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「正しい言葉より、生きたお話を。(7月27日)」

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《note》の街をのんびりとお散歩することは、私の日々の楽しみです。
タイムラインに流れる様々な言葉に触れる時間は、いつも新たな刺激に満ちています。

けれどもある日、とある記事の前で、思わず足を戻してしまいました。
そこには、「文章教室」で習うような句読点や語尾のルールが、さもありがたげに説かれていたからです。

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たとえば音楽の世界においても、学び始めの「一年生」のうちは、楽譜という決まりごとに忠実に演奏することが何よりも大切です。
そこは、基礎を築くための、大切な時間。

きっと文芸の世界でも、それは同じ。
"基礎"とは、大切な土台であることは間違いない。

けれど、ここ《note》で小説やエッセイに大切な想いを描かれているあなたは、もう「一年生」ではない。
人生の航路をたどり、確かな想いを抱いて、ここに言葉を紡ぎ残そうとされている。

そんなあなたに向けて、四角く整ったルールばかりを長々と説くことは、
そもそも「文章教室」を立てる場所が違うのではないか? と感じたのです。

「読み手が心からの"共感"を求めているのに、それには無頓着なまま、外見だけを整えようとしている。」

(「文章を磨く。」の真髄は"短く整える"こと。でも、"ひとは自分がかわいい"。だから文章に手を入れて、程よく削り落とすのは、まさにその身を切られるように痛い。おそらく創作という一連の工程の中で"いちばんの難所"なのではないか?)


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お堅い「定型」ばかりを整えようとするその先には、どこか、"その背後"で感情を持たないAIが、言葉を大量生産しているような、寂しい景色が透けて見えるのです。

外側を立派にしても、中身が「空」では寂しい。

平らに言葉を綴るなら、文章を整えること。
それは、お料理を盛り付けるための「器」を選ぶようなものかもしれません。

どれほど形の整った、美しい器であっても、そこに盛り付けられる
「お料理が美味しくない」のであれば、
それを味わう人を感動させることはできない。

技術やルールという綺麗な器を揃えることよりも、先にやるべきことがある。
それに気づいて欲しい。


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画面の向こうにいる「誰か」に届けたくて、迷いながら、それでも一生懸命に紡がれた言葉には、不思議な"ゆらぎ"と"愛おしい命"が宿ります。

読み手が本当に受け取りたいのは、その器の完璧さではなく、中に注がれた温かな心のカケラなのです。


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私自身、ピアノに向かうときも、こうして文字を綴るときも、いつも同じことを考えています。

「正しく弾くこと、正しく書くこと。」

その枠組みにとらわれて
「伝えたい想い」を置き去りにしてしまわないように。

これからも、不器用でもいいから、
心の奥にある「温かいもの」を、そっと器に満たして届けたいですよね。

今日も、良い一日になりますように。
(🎹MIYABI)

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