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今年のMVP: 文芸評論家・三宅香帆


このnoteは、三宅香帆さんへの公開ファンレターであり、一読者のエッセイみたいなものです。



三宅香帆は美しい。

三宅香帆は、彼女の生き様を表現し、発信している。その生き様と方法論が清々しく、残酷なほどに美しいのだ。

私は、そして多くの人もおそらく、美しさに惹かれる。その美しさは、完璧な正しさと必ずしもイコールではない。むしろ正しさは面白くないと言い切ってもいい。

ちなみに、三宅香帆は正しくないと言いたいわけではなく、彼女の魅力はそれとはまた違ったところにある。

( このあたりで一旦、前提として、私はいま三宅香帆を呼び捨てにしているが、もちろん敬意がないわけではない。三宅香帆は、「三宅香帆」というひとつの「現象」であり「事件」であることを主張しておきたいだけだ。実際、先日のシラス/ゲンロンの配信「考察ブームとは何か?──令和カルチャー徹底分析!」で、植田さんと三宅さんの間で「令和人文主義=三宅香帆」という合意も取られていた。 )

彼女は文芸評論家を自認しているが、私にとって彼女の存在はアーティストに近い。というか、優れた評論家には当然アーティストの素質もあるわけで、この2つは両立する。

三宅香帆は評論家でありながら、リリックを紡ぐラッパーでもある。これも前述の配信の中で、植田さんと柴さん(音楽ジャーナリスト)が強調していた点であった。

ラッパー、あるいはアーティストは、正論を歌うことでオーディエンスを魅了しているのではない。

Adoの「うっせぇわ」の歌詞に対して、「現代の働き方はそんなじゃない!認識が間違っている!」と誰も文句をつけない。当時17歳の少女が彼女なりに感じる「生活のリアリズム」があって、それに共感するオーディエンスがいて、それだけだ。

『なぜはた』も『考察する若者たち』も、私はそういうふうに読んだ。そしてどれも、彼女の言葉から滲み出る「生活のリアリズム」に心を打たれた。

隠し切れないオタクバイブスで流暢に論を展開する彼女の言葉は、右手から左手へ、するすると流れていく。心地良いテンポ。ブログ出身の生粋のオタクの所業であり、ラッパーたる所以である。

彼女の文章にはバイブスがある。エモがある。こういった「バイブス」や「エモ」といった定義の難しい言葉や概念が、一部から嫌われるのはわかる。たぶん「テクスチャー」とか「マインド」とかも同じように苦手でしょう。

それは別として、彼女の本は終盤になると、これがまた不思議なのだが、彼女の言葉は急に舵を切って、読者であるこちらに向かってくる。

「あなたはあなたのままで、今ここにいていい」と、不意に諭される感覚。

新書という特性上、生活の合間に一気読みしたり、ながら読みしがちなこともあって、彼女の文章は、読み手の生活感覚、もっと言えば人生感覚に、色濃い輪郭を与えてくれる。しかも不意に。

不意に聴いた歌を「あ、これ私の歌だ」と思う、ポップソングが持つあのインスタントな共感と救いの可能性が、三宅香帆の文章にはある。

全く理屈では説明できない。少なくとも私はそう感じているし、『なぜはた』の特大ヒットは、私のような読者が潜在的にたくさんいたことを炙り出したのだろう。SNSで「読んでいて涙が出ました」という感想が見受けられるのは、そういうことだ。

「いや、本を出している以上、◯◯であるべき...」という反論はあるだろうし、令和人文主義ブーム、もとい三宅香帆ブーム以降、そういった意見もたくさん散見されたし、私も極力見るようにした。たしかにそうだよな、と思う識者の発言も多くあり、出版業界に疎い私には、いろいろ勉強になった。

出版界、人文界に限らず、各人が各人の役割やポジションを全うするのは大事なことだし、意識的にやる必要もある。そうしないと文化も産業も続いていかない。だから、私はこの世の多くの書き手や編集者を、それぞれ違ったベクトルと尺度で尊敬している。

ただ、シャバいことはすんなよとも思う。


さて、ちょっと語気が強くなってしまったので違う話をすると、『なぜはた』に代表される彼女の作品(「著作」ではなく「作品」と言いたくなる)に何か物申したいのであれば、三宅香帆という人格について考えなければならない。というか、三宅香帆という人格から逃れられない。と、普段書籍よりも音楽や映画に多く触れている私は強く思う。

『なぜはた』や『考察する若者たち』を気持ち良く読めない人は、音楽批評や映画批評をするように読み直してみると、また違った印象を抱くのではないだろうか。

あー、また批評っていう厄介な言葉を使ってしまった。おしまいだ。けどもう少しお付き合いください。

三宅香帆という人物を捉えたいのならば、物書きという枠組みでもなく、当然アカデミズムでもなく、アーティストとして捉えるのが手っ取り早いと思う。少なくとも私はそうしている。

先日Xでもポストしたが、三宅香帆の作品、特に『考察する若者たち』からは、今年の星野源に近いものを感じる。

星野源は今年の新曲「Eureka」の冒頭で、こう歌っている。

息を吹き返した
私でいる日々が
動き出していた
知らない方に

星野源「Eureka」

あえて三宅香帆的な文脈で再解釈すれば、完全に「新しい推しに出会って衝撃を受けたオタク」の描写である。推しに会って生まれ変わったオタク。それこそ『推し、燃ゆ』的な。

これはさすがに冗談だとして、星野源はこうも歌っている。

君は うまくいくだろう
無責任な言葉でも
わからないもので

星野源「Eureka」

「君は うまくいくだろう」は、三宅香帆作品で特徴的な、読者への歩み寄りと肯定感を感じるし、「無責任な言葉でも/わからないもので」は、『好きを言語化する技術』で「自分の言葉をつくること」を提唱していた三宅香帆ならではの、文学的あるいは口語的クリシェとの絶妙な距離感(オタク文体も連続させて考えるべきだろう)と、言葉の非絶対性みたいなものを感じる。無理やり接続するならの話ではあるが。

三宅香帆は、自身が本当は考察よりも批評側の人間であることや、日本批評界の現状をふまえて、なんとも言えないもどかしさを作品に忍ばせたり、ときたま発信していたりする。

この塩梅が、世界を諦めて自分なりに希望を見つけようとする星野源の姿と重なる。彼の音楽(フォーク × J-POP(歌謡曲)× ブラックミュージックとでも言おうか)には「ステルス批評性」がある。特に『YELLOW DANCER』以降、それは顕著だと思う。『おげんさんといっしょ』や『星野源のおんがくこうろん』など、メディアを変えて音楽を発信する取り組みもしてきた。エッセイもラジオもそうだ。

三宅香帆も星野源のように、メディアミックス性(これはいわゆる令和人文主義の特徴でもある)をフル活用して、新書で、ポッドキャストで、YouTubeで、noteで、トークイベントで、どんどんと三宅香帆を広めている。人類の三宅香帆化。

そういえば、三宅香帆に物申したい系の人たちは、彼女の露出の多さを蔑ろにしている。活動量の多さはある程度までいってしまえば、それだけで才能でもある。それも付け加えておきたい。


少し時間を遡って今年3月、「討論倉庫 vol.0 いま人が一番集まるカルチャーはなに?」というトークイベントに、三宅香帆が登壇した。

私はその配信を観ながら、少しモヤモヤしていた。

「その答えは“三宅香帆”に決まっているだろう!」と思っていたからだ。

あのイベントからしばらく経って、立て続けに起こった令和人文主義問題、『なぜはた』問題、そして紅白ゲスト審査員の発表!!!!

ほら、だから言っただろう!!わらわらと人が集まってきたじゃないか!!


紅白ゲスト審査員おめでとうございます。

三宅香帆の今後に幸あれ。



歩いて 止まって
失くして 取り戻して
それだけだ

星野源「Eureka」

👆 覚悟が決まりすぎてて泣いた。



 自分なりの批評の文体を、探しにいきたい。
 批評にかかわるメリットなんてないかもしれない。が、それでも。批評にかかわるよ!それが私の愛だよ! 面白かったんだよ、あのとき読んだものたちが! と、心の中で誰かの投稿に唱える。愛だよ、愛! ばか! と毒づきながら、私はいつも通り原稿を書く日々に戻る。(p202)

三宅香帆『いま批評は存在できるのか』ゲンロン


「三宅香帆を盲信しすぎ」、「文芸の世界をわかってない」だって?

うるせー! 愛だよ、愛! ばか!

(おわり)

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