわたる夫婦関係を解消し46歳で離婚。
🌈 46歳からの再スタート。
アルバイト覚悟で掴んだものは…
全ての所属から解放された聖子氏は最初は途方に暮れていたが、「居酒屋でバイトでもすればいい」
生来の楽観的性格から、今までは事務所やレコード会社におんぶに抱っこ状態だったが、程なく吹っ切れ、自分でライブハウスにアポイントを取るように。
離婚の腹いせに全ての写真を焼かれたり、
「沢田聖子を2度と使うな」などと、元・夫が至る所で触れ回っていたというが、どこのライブハウスも聖子のこれまでの逆境にめげず頑張ってきた姿を見ていた為、皆聖子を理解し、応援してくれた。
現在は昔からお世話になっているレコーディングアレンジャーの林有三氏(71歳)と、
「自分の歌を聴きたいという人が一人でもいたら、聖子さんは全国どこへでも駆けつけると言っています」
「その為に(最初は反対されていたが、)"ファンクラブ"を再ひ設立し、何とかやり繰りしています」と語る現在のマネージャー(51歳)の3人で、今も全国各地へ精力的にライブ活動を続けています。
「たくさん悔しい思いをしてきて、ようやく猿回しの猿ではない私になれました。すべては自分に必要な経験で、悲しい思いをしたからこそ強くならざるをえなかった。母に感謝。神部さんにも元旦那にも感謝です」
現在もラジオ番組やライブには、
デビュー以来のシングル全てを貼ったパネルを手作りするファンがいたり、寿司職人のファンは楽屋に差し入れをしたりする。
会場の受付や準備は古くからの友人が手伝い、雑用も本人自ら進んでやる。
その中には、とうの昔にレコード会社を辞めた先の"仕事仲間"だった伊藤氏の姿も。
「聖子ちゃんは努力と信念の人だと思います。歌うのがなにより好きで、ファンのことをずっと大切にしてきました。だからこそ消費社会のこの世の中で、ずっとやってこられたのだと思います」
🐬“イルカの妹”と呼ばれ、若いころは「清楚」なイメージで売っていたが…
実は正義感の強い姉御肌。
ズラリと並んだライブ後のサイン会では、それぞれの思いを話すファン達の人生相談にも。
かつて
「悲しむ程まだ人生は知らない」
と歌った沢田聖子氏。
さまざまな苦難を乗り越えた今の彼女は、人の痛みに誰よりも寄り添える、深みと強さを携えているのではないでしょうか。
『Natural 〜素直に…今〜』のB面に、しかもアルバムにさえ収録されずひっそりと、しかし確かに息づく素晴らしい曲との"出会い"という
今回の奇跡。
『グッバイ・ロンリネス』。
「彼女の人生にリスペクトを込めて、思いを馳せながら弾きました…」
なんて格好つけて言ってみたかった
ものの、ブログは後付けなので、何の感情も無く弾いてました💧
よろしければ動画の方も是非…
2026/07/25
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